第十幕 二人の絆

「お待たせ致しました、全様」

「ご苦労」


 旦からの呼び出しの後、次いで全に呼び出された涼一は、全の私室を訪れていた。この太田屋でこの部屋に立ち入る事が出来るのは部屋の主である全と兄の旦、そして涼一だけだ。


「全く、自分の部屋でじっとしてるなんて俺の性に合わないぜ。いつも通り忙しくしてた方が調子もすぐに戻るって言うのによ」

「そう仰らずに。何しろ昨日まで、ろくに食事も摂ってらっしゃらなかったのですから」

「仕方ねえだろ。それどころじゃなかったんだ」


 布団から身を起こし不貞腐れたように言う全は、まるでやんちゃ盛りの子供のようで。実は全はすぐにでも店に出るつもりだったのだが、今日のところは絶対安静にせよと旦からきつく言われてしまったのである。怒り心頭の兄の機嫌を取る為には、言う通りにするしか全には道は残されていなかった。


「……麗羽はまだ、あそこにいるんだろうな」


 不意に、全がぼそりと呟いた。その顔は、どこか憂いを帯びている。

 恐らくは、麗羽に負い目を感じているのだ、と涼一は思った。何せ彼女を殺したのは、自分の兄かもしれないのだから。

 全は言葉は乱暴だが、その実、同じ女として遊女達に心を砕いて接している。実際全が店を取り仕切るようになってから遊女達の待遇が良くなったのは、古くからの店子全員の知るところである。

 永遠に自由になれぬ自分の分まで、どうか年季まで生き延びて自由に。そう、全は祈りを込めているのかもしれない。

 そんな全であるから。自分の身内が一人の遊女の未来を奪ったというのは、身を切られるような思いに違いなかった。


「……全様のせいでは御座いませんよ」

「解っている。俺に兄貴を止められる筈もねえ。そんな事が出来てりゃあ、この身はとうに自由になっている」


 そう言いながらも、全の表情が晴れる事はない。表向きはしっかり者の全が奔放な旦を制御しているように見えるこの兄妹は、実際の支配権は、総て旦にあるのだ。

 全が取れる行動は、旦が赦しているものだけ。それを破ればどうなるか――涼一は未だ、全の口から聞いた事はない。


「嫌になったか。吉原ここが」


 涼一の方を見ずに、全が問う。小さな肩は、微かに震えているようでもあった。


「ここは、吉原は、吹き溜まりだ。男も女も、真っ当にゃ生きられねえ奴が住み着く場所だ。お前が望めば、まだ、お天道様の下に帰れるだろう」


 突き放すような言葉に、しかし涼一は応えない。ただ黙って、全の横顔を見つめている。


「もし、お前が望むなら、俺は……」

「……私には、他に往く場所などありませんよ」


 泣きそうに顔を歪めた全を、そこでやっと、涼一は優しく抱き締めた。涼一の腕の中で、全の体が小さく跳ねる。


「ここだけが、あなたの側だけが、私の居場所。そう決めたのは私です。あなたが、私を要らないと言うまでは」

「……涼一……」

「私は、あなたのもの・・・・・・なのでしょう? ならば堂々と、私を意のままにお使い下さい。全様」


 上辺だけ聞けば、義務的にも思える台詞。それでも全には、そこに隠された真意が伝わっていた。


 ――あなたが望む限り、ずっと側にいます。


 そう、涼一が言っているのだと、全には解った。


「……そう、だな。お前は、俺のものだ。お前だけは・・・・・俺だけのものだ・・・・・・・


 涼一を見上げる全の顔に、微かな笑みが浮かぶ。それは普段見せる事のない、彼女の少女としての顔。

 それを見られるだけで、涼一は幸せだった。自分の側にいる時だけ、彼女が真に彼女らしくいられるというのなら、それだけで十分だった。


 生きて、彼女の役に立つ事だけが、今の涼一の唯一の生き甲斐だった。


 不意に全が、そっと目を閉じる。それは主従関係にある二人に唯一つ赦された、本当の想いを伝える手段の合図。

 涼一がほんの少し、全から身を離す。そして。


 全の小さな唇に、涼一のそれがそっと重ねられた。

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