あの子と私の七十五日

流々(るる)

あの子がいなくなった

 ほんの一週間前までの暑さが嘘のように、ひんやりとした風がわたしの髪をき上げる。


 あの日は朝から重い雲が垂れ込めていた。

 今にも降り出しそうだった空は、昼までこらえきれずに大粒の雨を落としている。

 持ってきたおにぎりで昼食を済ませ、いつものようにあの子がいる店へと向かった。

 アスファルトに当たった雨がストッキングを濡らしていく。

 水たまりをよけながら店の前までくると――。


 あの子はいなかった。


 いつも同じ場所で、はにかむようにたたずんでいた姿がない。

 ……。

 思わず漏れたつぶやきも、雨音に消されて誰の耳にも届かない。

 わたし自身の耳にさえも。

 パンプスの中が濡れていくのにも気づかず、ただただ立ち尽くしていた。



 あの子との出会いは梅雨が明けた頃だった。

 行こうと思っていたイタリアンレストランが臨時休業で、他を探しながら歩いていた時にふと目に留まったのがあの店。

 店頭でたくましいボディを惜しげもなく披露しているのが、店一推しの彼なのだろう。見る者を引き付ける華やかさだけでなく、圧倒的な迫力を振りまいている。

 すぐ隣にいたのは一転してスポーティーな彼。線が細いけれどしなやかな感じで、陸上の短距離選手を思わせる体つきだ。

 そして、右奥にいたあの子とは目が合った気がした。

 派手さはないけれど無駄のない引き締まったボディに、高く上がったヒップは格好いい。小さい顔がシャープな印象を与えている。色は黒く、赤い差し色も似あっている彼に一目で魅かれてしまった。

 この日から、あの子に会うため店へ通うようになっていった。


 ただ店の前から覗くだけで近づくことはしない。

 いま触れてしまったら、あの子との距離が遠くなってしまう気がした。

 店員さんにもおかしな奴だと思われているかもしれない。

 それでも毎日のように彼の姿を目に焼き付けていた。


 いつの日か、あの子をわたしのものに。


 歳を考えたら、不釣り合いと言われるだろう。

 でも、わたしならきっとあの子を上手く扱える。

 彼にまたがれば、わたしの動きに合わせてきっといい声を聴かせてくれるはず。

 徐々に高くなる彼の声に合わせて、わたしの両手にも力が入る。

 身体を傾け一つに重なりけ抜けたら――そんな至福の時を夢想してしまう。

 思いは日に日に高まっていった。

 それなのに。



 もっと早く声を掛けていれば、出会ったときに行動を起こしていれば、せめて気持ちを伝えておけば……。

 何も変わらなかったかもしれないけれど、後悔ばかりが湧き上がる。

 自らに課した罰であるかのように、あの店へ通うことは止めなかった。

 たくましい彼もスポーティーな彼も変わらない表情を見せている。でもあの子がいた場所はぽっかりと空いたまま。

 それを見るのはつらい。

 けれど心のどこかでまた会えるのを待っていた。


 彼がいなくなってから二週間が経ち、週末の台風が過ぎ去った月曜日。

 おにぎりを持ってくるのも続けている。

 昼食を済ませてあの店へ行くと、何ごともなかったかのようにあの子がいた。

 もう後悔はしない。

 今度は店の前で立ち止まることなく、中へと入っていった。



 もう、あの店へ行くことはないだろう。


 わたしのもとには彼が――BMW S1000R、黒いメタリックボディに赤の指し色が映えたバイクがある。

 たくましいハーレーダビッドソンよりも、スポーティーなヤマハのオフロードよりも、わたしにとっては彼が魅力的だった。

 昼食代も抑えて必死に貯めたお金を頭金にして、五年ローンを組んだ。

 やはり店員さんはわたしのことを覚えていて、わざわざ同色のバイクを仕入れてくれたそうだ。バイクを眺めて帰る女性は珍しいらしい。

 まさか、納入した日に買いに来るとは思っていなかったみたいだけれど。


 日曜の今日は秋晴れのツーリング日和。

 ライダースーツに身を包み、フルフェースのヘルメットに髪を入れる。 

 彼に跨りエンジンを掛けると、すぐにいい声エキゾーストノートを聞かせてくれた。

 ハンドルを握るわたしの両手にも力が入る。

 さぁ、どこまで疾けて行こうか。




――了――

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