38. 橘京子の憂鬱
橘京子が来るまでの間、たわいもない雑談をしながら、ハレノヒ弁当の分割競争でハルヒに敗北を喫したことについて何となく複雑な気分になっていると、誰かの携帯が鳴った。
「古泉です。はい、こちらは全員います。むしろ多すぎるほどです。なるほど。そういうことでしたか…。地下鉄はどうです?了解しました。涼宮さんは今はまだ気長にお待ちになられておりますが、待たせ過ぎてはいけません。そちらのルートで調整する方向でお願いします。それでは」
彼が携帯をパタリと閉じると、ハルヒは言った。
「古泉くん、今のは何?」
「新川さんの車で橘さんを連れてきて頂く予定だったのですが、幹線道路で玉突き事故が発生したせいで各地で連鎖的な大渋滞が発生しており、山手線を使おうにも、こちらでも折悪しく人身事故が発生したため使えない状況になっている、という連絡が入りました。
やむを得ず、地下鉄で北高に最も近い駅まで向かわせておりますが、地下鉄駅からですとここまで徒歩10分程度はかかるので、橘さんの到着は約30分後になる見込みです。
とはいえ、北高が都心に存在することは幸いしました。地方だったら、幹線道路も鉄道も止まったら、移動手段は全滅してしまいますからね」
「ふうん。まあ、都心の地の利を生かすのもいいけど、そんなに待ってられないわ」
「涼宮さん?」
「橘さんと、一緒にいる新川さんたちを部室までワープさせるわよ」
「なるほど、その手がありましたね」
「って訳で、今すぐ来なさい!」
椅子から立ち上がった団長がそう言って指を突き出すと、橘京子、新川、森園生が部室中央の机の上に出現した。
「ここは…えっ?」
「どうやら、瞬間移動させられたようですね。私の役目はこの少女をお届けすることでしたので、本日はこれにて。またお会いしましょう」
「ええ、ここは私たち大人には合いませんからね。涼宮ハルヒさん、後はお任せします。古泉のこともよろしく頼みますね」
戸惑う少女に対し、大人二人は即座に事態を把握したらしく、さっさと机から降りると、部室を出て行ってしまった。
ハルヒは、一瞬呆れ顔だったが、すぐに我に返り、
「慌ただしいにもほどがあると思うけど、まあ、いいわ。あの人たちにはあの人たちのやることがあるんでしょ。
で、あんたが橘京子さんよね?」
と少女に声をかけた。
「は、はい」
「佐々木さんが自分から閉鎖空間に入ってしまったんだっけ?話はあらかた古泉くんから聞いてるけど、現況など、橘さんにしか分からないことを教えていただけるかしら?」
「古泉さんには既にお話ししたんだけど、佐々木さんの閉鎖空間が今朝に入ってから急激に拡大していて、同時に、この世界とのつながりが揺らいでるんです。まるで、この世界から分離独立しようとしているかのように。
こんなことは2年前に彼女がある理由から本気で憤激した時に一度あったっきりで、その時は何とか自然に収まったんだけど、今回は今のところその気配がないの。
しかも、恐らくあの時涼宮さんの閉鎖空間と佐々木さんの閉鎖空間が接触したせいで、佐々木さんの無意識は神人の存在を知ってしまった。結果として、今回の閉鎖空間の中には、佐々木さんだけではなく神人も存在するんです。
これはとても困ったことなんです。あたしたちは彼女の閉鎖空間に入ったり、他の人を導いたりすることはできても、古泉さんのような攻撃能力は持っていない。あたしには神人が出てしまったら、手の打ちようがないんです。
佐々木さんの閉鎖空間は、涼宮さんの閉鎖空間とは違って、放置していてもこちらの世界を崩壊させることはないと思います。何故なら、神的能力を得られなかった彼女が代わりに得たのは、この世界を部分的に複製する能力だったから。神人にしても、その複製の消去を担うだけでそれ以上のことはできません。
つまり、原理的には、何もしないで、佐々木さんをこのままにしていても特にリスクはないんです。
ただ、あたしは、佐々木さんに神的能力があるかとは無関係に、佐々木さんの友達でいたいの。だから、皆さんお願い、彼女を助けて。こちらに連れ戻してくれますか?」
「俺にとっても佐々木は親友だからな。もちろん助けたいとは思ってる。
だがな、お前はものの頼み方を知らないんじゃないか?
まずは朝比奈さんとハルヒに謝れ。話はそれからだ」
「キョン、あんたは黙ってなさい。別に謝ってもらう必要はないわ。
京子、あんたにはあんたの理想があって、それが古泉くんたちの『機関』と合わなかったことは知ってる。でも、別にあんたは乱暴なことがしたかったわけじゃないことも、あたしはちゃんと知ってるのよ。みくるちゃんの誘拐未遂もあたしのことも、悪いのはどっかに消えた藤原とかいう偽未来人でしょ。
九曜ちゃんや京子を思うように操って、あたしを殺して佐々木さんにあたしでも戸惑うぐらいのトンデモパワーを移そうとしたのも全部藤原の仕業。あんな性格でみくるちゃんの弟を騙るとか、ほんとあり得ないわ。アホの谷口でもきっと騙されないわよそんな三文芝居。
という訳で、京子、あんたは何も悪くないわ。組む相手を間違えて振り回されたむしろ被害者なんだから、このキョンが何か言って来ても遠慮なく開き直りなさい。
それと助けが欲しいなら、あたしのこのSOS団がちゃんと助けてあげるから、大船に乗った気でいなさい」
「い、いいんですか?」
「そのためにあたしのところに来たんでしょ?」
橘京子は、ハルヒの満面の笑みを見て、驚きのあまり目を大きく見開くと、ふらりと崩れ落ちるようにして泣き出した。古泉がいつの間にか用意していたハンカチを差し出すと、彼女はありがとうと言って受け取って、顔を拭った。
「涼宮さんのお心の広さには驚きました。周防九曜に次いで、これでかつての仇敵を二人も取り込んでしまったのですから。
尤も、こうなってしまうと僕や『機関』としては、今後の対応が難しくなるのですが、橘さんが変な手出しをしない限りは、今後は現状維持で手を打つように進言させていただくとしましょう。
涼宮さんが藤原氏だけを次元断層で隔離したのも、本当に許すべきではない相手が誰か見極められていたからこそだと思いたくなります。意識していようといなかろうと、まさに神のごとく正しい判断を下すさまは、いつものことですが、流石は涼宮さんです」
「当然でしょ。
ところで、京子の話を聞く限りだと、やっぱり古泉くんにも来てもらった方が良さそうね」
「承知しました」
「それじゃあ京子も落ち着いてきたみたいだし、そろそろ出発しましょ。行くわよ、キョン」
と言ってキョンの腕を掴んでから、橘に振り返り、
「そうそう京子、あんたもあんたの学校でSOS団の支部を立ち上げなさい。それがあたし達への報酬よ。もちろん後払いでいいわ」
「は、はい」
「じゃあみんな行くわよ」
そしてハルヒは勢いよく前に進もうとして5秒ほど固まり、どこに行けばいいか分からないことを今更のように思い出したのか、橘京子を見て、
「えーっと、京子、目的地まで連れて行ってくれる?」
と言った。橘は一瞬苦笑を浮かべたが、もうすっかり立ち直ったらしく、
「ここからでも入れます」
と言って、ニッコリとほほ笑んだ。
「それじゃあ、京子、みんなを連れて行ってちょうだい」
「分かりました。一緒に来る人は私と手をつないでください」
「そうはさせないわ」
突拍子もない声が、部室に響いた。
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