第二十七幕 掌の上

「全」


 全が店子達を仕切り開店の準備を進めていると、珍しく店にいた旦が声をかけてきた。


「ちょっと話があるのだけど。いいかな?」

「何だ兄貴、急ぎじゃないなら後に……」


 誘いを断りかけて、全は気付く。――兄の目が、笑っていない。

 全の脳裏を、かつて父と兄に受けた仕打ちが駆け巡る。父はもういない。だが兄は――。


「……解った。手短に済ませてくれ」

「うん。じゃあ場所を変えようか」


 まるで、蛇に射竦められた蛙のように。全はただ、兄についていくしか出来なかった。



「……それで、話ってのは」


 連れられてきた兄の部屋。全は早い解放を望み、自分からそう切り出した。


「そう焦らなくてもいいじゃないか。久々の兄妹水入らずなのだし。ほら、全もお食べ」


 けれども旦はそう言って菓子を勧めるばかりで、一向に話を始めようとはしない。もっと強く話を促そうにも、店子達の前ならともかく、二人きりの時に兄に強く出るなど全には出来なかった。


「――そう怯えた目をするものじゃないよ、全」


 そんな全に、旦は笑顔を向ける。どこまでも楽しそうな、無邪気な笑顔を。


「お食べ」


 再度の勧め。しかし全には解っていた。これは勧めなどではなく、命令・・なのだという事が。

 素直に言う事を聞かなければ、お前を解放するつもりはない――暗に兄は、そう言っているのだ。


「……いただきます」


 観念して、全は菓子を手に取る。兄の好物の豆大福。きっと美味しいだろうそれは、今の全には、何の味も伝えなかった。


「美味しいだろう? 全」

「……ああ」

「さて、それじゃあ本題に入ろうか」


 全が菓子を食べたのに満足したのか、漸く旦が話を切り出す。その事に、全は心の底から安堵した。


「近頃町で、女性がかどわかされては殺される事件が多発してるのは知っているね?」

「ああ。だがありゃあ、吉原ここから離れたところで起こってるんじゃねえのか?」

「発見された場所はね。だが彼女達が住んでいたのは、皆この吉原の近く。……更に言えば、どんどん吉原に近付いている」

「何?」


 それは全も初耳だった。凄惨な事件ではあるが、自分には関わりのない事だと思っていたのだが。


「だ、だが、だとしても俺ァ男だぜ? 狙われる事なんて……」

「解らないよ?」


 全の抗弁に、旦は形の良い薄い唇をにぃ、と歪める。その目はやはり、笑ってはいなかった。


「お前は僕に黙って捨て犬を拾ってくるような、男が恋しくて恋しくて仕方の無い子だからねェ?」

「……ッ」


 全身が、ざわりと粟立つのを全は感じた。旦は涼一の事を言っているのだと、名を出されずとも解った。


「当分、外に出るのは控えなさい、全」


 全身に冷や汗を流し、旦の顔がまともに見られない全に、旦は言った。


「外に出なければいけない用事は、総て、店子に頼みなさい。いいね?」

「解り……ました。兄上」

「おやおや、いつものように兄貴、で良いのだよ? その方がお前らしいからねェ?」


 愉快そうな旦の嗤い声に、自分は兄の掌の上でのみ生きる事が赦されているのだと――そう改めて、全は実感したのだった。

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