2話 密室殺人事件との戦い
「犯罪者の考えることなんざ理解できんで当然だわ」
おっさんを告発した次の日、Kは祖父の家で麻雀を打っていた。Kのみが赤ドラあり、一発振込みなしのハンデをもらっているのに加えて、負け分の九割は祖父が肩代わりしてくれる気楽なテンゴ麻雀である。メンツはKと祖父、それから祖父の麻雀仲間が若干名といったところである。
南二局、Kはトップから一万点ほど離された三位だったが、そんなことはこの話の本筋とはわりとどうでもよい。Kが祖父に一連の顛末を話すと、元刑事の祖父は「えらい」と感心しきりにうなずいた。
「けどまあ、次そういう機会があるときはま少しうまくやってもよかんべ。たまさか身内が近くにおったからいいもんを、おらんだらややこしい話になっとったよ」
Kは四巡連続で中張牌をツモ切りしたトップのダマテンをやや警戒して混一色のリャンシャンを崩し気味に安牌を切りつつ、祖父に犯罪者の罪を暴く一番効率的な方法はなんだろうか、と人生の半分以上を正義の職に捧げた人間に尋ねてみた。親が發をツモ切り。これを最下位の麻雀仲間の男が「二枚目か」と小さくつぶやいてポン。
「そらね、そらもう自白が一番だあね。自白は証拠の女王だから。自白こそがあらゆる犯罪をあますことなくつまびらかにする最良の手段だわ。動機も凶器も証拠も当事者に全部しゃべらせるのが一番まぎれのない確実な方法だよ」
祖父がダマでイーペードラ1を振り込ませて上がった。だからどうだということもないが。
Kの祖父はその発言が示すように、あらゆる犯罪は犯人からの自白で解決すると信じていたし、公職を解かれたいまでさえその考えは揺るぎないものであった。
Kの祖父は名を平米(へいべい)といったが、職場では「ブルさん」の通り名で呼ばれていた。垂れ気味の頬がブルドッグを彷彿させるからだとも、巨体がブルドーザーのようだとも説明されることもあるが、実際のところは「Brute(ブルート)」から取られたものだった。平米は被疑者を容赦なくぶん殴りまくることで内外でも有名な男だった。
平米は手のつけようもない粗暴な人間なのだろうか? 血も涙もない人でなしなのだろうか? とんでもない! 彼は心根のやさしい男で、身内には手を上げたことはおろか機嫌が悪いところを見せたことすらなかった。職場でも地位や年齢を問わずだれにでも物腰柔らかく接するのだった。
しかし取調べでは全くの別人のようになりその手法は苛烈さを極め、殴ったり蹴ったりなんてほんの序の口、夜討ち朝駆けなんのその、シャリ上げだってお手のもの、水責め(ウォーターボーディング)の技術を磨き上げた挙句、他国の工作機関が平米に教えを乞いにやって来るまでになった。水責めの鮮やかな腕前を評して「よっ、CIA仕込み」などと同僚に冷やかされれば、照れ隠しにはにかみながらも「ハハハ、おれが連中に仕込んでやったんだわ」と答えるのであった。平米によって「真実」を告白した犯罪者の数は未公認ながらギネス記録に違いないと業界ではうわさされていた。
駆け出しのころ――まだブルさんとは呼ばれていなかったころ――平米も自白を引き出すことに異常な情熱を傾けることはなく、物的証拠をもとに理詰めで、時には被疑者の情に訴えて、事件を明らかにすることを試みる良心的ともいえる刑事であった。元来が温和な気質の人間であり、時には上司を相手に強引な取調べをたしなめることすらあった。
彼を自白の鬼へと変貌させたのは一つの事件がきっかけである。
そのころ、平米の署はある過激派組織の活動に頭を悩まされていた。過激派の連中は一般人には難解な理想を掲げ、大企業を標的として、企業役員の自宅にダイナマイトを仕掛けたり、その家族をさらって身代金を要求したりしていた。
組織のメンバーや連中の潜伏先も判然としない暗い日々が続いた。おそらくあの界隈のやつらだろうという目星はあったが、確たる証拠はなかった。
過激派との戦いが半年ほど過ぎたころ、送り込んでいた工作員の一人から平米たちのもとに恐るべき情報が届いた。
「近々、大規模な破壊活動を行うおそれがある」
場所や時間、そのほか詳細はごくわずかな幹部だけが全貌を把握しているようだが、もう少しで手がかりを得られそうだ――そんな通信を最後に工作員からの連絡は途絶えた。
工作員は信頼できる腕利きのやつだった。そいつが命を張って伝えた情報であれば信憑性は高い。だがそうはいっても材料が足らない。せいぜい、所轄のトップ企業や工場などを定期的に巡回する程度の対策しか取れないでいた。
数日ほど、過激派組織の活動は鳴りを潜めていた。平米ら署員の努力の賜物か、あるいはもっとほかの理由からか……。果たしていま正しい方策を選べているのだろうか? 平米たちは手ごたえのないやるせなさに憂鬱な日々を送らされていた。
事態が急変したのは工作員の情報提供から一週間後であった。
夕暮れどき、郊外の空きビルから出てきた二十代から三十代とおぼしき男を、たまたま付近を通りかかったパトロール中の巡査が不審に感じて声をかけたところ、男は直ちに走って逃げ出した。すぐにあとを追って百メートルも走らないうちに身柄を確保。持ち物を改めたところ暗文で書かれたメモと用途不明な電子機器類が見つかり、巡査はこの男を一連の過激派事件の重要参考人として緊急逮捕したとのことである。
すぐに取調べが行われたが、男はカンモクを決め込んで何一つしゃべらないでいた。脅したり、なだめたり、おだてたり、百戦錬磨の刑事たちが全身全霊でもってありとあらゆる手練手管を使ったが男からはなんの反応も引き出せなかった。
「減るもんでもねえし、せめて名前ぐらい名乗ったらどうだい。第一、扱いづらくてしかたねえや」
男は頬一つ眉一つぴくりともさせず、視線を冷たいスチール机の上に漂わせて、ただ黙ってパイプ椅子に座っているだけだった。
取調べは徹夜で行われた。それでも男は一言も発しなかった。あまりの肝の据わった徹底ぶりに、
「こいつは過激派組織の幹部に違いあるまい」
と、眠気と熱気のこもった頭をニコチンとカフェインで紛らわしている刑事たちは口をそろえた。署内の灰皿はどこも吸殻があふれていた。
朝になった。
男は逮捕されてからいままで、安い番茶を一杯飲んだ以外には何も口にしておらず、また、一睡もしていなかったが、なおはじめから全く態度を変えずにいた。ビンタを食らわしたり、殴りつけた刑事もいた。しかし男はどんな感情も見せなかった。下っ端の平米は取調べに直接かかわることもなく、わずかな経験だけを頼りに、それでも何かできることを必死に探していた。
「……平米という刑事を、連れてきてください」
午前七時三十分をまわった。男が卒然と声を発した。そのときに取調べを担当していたベテランの刑事は驚いて吸っていたタバコを机に落としてしまい、焦げあとをこしらえた。もしその焦げあとが残っていたりすれば、こんなドジを踏んだこともあったよな、と思い出話のきっかけになっていたのかもしれない――。
平米は男への取調べのやりとりに関する記録を机に並べつつも、その実、途方にくれて、窓から見える朝の街の風景に気を取られていた。不意に名前を呼ばれて、平米はあたふたと取調室に入った。
「どういうつもりかは知らんが、ほら、こいつが平米だ。まったく、それじゃあ洗いざらい吐いてもらおうか」
平米の姿を認めると、取調べをしていた刑事は軽くあごをしゃくり、短くなったタバコをいまいましげにもみ消して、男の口を割らせたがった。
「しばらく……、二人きりで話をさせてもらえませんか」
「ちっ、そんなことだろうと思ったぜ。おいベイ、お前よもやとは思うが実はこいつと兄弟でしたなんてぬけぬけいいだすんじゃあねえだろうな」
ベテランの刑事は露骨に舌打ちを聞かせてきた。上司の苛立ちをいなすように平米は大げさに手を振って関係を否定した。
「若いもん同士、しゃべりやすいってことかよ。ま、いいさ。ベイ、遠慮なく締め上げてやれ。けっ、年寄りは朝飯でも入れてくるべえ……」
平米は男と二人きりになった。少しだけ緊張したが、それを相手にさとられぬようつくろうぐらいの経験は積んできた。
平米による取調べが始まった。氏名、年齢、職業、住所を尋ねると、男はすらすらと答えた。ありきたりな名前に見た目どおりの年齢、定職には就いておらず時々日雇いの仕事をしており、住居についてはドヤで寝泊りしている、と説明した。しかし名前は偽名かもしれないし、結局のところ男の身元を照会できるような情報は何も得られなかった。
もう少しそのあたりを突っ込んだ方がいいのだろうか。だんまりを続けていた被疑者が、ふとした拍子に、たとえば「タバコをくれ」なんて一言がきっかけで、堰を切ったようにしゃべりだすなんていうのはさほど珍しくもなかった。会話を続けていれば、そこからぽろぽろと秘密を漏らしていくかもしれない――だがその一方で平米には何か奇妙に引っかかるものがあった。この男が急に饒舌になった理由や目的はなんなのだろうか、と。
「仕事っていうのは、どのくらいの頻度でやってるの」
「一週間やって、一週間休んで、とかそういう感じです。肉体労働ですけど、体、あんまり丈夫じゃないんで……」
三十分ぐらい話は続いたが、男の正体や空きビルで何をしていたのか、渦中の過激派組織とのつながりといった、平米らが本当に知りたいことは何一つ引き出せなかった。話題が核心に入ろうかとすると、のらりくらりと話をそらされてしまうのである。
たいした収穫もなく八時を過ぎた。平米は取調室の外から先輩刑事に呼ばれて、いったん席を外した。
「さっきから聞いてりゃお前なんだよあのザマは。お嬢ちゃんのお見合いでもあるまいし、まちっとろくなことは聞けねえのかよ」
「はあ、がんばってみてはいるんですが……」
朝の会議が始まる時刻が近づき、人々がぞろぞろと動き出す気配が署内の方々で起こった。昨日から残っているものもいれば、いましがた出勤してきたものもいた。一日でもっとも署内がにぎやかになる時間帯というわけだ。
平米は同僚に自分は会議には出ずに引き続き取調べを続けると伝えた。ごく簡素なストレッチとあくびで気合を入れて、再び過激派幹部とみられる男と向き合った。
「ときに刑事さん、いま何時ですか」
「さすがに疲れたか。なんだったら出前でも取ってやろうか」
取調室には時計は置いてなかった。男は平米の誘いには答えず、高い位置にこしらえてあるガラス窓からじっと外を眺めた。つい平米もそちらに視線を取られ、見上げれば白くかすんだ四月の空が物事の始まりを告げていた。
「……刑事さん、大事な話をしたいんです。ぼくが捕まった空きビル、あそこまで連れて行ってもらえませんか」
男が思いつめた感じで口を開いた。仕事柄、これまで何度も見てきた、何もかもを明らかにしようとしている人間の顔がそこにあった。
「そうか……。よし、わかった。いまから連れて行ってやろう」
男のいわれるがままの行動を取ることに一抹の不安がなくはなかったが、膠着した現状をともあれ打開するにはほかに手が見当たらなかった。二人一組を作るため、平米は会議室のドアをそっと開けて、その気配で振り向いた近くの席に座っていた後輩を手招きして呼び寄せた。
「なんですか、ベイさん」
「男が空きビルに行きたいといっている。すぐに一緒に来られるか」
「了解」
男と後輩の刑事を連れて、平米ら三人は空きビルへと向かった。腹が減ってしかたがなく、途中で個人商店に寄って菓子パンのたぐいを調達した。男にも何か食うか尋ねるとジャムパンと牛乳を欲した。
「刑事さん、ありがとうございます。好きだったんですよ、これ」
男はしきりに外の様子を気にしていた。通勤通学のピークをひとまずは越えたらしく、人通りはぼちぼちといったところであった。
「いま何時になりましたか」
朝飯を終えた男はやにわに時刻を尋ねてきた。八時半を少し過ぎていた。平米が腕時計を見せてやると、男は何事か勝手に得心したふうに「どうも」と返した。
三人、互いにほとんど会話もないまま、パトカーはくだんの空きビルに着いた。
男は「屋上に行けばすべてわかります」といった。口で説明するよりもその方が早いし誤解がないとかなんとか……。ともかく、男に促されるまま、平米らはほこり臭い階段を上った。
「さて、じゃあ全部話してもらおうか」
周辺に高い建物のない空きビルの屋上からは東西南北を見渡せた。この街の主要な産業と行政が周囲に広がっていた。冷たい風が吹いていた。
平米の問いには応えず、男はおもむろに屋上のふちの方へと歩いていった。外壁にぶつかった風が下から吹き上げていた。
「やっぱりこの街はここからの眺めが一番いい……。刑事さんもそう思うでしょう?」
男の気楽そうな問いかけに平米は怪訝な感情を抱かずにいられなかったが、手の内を見るべく、黙って先を促した。
「刑事さん、ぼくには弟がいます。弟は以前に警察の、平米さんたちのお世話になったことがあります」
空きビルの屋上は人の出入りを想定していないのか、手すりなどは設けられておらず、地上との境界には膝ぐらいの高さの出っ張りが設けられているだけだった。男は平米たちの方は向かず、街を見下ろしながら語り続けた。
「弟はお世辞にも善良な市民ではなかったかもしれません。けれども取調べはそれを差し引いてもひどいものだったといっていました――」
九時になった。
突然、平米は下からすさまじい勢いで突き上げられるような衝撃を受けた。間髪を入れず、空間が崩れるような大音響に全身を貫かれた。すぐには音とは知覚できず、重厚な塊に打ちのめされるようだった。平衡感覚がでたらめになり、平米の世界は無秩序に回った。
ぐるぐるした軸に翻弄され、よろけて片手片膝をコンクリートにつきながらも、どうにか平米は事態を把握しようとした。男が何か恐ろしいことをやらかしたと直感していた。
「見てくれましたか。これが我々の組織の考えですよ」
街のあちこちで天を覆うような巨大な黒煙が立ち上っていた。平米は男の発言を無視して必死に街を見渡した。
「もう時間が残されていません。端的に説明しておきましょう。A社は我々の理想とは程遠い活動を続けたから本社ビルと役員の自宅を爆破され、B社は公害を垂れ流したせいで工場を爆破されました。役所と議会は無能なせいで、警察署は落とし前として爆破されました。その他もろもろ……。しかし全く自業自得ですよ。さんざん警告したというのに、金儲けやメンツとか体制維持っていうのは大勢の人間の命を賭けるほどのものだったんですかねえ……」
男は眼下の惨状を無表情で淡々と説明した。確かに、男が言及した建物や施設の方角で炎と煙がのたうっているのが見えた。ずっと遠くで狂ったように鳴り響くサイレンの音が他人事のように聞こえた気がした。
「それは、どういう――」
平米は男に何事か詰問しなければならない使命を感じたが適切な言葉を思いつかなかった。男の胸倉をつかんで殴り飛ばさなければいけないようにも感じられた。だが体を動かせなかった。一人の人間には到底つぐなえい失態を目の当たりにして足腰と、何より気持ちが萎縮していた。いままで積み上げてきた人生を否定され、取り返しようのない後ろめたさに心が締めつけられた。
「ですが平米さん、弟はあなたにだけは感謝したい、と。あなたがあの警察署でたった一人の人間だったといっていましたよ」
いつごろ、どんな事件の話なのだろうか。平米にはどうしても思い出せなかった。
「あのジャムパンはおいしかった……」
男は自らが引き起こした地獄の光景を眺めていたが、そのことに何か感慨を抱いているようには見えなかった。強いていうなら「しようがない」とひとり言をつぶやきそうな顔をしていた。
そのとき、平米は気づかなかったが、後輩の刑事が拳銃を取り出し男を撃つべく狙いを定めようとしていた。
しかし引き金が動くよりも早く、男は手錠のかかったままの腕を上げると蛇のような素早さでシャツの袖口を噛み千切った。男の喉が動き、何かを飲み込んだらしかった。
後輩の撃った弾は外れた。だがその弾道の終点にはもはやなんの意味もなかった。平米は無意識のうちに男のそばまでたどりついていた。足元には無言の死体が転がっていた。
死者二千人、重軽傷者一万人。
平米が「地獄のブル」の二つ名をいただくようになるのはそれから間もなくのことである――。
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