43. 佐々木との再会

「やあ、キョン。来てくれたんだね。科学的とは言えないが、たまには勘を信じてみるのも悪くはないようだ。特に、キミとの付き合いにおいてはね」


 立っていたのは、ハルヒの言う通り、佐々木だった。表情は例によって微妙に困ったような微笑だが、よく見ると目がいつもより赤い気がした。


「…二人の涼宮さんたちに、橘さんも一緒か。僕の考えが正しければ、僕は何かの拍子に、僕自身の精神世界の中に迷い込んでしまった。

 キョンは涼宮さんたちに後押しされて、橘さんの力を借りてここまで入ってきた。こんな所じゃないかな?」

「流石だな」

「キミとしては、僕が元の世界に戻るように説得しに来たんじゃないかな?

 だが僕は、今はこのままここにいたい気分なんだ。何故だかわからないが、やり場のない怒りのせいで、どうにかなってしまいそうなんだ。誰に怒りを覚えているのか、何故怒っているのかも、考えれば考えるほどよく分からなくなってしまってね。

 この空間のように人が少ない場所だからまだ何とかなっているが、人ごみに放り込まれたら、僕がどんな恐ろしい行動をとるか、僕自身想像しきれないほどだよ」

「むしろ人前の方が自制しそうなものだがな」

「そうでもないさ。自分自身について深く考えたいとき、他の人の存在はノイズになる。その人が何かを話しかけてきたらなおさらね。気が散ると、まとまるものもまとまらなくなって、既に抱えていた怒りの矛先がそっちに向くこともあり得る。どうしようもない怒りであればあるほど、そうなりやすい。たとえそれが八つ当たりだという自覚があったとしてもね。

 だから僕は、怒りを抱えたときは一人でいることにしているんだ。さすがに今回みたいに、気が付いたら、物理的な意味で一人きりでいられる特殊空間に放り込まれていた、なんてことは初めてだけどね」

「しかし、佐々木も自分を見失うことなんてあるんだな」

「むしろ自分自身のことは、一番見えないんじゃないかな。僕達は他人の姿ならいくらでも見ることができるが、自分自身のことは鏡を見ない限りその全体像はつかめない。観測者が自らを観測するとき、観測者効果はもはや無視できないものになるんだ。

 無論、物理的な姿とは違い、心理的な姿になると、他人のそれも演じていたり猫被っていたりする場合には見抜くことは困難になるが、それでも微表情など、トレースすることのできる特徴はいくつか存在する。これに対して、自分自身の挙動をトレースすることは、中々意識的に出来るものではない。多くの心理的挙動は、無意識のうちに行われるからね。

 そんなわけで、人にとって一番よく見えないのは、自分自身という訳だ。マインドフルネスという対抗策が最近は流行っているが、それとて観測できるのは、せいぜい理想的にノイズを沈めた状態での自分自身の姿だ。僕はこれでもさっきからずっとマインドフルであろうとしているのだが、認識できるのは、いくつもの矛盾する考えがせめぎ合っているということだけで、僕が本当は何に対して怒っているのか、ますます分からなくなるばかりなんだよ。

 キョン、ひょっとしたらキミの方が僕がこんな気分になっている理由を理解してくれているんじゃないか?」

「きっかけなら想像はつくぜ。今朝のことだろ?」

「その通り。それは間違いないんだ。僕のあのキスは、ほんの冗談のつもりだったのだが、それを受け入れてもらえなかったことが予想外にこたえたらしい。自分でも恥ずかしい限りだよ。

 ただ、その結果僕の中で渦巻いている感情は、僕自身にも分からないんだ。

 気付いたら涙がどうしようもなくこぼれてしまってね。全く、恥ずかしい限りなのだが、あれが悲しみだったのか、悔しさだったのか、はたまた怒りだったのかすら、今もってよく分からないんだ。主成分が怒りらしいことは何となくわかっても、怒り100%という訳でもない。苦しさにも似ていたが、自分自身の中に渦巻く得体のしれないドロドロとした感情に恐怖していたとも言えなくもない。ただ、無性に泣きたくなってしまったのさ。

 僕はそんな姿を見せたくなくて、追いかけてきた九曜さんたちを振り払って、しばらく中庭でもぶらぶらしてから教室に向かおうかと思っていたんだが、気が付いたらこんなところにいた訳だ。

 ここは僕の精神空間らしいけど、僕にわかるのは、何となくこの空間が、僕自身の動揺を反映するかのように激しく揺らいでいることと、矛先の不確かな憎しみが、とりあえずキミの活動拠点である北高と文芸部、いや、SOS団に向かってしまっているということだけだ」


 キョンが、佐々木の話を消化するかのように考え込んでいると、ハルヒが言った。


「佐々木さん、それってズバリ、失恋なんじゃない?このキョンが鈍感で曖昧模糊とした態度を取り続けたせいで、みんなが迷惑したというところでしょ?あんたの怒りの矛先はキョンに向かうべきなんじゃないかしら」

「これでも僕は、恋愛感情は精神病の一種だと捉えていてね。その可能性も考えてはみたんだが、できれば否定したいところさ。涼宮さんの邪魔もしたくはないしね」

「あたしもね、ずっと同じこと考えていたのよ。恋愛感情は精神病の一種で、一時の気の迷いだって。

 でも、頭で理解しているだけで片付くほど簡単な代物ではなかったことは、つい最近まで知らなかった。佐々木さんも、同じなんじゃない?」

「そうかもしれない。だけど、涼宮さん、仮にそうだとしたら、キミは恋敵たる僕に塩を送っていることになるんじゃないか?

 僕が否定し続けている限り、僕はキミの恋敵にはなり得ない。が、肯定してしまうと、僕はキミたちの前でライバル宣言をするかもしれない。

 僕の自覚を促すことは、つまりは恋敵を増やすことになる。違うかな?」

「そういうことじゃないわよ。どっちにしても、あんたが自分の気持ちに整理を付けられない限り、あんたは元の世界に帰れないと思うから、そのお手伝いをしているだけよ。これもSOS団団長としての使命よ使命」

「うん。涼宮さんはそれでいいと思う。ただ、僕にとっては、キミとキミの優しさはあまりにも眩しすぎる。何だか惨めな気分になるだけだよ」

「あたしは別に優しくなんかないわよ。あんたが男だったら、その背中を思いっ切り蹴っ飛ばして、引きずってでも元の世界に帰らせていたところよ」

「なるほど、涼宮さんらしいのかもしれないね。でも、今はそっとしておいてくれないか。もしかしたら僕は、キミさえいなければと思っているのかもしれないし、そうでないとしても、この状況が続くとそう思ってしまいそうだ」

「…分かったわよ」


 ハルヒがそっぽを向いて考え込み、佐々木は佐々木で、一度は乾いたその瞳を再び潤ませる。どうにも気まずい空気が流れるが、それを打開しようとしたのは、橘京子だった。


「佐々木さんの置かれている現在の状況を理解する一助として、あたしが客観的に把握した状況を説明しますね。

 現在の佐々木さんの閉鎖空間は、元の世界の部分的なコピーとして拡大すると同時に、元の世界から分離しようとしています。4月に佐々木さんの閉鎖空間が涼宮さんの閉鎖空間と接触した影響か、今回の事態になって、佐々木さんの閉鎖空間では初めての神人が誕生して、SOS団の部室などの破壊を行っています。

 神人は今のところ、北高付近から離れる動きはないと思われます。古泉さん、そうですよね?」

「ええ、北高を消去した後、神人の活動は、今のところ止まっています。何かを考えるかのように、その場で立ち止まっていることが感じられます」

「また、佐々木さんの閉鎖空間内には、情報統合思念体や天蓋領域は入り込めないのではないかと涼宮さんは推測していたわ」


 それを聞いて、佐々木はポンと手を打ち、状況を把握したようだった。


「なるほど。

 多分僕は、キョンの活動拠点であるSOS団と北高を丸ごと消し去って、キョンを僕の近くに置いておきたいんだ。北高と光陽園はほぼ同じレベルの学校だからね。北高の存在しない世界では、高い確率でキョンは僕と同じ学校に在籍することとなる。

 そして僕は、涼宮さんのいない世界でキョンと同じ学校に入ってやり直したいと思っているんだと思う。もちろん、へんてこな三重苦からも解放された、常識的な世界でね。

 僕の怒りは、涼宮さんを選んだキョン、僕の親友をどこか手の届かない世界へと連れ去ってしまった涼宮さん、そして、解決策として涼宮さんを僕の世界から消し去ろうとしている僕自身に向かっているんだ。

 特に、僕は僕自身の中に渦巻く醜い感情に対して怒りを覚えている。キョンも涼宮さんも何も悪くないことは、理屈では十分承知しているつもりなんだけどね。

 橘さんには感謝しなくてはいけない。僕の内面が抱えている問題が明確になったことは、大きな前進と言っていい。今はまだ対処法は分からないけどね」

「それについては、僕から一つ提案があります」


 声を上げたのは、古泉だった。

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