追憶 七
「それでは、あなた。おやすみなさいませ」
夕がそう言って、俺に深々と頭を下げる。俺はそれに応えず、ただ夕に背を向けた。
それはこの六年の間、何度も繰り返した夫婦のやり取り。夕の視線を背に受ける度、俺の心に衝動が湧き上がる。
振り返り、夕をこの手で抱き締めてしまいたい。そして思う様、その体を貪り尽くしてしまいたい。
だが、だが。いつもその衝動は理性に勝る事はなく、夜は更けていくのだ。
「……あなた」
しかしその日は、いつもと違った。いつもならすぐに
俺は、それでも振り返らない。振り返らない、つもりだった。だが。
「私は、この家を出ようと思います」
「……何?」
そう言われ、俺は反射的に夕を振り返っていた。夕の顔にはいつもの微笑みが浮かんでいたが、今はそれが、とても悲しげなものに映った。
「あなたはきっと、私を哀れんで嫁に貰って下すったのでしょう」
夕が言の葉を紡ぐ。その瞳を、涙に滲ませながら。
「あなたといられて、私は幸せでした。例え夫婦としての交わりが、ただの一度もなくとも。私は、幸せでした」
夕が声を震わせる。何百、何千と繰り返してきた言葉を、涙声で今、また俺に告げる。
「きっとあなたは、外に好いた方がいるのでしょう? なれば私は、あなたの為に身を引きましょう。どうか私の事は忘れて、自由に生きて下さい」
夕の目から、ひとしずく、涙が零れ落ちる。それはとても透明で、美しくて、そして――悲しかった。
「さようなら、あなた。私はこれからも、あなたの幸せを想って――」
「――夕!」
気が付けば、考えるより早く、俺は夕を抱き締めていた。夕の細い体が、腕の中でびくりと震える。
「あな……」
「行くな、夕」
口から、自然と言葉が零れた。これまでずっと、抑え込んできた言葉が。
「愛している。俺の心には、ずっとお前しかいない。だから、だから俺から離れるな……!」
「あ、なた……」
理性など、とうに吹き飛んでいた。溢れんばかりの衝動を阻むものは、もう何もなかった。
夕の寝着を、乱暴に剥ぎ取る。露わになった白い肌に、俺は夢中でしゃぶりついた。
その日、俺は初めて、愛しい女をこの手に抱いた。
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