第十六幕 囮作戦

 一人の遊女が、しずしずと月明かりの下を歩いていた。

 特別美しいという訳ではない。しかし立ち振る舞いに、香りに、妙な色気を感じさせる、そんな不思議な女だった。

 遊女が一人で出歩くなど、普通ならば尋常な事ではない。通り魔の噂が立っている今となれば、尚更の事である。

 だが、彼女を見咎める者は、この夜の吉原のどこにもいなかった。


 どこを目指すでもなく、遊女はただ幽鬼のように夜道を歩く。その行く手に、ぬうっと、大きな影が立ち塞がった。


「……!」

「……せつ・・……」


 黄色く濁り、血走ったその目を大きく見開きその大男は一つの名を呼ぶ。彼が求めて止まない、その女性の名を。


せつ・・……せつ・・。むかえにきただ。かえるだ。おらと……」


 大男が毛むくじゃらの手を、遊女に伸ばす。遊女はそれに身じろぎ一つせず、ただ、こう叫んだ。


「――今だ、涼一!」

「!?」


 声と共に、物陰から影が飛び出し、大男に刀で斬り付ける。その一撃は、無防備な大男の胸を深く抉った。


「ギャアアアアッ!?」

「――そのお方に触れる事は、許さない」


 噴き出す血潮が、影を――涼一を紅く染める。頭から血に濡れながら、涼一は、手にした刀を構え直した。


「ぐぅ……だれだ、おめ……おらとせつ・・のじゃまをするな……!」

「残念だったな。俺はせつじゃねえ」


 そこで遊女が自らの髪を鷲掴み、ずるりと引き剥がす。その下から現れたのは、短いざんばら髪だった。


太田屋ウチ商品遊女に手ェ出した落とし前、きっちりとつけさせて貰うぜ、糞野郎」


 遊女――いや、全は、凜とした眼差しを大男へと向けた。

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