あの子と私の七十五日
流々(るる)
あの子がいなくなった
ほんの一週間前までの暑さが嘘のように、ひんやりとした風がわたしの髪を
あの日は朝から重い雲が垂れ込めていた。
今にも降り出しそうだった空は、昼までこらえきれずに大粒の雨を落としている。
持ってきたおにぎりで昼食を済ませ、いつものようにあの子がいる店へと向かった。
アスファルトに当たった雨がストッキングを濡らしていく。
水たまりをよけながら店の前までくると――。
あの子はいなかった。
いつも同じ場所で、はにかむように
……。
思わず漏れたつぶやきも、雨音に消されて誰の耳にも届かない。
わたし自身の耳にさえも。
パンプスの中が濡れていくのにも気づかず、ただただ立ち尽くしていた。
*
あの子との出会いは梅雨が明けた頃だった。
行こうと思っていたイタリアンレストランが臨時休業で、他を探しながら歩いていた時にふと目に留まったのがあの店。
店頭でたくましいボディを惜しげもなく披露しているのが、店一推しの彼なのだろう。見る者を引き付ける華やかさだけでなく、圧倒的な迫力を振りまいている。
すぐ隣にいたのは一転してスポーティーな彼。線が細いけれどしなやかな感じで、陸上の短距離選手を思わせる体つきだ。
そして、右奥にいたあの子とは目が合った気がした。
派手さはないけれど無駄のない引き締まったボディに、高く上がったヒップは格好いい。小さい顔がシャープな印象を与えている。色は黒く、赤い差し色も似あっている彼に一目で魅かれてしまった。
この日から、あの子に会うため店へ通うようになっていった。
ただ店の前から覗くだけで近づくことはしない。
いま触れてしまったら、あの子との距離が遠くなってしまう気がした。
店員さんにもおかしな奴だと思われているかもしれない。
それでも毎日のように彼の姿を目に焼き付けていた。
いつの日か、あの子をわたしのものに。
歳を考えたら、不釣り合いと言われるだろう。
でも、わたしならきっとあの子を上手く扱える。
彼に
徐々に高くなる彼の声に合わせて、わたしの両手にも力が入る。
身体を傾け一つに重なり
思いは日に日に高まっていった。
それなのに。
もっと早く声を掛けていれば、出会ったときに行動を起こしていれば、せめて気持ちを伝えておけば……。
何も変わらなかったかもしれないけれど、後悔ばかりが湧き上がる。
自らに課した罰であるかのように、あの店へ通うことは止めなかった。
たくましい彼もスポーティーな彼も変わらない表情を見せている。でもあの子がいた場所はぽっかりと空いたまま。
それを見るのはつらい。
けれど心のどこかでまた会えるのを待っていた。
彼がいなくなってから二週間が経ち、週末の台風が過ぎ去った月曜日。
おにぎりを持ってくるのも続けている。
昼食を済ませてあの店へ行くと、何ごともなかったかのようにあの子がいた。
もう後悔はしない。
今度は店の前で立ち止まることなく、中へと入っていった。
*
もう、あの店へ行くことはないだろう。
わたしのもとには彼が――BMW S1000R、黒いメタリックボディに赤の指し色が映えたバイクがある。
たくましいハーレーダビッドソンよりも、スポーティーなヤマハのオフロードよりも、わたしにとっては彼が魅力的だった。
昼食代も抑えて必死に貯めたお金を頭金にして、五年ローンを組んだ。
やはり店員さんはわたしのことを覚えていて、わざわざ同色のバイクを仕入れてくれたそうだ。バイクを眺めて帰る女性は珍しいらしい。
まさか、納入した日に買いに来るとは思っていなかったみたいだけれど。
日曜の今日は秋晴れのツーリング日和。
ライダースーツに身を包み、フルフェースのヘルメットに髪を入れる。
彼に跨りエンジンを掛けると、すぐに
ハンドルを握るわたしの両手にも力が入る。
さぁ、どこまで疾けて行こうか。
――了――
あの子と私の七十五日 流々(るる) @ballgag
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