3話 密室殺人事件との戦い
Kが高校生探偵としての名声を確固たるものにしたのは、ある殺人事件を解決したことがきっかけである。
事件は春の大型連休の直前に起きた。殺されたのは会社員役員の八十代男性。第一発見者は被害者の身の回りの世話をしていた通いの家政婦で、定刻に男性宅を訪問したが玄関が施錠されたまま男性が応対に出てくる気配がなく、これまでにそんなことはなかったので男性が急病で倒れている可能性を考え、男性が契約していたセキュリティ管理会社に緊急通報して室内に入ったところ、男性が寝室にて死んでいるところに遭遇したとのことである。死後一日は経過しているとみられている。目立った外傷はなく、当初は高齢による突然死のたぐいと思われていたが、検死の結果、神経性の毒ガスの成分が体内より検出されたために事態は風雲急を告げたのであった。
「これは息子が怪しいんじゃないかってサダケン会のみんなでも議論してたのよ」
連休だということでKら一家はドライブも兼ねて親子三人で隣県のおいしい川魚料理を出すという飲食店へ向かっていた。果たして道路はすさまじく混んでいた。しかしKの母は「これが連休の醍醐味でしょ」とあくまでポジティブだった。運転はKの母が担当して、Kの父は「お父さんは徹夜明けで死ぬほどきつい」といって後部座席にまわると、すぐに大口を開けて眠り始めた。それを横目にKの母は「お母さんは学生のころから宿題とか計画的に済ませるたちだったのよ」と不敵な笑みを浮かべた。
ところでサダケン会というのはKの母が所属しているハンドクラフトとかガーデニングとか俳句とか料理とか、ともかく様々な趣味ないしは文化活動を行う団体であり、要は地域に住むおなじぐらいの年代の仲良しグループである。月に一度は会合と称して市民交流センターの会議室を二時間借りて、果てのない雑談を繰り返して会員同士の交流を深めている。
ちまたではほかに大きなニュースもないのか、ラジオから流れるニュースは高速道路の混雑具合、行楽地の混雑具合、それからくだんの会社員役員殺人事件のことばかり伝えていた。ここ数日、テレビとラジオのニュースはその話ばかりである。朝から車内でラジオを聞き続けたKは、ものおぼえのよくない身なれど、さすがにかかる事件の概要をしっかり頭に叩き込まれることになった。
Kは母のおしゃべりに相槌を打ったり茶化したり流したり冗談をいったりして時間を過ごした。車内での母との会話は、脳でむずかしく考えなくとも反射的に応対できるまでに体に染みついた習慣ともいえた。
ラジオからのひかえめで客観的な情報と、母からの独断と偏見にもとづく主観的な情報によれば、殺害された会社員役員の息子は多額の借金を抱えていてにっちもさっちもいかなくなっているそうである。会社員役員の妻は既に故人とのことで、遺産はそっくり息子にわたることになる。であれば血のつながった父親とはいえ手にかける動機として十分ともいえる。
「しかも父親と息子は普段から仲が悪かったっていうんだから、これはもう息子が犯人に決まってるでしょ」
というのがKの母ならびにサダケン会員一同の見解だそうである。いかにももっともらしい話であり、テレビのワイドショーのたぐいでは明言はせずとも言葉の端々で「そうに違いない」とほのめかすコメンテーターもいた。
しかし現時点で解決されていない問題として、被害者の自宅はしっかりと施錠されていたということがある。この点はセキュリティー管理会社がかなり強く訴えていた。今後の商売に差し障りがあるのか、わざわざ社長が記者会見を開いたほどである。社長に同伴した会社の顧問弁護士は「一つの可能性として」と断った上で、自殺であるとか、管理会社があずかり知らぬところで秘密の出入口をこしらえていたとか、なんらかの仕掛けを使って現地に不在のまま殺害に至ったとか、いずれでもなければ魔術でも使ったのではないか、と主張していた。
「そこはお母さんもサダケン会の人たちも結論が出てないわけ。まあ、いわゆる密室殺人ってやつでしょ。実際あるものなんだねえ、こういうのって」
Kの母はいっこうはかどらない渋滞になどまるで頓着せず、会社員役員殺人事件について持論を展開した。どこで情報を仕入れてきたのか、役員の息子はまだ二十代であり、ということは役員が歳を取ってからようやく授かった子供であり、であれば尋常ではなく甘やかされて育てられたことは想像にかたくなく、そういう人間がいい歳をこいて仲をしくじるととんでもない軋轢を生むのだそうである。
疑惑の渦中にいる役員の息子のご尊顔を拝んだことはないが、顔にぼかしが入った画であればテレビ局の取材を受けているシーンをKも幾度か見かけたことがあった。随分と高そうな服飾(Kの母はそのセンスを酷評することをわすれなかった)をお召しやがりになって、随分と高そうな車々をはべらせていた。あれだけ金があってもまだ金に不自由するというのだから、金と欲はあるところにはいくらでもあるものだとため息が出たものである。
目的地まで行程で半分ぐらいのところでトイレ休憩も兼ねて道の駅に入った。Kの母は道の駅とか物産館が好きで出先で見かけたらだいたい寄りたがった。
「当然それもたのしみの一つ」
なのだそうである。
案の定、道の駅も混んでいた。警備員が八面六臂に縦横無尽で鬼神もかくやと駆け回り立ち回り、声を張り上げ、誘導灯を振り回して、一台でも多くの車をどこかに停めさせることに全身全霊をかけていた。彼に任せればあと百台ぐらいはどうにか入りそうな気すらしてきた。
Kがトイレから戻ると、Kの父が車から起き出ていた。魔法瓶に入れて家から持ってきた死ぬほど濃いコーヒーをしかめ面してすすっていた。Kが近寄ると気持ちの入っていない口調で「飲むね?」と慫慂してきたが謹んで遠慮した。常人が不用意に経口摂取したならば、舌が激しく痙攣収縮して、吐き気を催し、胃が裏返るような代物なのだから尋常ではない。
老若男女がいた。犬もいた。鳥も飛んでいった。だれもがおだやかでうわついてたのしそうにしていた。為政者が見れば世の泰平さに大喜びしそうな光景だった。Kら一家もその一片にきちんと納まっていた。
Kは育ち盛りで溌溂とした若人らしく、世の平静にわずかな退屈さを認めていた。この人々らはなんの目的があってわざわざ混んでるに決まっているところに飛び込んできたのだろうかなどと考えた。自分たちのことは棚にあげて。
そのとき、Kは突如として猛烈な違和感を、あるいは強烈な注意のポップアップを知覚した。真っ暗なテニスコートで点滅を繰り返すLEDのような、どれほどの努力をもってしても決して無視できない意識の誘導を浴びた。
すぐさま発信源を確認すると一人の男に焦点が合った。年齢は二十代半ばだろうか。どういうお店で売っているのか聞きたくなるような変なデザインのシャツを着ている。もっかのところ、一本八百円の牛串をかじっているやつであった。
超能力がもたらす名状しがたい感覚が、視線でとらえている牛串男は紛れもなくちまたで話題の会社員役員殺人事件の犯人であることを強迫的ともいえる衝動を伴ってK自身に告げていた。しかしながら、いつぞやの空き巣の一件を思い出せば軽はずみな行動は躊躇された。見ず知らずの他人にいきなり犯罪者扱いされれば人はいちじるしく気分を害するものであることを学習していた。そもそも我が身に置き換えてみれば容易に想像できることであった。いわんや人殺し呼ばわりをや。
「あら、あの人って確か例の息子じゃない。こんなときにたいしたタマねえ」
Kが呆然と視線を固定していることに気づいたKの母は、何か興味を引くようなことでもあるのかとおなじ方向を自然と見渡した。するとただちにKの母は意外な人物の存在に気づいた。
どこかで見たことがあるような人だったからとKが話すと、Kの母は「あの強烈なセンスは、そりゃあね、一目見ればおぼえるね。ンフフ」と大変うれしそうに調子を合わせてきた。Kの父は話題の男が乗ってきたらしき車をちらり一瞥すると瞑目し、車種を告げると続けてその車の性能とか開発の背景とかをうんたらかんたらしゃべりまくった。Kの母がよくそこまでおぼえてるねとおだてると、Kの父は「仕事でおぼえる」と素っ気ない返事ながらもちょっとうれしそうに頬をゆるめた。
Kの超能力は持ち主に対して一秒でも早くその能力の結果を世に披露することを迫っていた。頭の中で暴風が吹き荒れているように錯覚して、その擾乱を一掃するべく大声で「みなさーん、人殺しがいまーす」と叫びたくてしかたがなかった。しかし会社役員の息子が気分を害することを警戒して、どうにかKはこの試練に耐えた。
何事もなくKらを乗せた車が再び目的地へ向けて走り出した。Kの父はコーヒーの甲斐もなく気絶するように眠りに落ちた。Kの母はトイレがきれいだったことをしきりに褒めていた。家族水入らずのプライベートな空間である。すぐさまKは母に、あの息子が犯人であると自分は思うのだがどうだろうかと話した。
そしたらKの母は「でしょでしょでしょ」という発言を口火に、猛烈な勢いでしゃべった。一を聞いて十では足らないぐらいしゃべり倒した。その内容を掛け値なしにうのみにするならば、役員の息子は裁判でみじんの反省のそぶりも見せず、刑務所でも不遜な態度を繰り返し、挙句、長期にわたって懲罰房に叩き込まれた末、四肢に障碍が出て、いまではびっこを引いてる有り様なのだそうである。実際の当人は全くぴんぴんしており、牛串に飽き足らずおにぎりを元気に食べているところであるのだが。
「そういうふうになるに決まってるでしょ」
とKの母は満足げに言葉を結んだ。
やはりそういうものなのだろうとKが得心しかけたところで、いつの間にか目を覚ましていた父がのっそりと口をはさんできた。
「お父さんはそういうの、あんまりよくないと思うけどなあ」
Kの父は濡れタオルで顔をぬぐっていた。さっきの道の駅でこしらえてきたらしい。
「お父さんも被害者の息子があやしいとは思ってるけど、でも、やっぱり物証がないと。客観的事実に基づくような」
Kの父はデータ解析屋である。数値になったデータならおよそなんでも調査・解析して、依頼主をおおいに満足させるのが仕事である。企業や研究機関だけでなく、Kの父の父の平米の縁故もあって警察からもたびたび仕事を依頼されていた。今朝まで続いていた仕事というのも、実はKらが話題にしている事件に関するデータの調査だった。依頼主の警察からなるべく早く(警察は常にその注文をつけていた)とせっつかれていたので、連休前にえいやで片づけてきたところであった。
Kの父が自白の鬼と呼ばれた自らの父である平米のことをどう思っているのかは定かではないが、少なくとも第三者からの目ではお互い平穏な親子の関係に見えていた。
だが、Kの父は平米に面と向かって議論を持ち込んだり反撥したりすることはなくとも、職場のスタッフには常々、
「人間は善意にせよ悪意にせよ嘘をつく生き物であるし勘違いもある。バイアスもかかる。我々はデータの純客観的な声にのみ耳を傾けなければならない」
と檄を飛ばしていた。
Kの父は経済学部で学んだ。ありきたりな学生生活を送り、四年生になって研究室配属の段になったが、とりたててやりたい研究テーマも持っていなかった。ほかのほとんどの同級生らとおなじように、ただ楽に卒業できればいいと考えていた。
研究室配属のオリエンテーションが開かれたが、ごく一部の意欲的な学生を除いて残りのやつらはくじびきで研究室を決めあった。Kの父が当たったのは応用心理計数研究室とかいうところで、研究室を治める教授の誰原については授業等での接点もなく、それまでになんの印象も抱いていなかった。
「きみたち、データは好きかい?」
配属初回のミーティングで、誰原は集まった学生たちに開口一番そう尋ねた。学生たちはキツネにつままれたような顔をして「はあ」とか「やあ」とか気のない返事をした。学生たちは目の前の教授殿がなるたけめんどうなことをいわないで欲しいということにしか関心がなかった。
「ハハハ、まあ、いいよ。私だってこの分野がおもしろくなるまでに十年かかったんだ。一年のつきあい、お気軽にいこうじゃないか」
誰原は学生に興味も期待も抱いていないようだった。研究テーマを与えて一通りの説明をすると、あとはまるっきり放任してきた。質問をすれば丁寧に説明したが、学生から聞かない限りは何もいわないでいた。進捗報告でゼロ回答を続ける学生がいても「ああそうですか」というだけであり、そんな状態が淡々と夏まで続けばいかに不真面目で能天気な学生どもも「これで本当に卒業できるのだろうか」と焦りと不安を覚え出し、とうとう自発的に研究に取り組むに至ったのである。もっとも、誰原はかような事態を全く意図しておらず、単純に意欲の低い学生に研究を強いることに疑問と疲れを感じて、自分が楽をしたいがための行為であった。
夏もやや過ぎてぼちぼち衣替えを始めたころのことである。その日、Kの父は何かの事情(いまとなってはもう思い出せないが)で珍しく研究室に遅くまで残って研究をしていた。
Kの父が与えられたテーマはトランジスタラジオの雑音を聞いて、それから乱数を作ってみましょうというものだった。世の中のなんの役に立つのかは想像もつかなかったが、それで卒業できるのなら少なくとも自分には役に立ってくれるのだと解釈した。
ラジオをでたらめな周波数にチューニングして、ザーッという音を聞く。感じた波形を方眼紙に描き出し、マス目を数えて波形の値を数字にするという行為を延々と繰り返した。最初はものの数分で頭がおかしくなりそうな気がした。が、案外すぐ慣れた。一週間もすると目を閉じるだけで頭の中でザーッという音が聞こえてくるようになった。研究に没頭すると雑音が成す無限の深さの粒に意識がすりまぎれていき、世界から自分が消えていくような倒錯的な恍惚を感じることもあった。
ドアがきしむ音でKの父は我に返った。振り返ると誰原が立っていた。
「やっとるなあ」
部屋の電気がついていたから戸締りのつもりで来たところだという。誰原は雑音を発するラジオをいとおしげに手に取り、しみじみ眺めた。
「雑音にはなんでも入ってるんだ。周波数だけじゃあない。シェークスピアだってゲーテだって入ってる。いいや、ずっとむかし、この宇宙ができたときから今日まですべての出来事ですら入ってるんだよ」
研究として雑音が自らの生涯を捧げるにふさわしい相手であることに誰原が気づいたきっかけは、彼がまだ博士課程の学生のころの一件だそうである。
そのころ、誰原は海外の大学でいまとはぜんぜんちがったテーマの研究を行っていた。毎日、遅くまで研究を行ったがうまい結果を得られないでいた。異国の地、真っ暗で心細い夜が続いた。どこまでも孤独だった。世界に自分一人だけが取り残された気になり、そんなときはラジオの深夜放送をあてもなく流して、いま起きて活動している他人の存在に安らぎを求めるのだったた。
寒い冬を迎えて、世間はクリスマスムードに浮かれていた。誰原は弱々しい明かりのもとでさびしく研究データと戦っていた。望みの結果を求めて数字をいじくりまわしていたが、どうしても交互作用が有意にならなかった。
暖房の効かない部屋は底冷えがした。体中の骨々が校庭で野ざらしにされている鉄棒のようだった。そもそも実験デザインがまずかったのだろうか? しかしいまから計測をやり直す時間も費用もない。どうにか、結果を出さなければならなかった。
――いつのまにか誰原は机に突っ伏して居眠りをしていたらしく、ハッとなって目が覚めた。頭痛と吐き気がした。放送時間が過ぎたのか、ラジオからは無機質なホワイトノイズしか聞こえなくなっていた。まともな人間は帰っておうちでゆっくり過ごしているのだ。不毛の地に一人取り残されて、だれに看取られることもなく餓死していく様相が脳裏に浮かんだ。
死んだほうがましか、誰原は本気でそう思った。自分はこんなところでこんなことをできる人間ではなかったのだ。引き返すにはあまりにも遅すぎた。いまさらほかの人生なんて想像ができないし、学問に身を捧げられないのであれば生きていてもしようがない。
そのときのことである。ふと、どこからか音楽が聞こえることに気づいた。聴覚に多大な注意を向けなければ聞き漏らしそうなひっそりとした音量だった。
(BGM: Last Christmas)
音のもとは外でも隣りの部屋でもなかった。ラジオからのザーッという音に紛れて、波に揺られて見えたり沈んだりする浮木のように、おぼろげなメロディが聞こえるのだった。クリスマスなんてとっくにわすれたはずの誰原の傷心を慰めているように思えた。
「わかった、ノイズだ! このデータはまだまだいじめられる!」
このとき、誰原は自分の脳細胞に全く新しい回路が突如としてつながった感覚が確かにあったという。脳内にスパークが飛び散り、視界に映る像の輪郭がギラギラと輝き、データに気の向くままにノイズを叩き込んで計算した端から数字たちがノートを抜け出し走り回り、それを捕まえてはそろばんですりつぶしてマグカップに入れてコーヒーと一緒に飲み干し、眠気覚ましにアンフェタミンとメタンフェタミンのブレンドをキメて、長い夜を抜けた末、気づけば誰原の手元には一点の曇りもない瑕瑾なき解析結果が完成していたのだそうである。
「わかるかい? いまだって私はそのラジオからすばらしいお芝居の声が聞こえているよ」
誰原の昔話はKの父というよりかは、ラジオの雑音に聞かせているようだった。この老教授が山奥から数百年ぶりに人里に降りてきた仙人か何かのようにKの父には思えてきた。
Kの父は就職を翻意して大学院へ進学することにした。誰原は「ああ、そういうのもいいですね」とだけいった。どこか心ここにあらずといった風情で遠い目をしていた。
大学院に上がっても誰原の指導はあいかわらずだった。Kの父はこの仙人様から一本取ってみたく、研究に、データをいじくり倒すことに心血を注いだが、どれほどの結果を見せられても誰原はおだやかに「結構ですね。興味深い」とかいうばかりであった。
修士課程の二年間は瞬く間に終わった。学生時代最後の日、Kの父が恩師の居室へあいさつに伺うと老教授は何やら奇妙な絵柄の織物をしげしげ眺めていた。随分とその行為に没頭しているらしく、何度かKの父が声をかけてもすぐには誰原は反応しないでいた。
「ああ……うん……。やあ、ご苦労さん。研究はたのしかったかい」
Kの父が自信をもって肯定すると、誰原はご満悦な表情を浮かべた。世の中のあらゆる事象を泰然と受け入れるような感があった。
「If you torture the data long enough, it will confess to anything.(拷問にかければデータはなんでも吐く)」
唐突に誰原は英語でうわごとのようにしゃべった。Kの父はこの仙人が外国で過ごしていた経歴もあったことをいまさら思い出した。わからないものだ。
「あなたは私にはもったいないぐらい、素敵な研究者でしたよ」
誰原とはそれっきりとなった。
修士号を取ったKの父は化学工場で勤めたが数年で退職、会社を起こして現在に至る。Kの父によって「真実」を告白したデータの数もやはり未公認ながらギネスブックに掲載されてもおかしくはない。
そんな世界屈指のデータ拷問屋にさまざまな秘術を仕込んだ偉大な師は、定年を迎えると退官記念パーティーで「青い鳥を探してくる」と周囲に宣言、退職金を握りしめて南米にわたり、最期は小さな村の安宿でオーバードーズで死んだ。死体は現地の無縁墓地に壊れ切ったラジオと一緒に埋めらた。
日帰りの家族旅行から帰った次の日、Kは祖父の家を訪ねてくだんの会社役員殺害事件について話を聞いてみた。
「じいちゃんもあの息子があやしいとは思うわ」
今日の祖父とその知合いらは手本引きで遊んでいた。これは麻雀とは違って「大人の遊び」だそうで、Kはやらせてもらえない。
Kはあの息子をどうにか逮捕できないかと訴えてみた。あれが決着しなければ、Kの心でくすぶる強迫観念が落ち着きそうになかった。
「うーん、そら、できることならやりたいけどねえ……。あの息子は隣県に住んどるらしいし、いろいろと慎重さが求められる世の中になったからなあ……」
Kの祖父は刑事の仕事を定年まで無事に全うできたわけではなかった。彼はあまりにも被疑者たちを殴り過ぎた。Kの祖父によって解決した難事件も多かったのだが、それを帳消しにするぐらいに問題を作ってしまった。最後は強要罪、脅迫罪、暴行罪、傷害罪、特別公務員暴行陵虐罪、とか、そういった罪でややこしいことになった。
「署長、つまり私はクビだと」
「私もがんばったんですが……、どうにも。すみません」
「いえ、いいんです。ようやく、重い荷物を下ろせるといった気分ですよ。そうだ、どうせクビになるんですから、ついでに署のお荷物も処分しときますよ」
それで、Kの祖父は署で発生していた不正経理、公文書偽造、公金横領、収賄、遺留品紛失、その他いろいろな罪状を一手に引き受けて盛大に懲戒免職となった。最終的にどんな取引きがあったのかは闇に包まれているが、罰金と執行猶予で済んだのは奇跡だといわれている。
「でもまあ、Kちゃんがどうしてもっていうなら、ひとつかっこいいところでも見させてもらおうかね。というわけだわ、ロボ、私の孫のために万事良くはからってもらえませんか」
Kの祖父にあだ名で呼ばれたのは若い男だった。この家で数回見かけたような気もするがあまり心当たりのない顔だった。ロボは手本引きには加わらず、隅っこで三人麻雀に興じていた。話を振られることを全く予想していなかったらしく、Kの祖父からの不意打ちにロボは「んんっ!」と変な返事をした。
「もちろん無理にとはいわんがよ」
「いや、ややや、できますって。やだなあ、ブルさんの頼みじゃないですか。そりゃ、こっちからやらせてくださいって頭を下げますよ」
このロボという若い男は刑事なのだが、住宅街でなんとなく発砲してみたら民家の窓ガラスをぶち抜いてしまい、その不祥事をKの祖父が退職ついでにかぶってくれたという経歴の持ち主であった。だからKの祖父には足を向けて寝られない。ロボというあだ名は辞令式でロボットのような動きをしたからだとも、表情が顔に出過ぎるたちですぐにボロを出すからだともいわれているが、いまとはなっては定かではない。
「それはありがたいわね。だらよろしく頼みます」
「はい、了解!」
溌溂とした掛け声とともにロボは牌を威勢よく捨てた。そして子の四暗刻単騎に振り込んで飛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます