第十一幕 季節外れの雪

「フウ、今日も暑いな」


 遊女達の部屋の前の廊下に雑巾がけをしながら、涼一はぐいと手で顔の汗を拭った。どこの部屋も閉め切りで風通しの悪い廊下は、陽が当たらずとも蒸すような熱気を肌に伝える。

 麗羽の事件から時は過ぎ、季節は夏。夜に生きる涼一達吉原の住人にとって、昼の明るすぎる雰囲気は身に堪えるものであった。


「折角拭いた床に、汗が落ちないようにせねば……」

「オヤ、涼一サン」


 不意に名を呼ばれ、涼一が顔を上げる。するといつの間にか開いていた襖から、艶のある美人が顔を覗かせていた。


「小雪様。今お目覚めですか?」

「相変わらず、アンタはアタシらみたいな遊女風情にも丁寧に接してくれるネェ。遊廓に暮らすにゃ勿体無い」


 小雪、と呼ばれた美人は、涼一の顔を見て可笑しそうにくすくすと笑う。肩や胸元をはだけ、露になった白い肌に張り付く乱れ髪は酷く扇情的で、並の男ならば一目で虜になっていた事だろう。

 彼女――小雪は、この太田屋で一番の売れっ子の遊女である。妖艶な見た目と、それとは裏腹の童女のような快活さに、吉原で長く遊んでいる男ほどくらりと来るらしい。

 そして――全の真実・・を知る、数少ない一人でもある。


「それで、このような時間にどうされたのですか?」

「ああ、この暑さだろう? 少し水でも戴こうかと思って」

「それならば、私が汲んできましょう」

「いい、いい。この程度でアンタや小鈴こすずの手を煩わせちゃ罰が当たる」


 涼一は立ち上がりかけるが、小雪は手を振ってそれを制する。小雪のこういった気持ちの良い性格が、涼一には好ましいものに映った。

 ちなみに小鈴とは、小雪付きの禿かむろである。二人はとても仲が良く、生まれつきの姉妹のようであると評判だった。


「……アンタにゃね、前から礼を言いたかったンだ」


 と、不意に、小雪の形の良い眉が僅かに下がった。自分は小雪に何かをしただろうかと、涼一は首を傾げる。


「礼、とは?」

「あの子の側にいてくれる事サ。アンタが来てから、あの子は少し明るくなった」


 そこで涼一は思い至る。小雪は、全の事を言っているのだと。


「アタシは小さい頃の、まだ先代が健在だった頃のあの子を知ってる。そりゃあ酷いモンだった……。壊れずにここまで大きくなれたのが、不思議なくらいに」


 どこか遠くを見つめながら、溜息を吐く小雪。その瞳に映るのは、在りし日の太田屋なのだろうか。


「あの子は体は売らないけど、アタシ達と何も変わりゃしない。ここから逃げ出したくても出来ない、籠の鳥……」

「……」

「……けど、アンタと出会ってあの子は変わった」


 そう言うと、小雪は再び涼一に視線を合わせた。とても優しい、相手を慈しむような瞳。


「笑いやしないのは相変わらずだけどね。瞳が前より輝くようになった。表情も、少しだけど柔らかくなった」

「……小雪様」

「涼一サン、どうかこれからもあの子の側にいてやっておくれよ。あの子の心を救ってやっておくれ」


 涼一はその真摯な視線を、真っ直ぐに受け止める。そして大きく、小雪に頷き返した。


「勿論です。私に出来る事を、精一杯にやって参ります」

「フフ、有り難うね。頼りにしてるよ、男前サン」


 そんな涼一に、小雪は、まるで幼い少女のように笑った。

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