第八幕 生きる理由
「――わっちの存在を見破ったのは、お前様が初めてでありんす」
全の姿をした麗羽が嗤う。その事自体に何も意味などないと嘲るように。
「全様はどうした」
「今はわっちの中で眠っているでありんす。大人しくわっちと共鳴して自ら心中の道を選べば、自由にさせたものを」
という事は、やはり全は体を奪われるその瞬間まで麗羽を拒み続けたのだ。その事に、涼一は安堵の気持ちを覚えた。
「全様の体を返して貰おう。そして、二度とお前の未練に生者を巻き込むな」
毅然とした態度で、涼一は麗羽に告げる。しかし麗羽はそれに、妖しげな笑みを返すばかりだ。
「いいのでありんすか?」
「何がだ」
「お前様はこの者を、愛しているのでありんしょう?」
その言葉に、涼一の形の良い眉がぴくりと動く。そこに畳み掛けるよう、麗羽は言葉を続けた。
「わっちは知っておりなんす。お前様とこの者は、浮世では決して結ばれぬ
「……だから、想いを遂げさせてやると?」
「そうでありんす。わっちは、この世で結ばれぬ恋を実らせているだけ」
――だから、お前様はただそれに身を委ねればいい。
そう言って、麗羽が涼一の首に腕を回した。姿は全のものであるのに、その仕草一つ一つが酷く蠱惑的だ。
涼一の目が、すっと細められる。そして――麗羽の、全の華奢な体を力ずくで引き剥がした。
「――お前に、何が解る」
低い声で、涼一が言う。滲むのは、抑えきれぬ怒り。
「愛などと、よくも簡単に言ってくれたものだ。私が全様に抱く想いは、そのような軽い言葉で片付けられるものではない」
「……っ」
「私の事も、全様の事も知らぬお前が……我々の気持ちを語るな!」
涼一の気迫に、初めて麗羽が怯んだ様子を見せた。しかし負けじと、強い視線を涼一へとぶつける。
「そのような事を言って……どうせ命が惜しいだけでありんしょう! あのお方も、今まで道連れにした男達も! 皆皆、そうだったっ……!」
「……それがお前の本音か、麗羽」
憎しみすら籠る視線を、涼一は真正面から受け止める。その憎しみは涼一へのものか、命を惜しんだ男達へのものか……それとも彼女を孤独な死に追いやった、愛した男へのものか。
「誰も……誰もわっち達と本気で死んでくれようとする男などいなかった! いけないのかえ!? 遊女が本気で男を愛する事自体が、愚かだと言うのかえ……!?」
麗羽の手が、涼一の腕を強く掴む。それはどこか、救いを求めてすがり付くようでもあった。
「――私は、自分の命など惜しくはない」
その手を振り払わず、涼一は言った。麗羽を見つめるその目には、どこか哀れみめいたものも見える。
「本当ならば、私はとうに野垂れ死んでいた。だが全様が、私を生かした」
言いながら涼一の脳裏に巡るのは、全と初めて会った日の事。冷たい雨に身を晒し、ただ飢えて死ぬのを待つだけだった涼一に、全はこう言ったのだ。
『どうせ捨てる命なら、俺の為に使え。今日からお前は、俺の為に生きろ』
その言葉を涼一は、片時も忘れた事などない。だからこそ、涼一は言う。
「この命を散らせるのは、ただ一人全様だけ。あの方が私に生きよと望み続ける限り、私は死ぬ訳にはいかんのだ!」
「……生きよと、望む……」
麗羽の目が、大きく限界まで見開かれた。震える瞳から、ぽろり、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「わっちも……生きたかった……」
涙と共に、言の葉が零れる。未練に、憎しみに覆い隠されてきた麗羽の本心。
「本当は死にとうなどなかった……例え結ばれずとも……あの方を想って生き続けたかった……」
遊女としてではなく、一人の女としての純粋な想い。それを、今、麗羽は初めて人に打ち明けていた。
「身請けが決まったと告げたあの日、あの方は言いなんした。『私の事を忘れて、他の男と幸せになるの?』と。そしてこうも言いなんした。『私を本当に愛しているならば、証を見せて御覧。私以外の誰のものにもならないという証を』と。だから、わっちは……あの方の見ている前で川に身を投げ、証を立てなんした。あの方も、すぐに来てくれると信じて……」
その告白に、今度は涼一が目を見開く。そして何故その事実に気付けなかったのかと、己の鈍さを呪う。
遊女が一人で外を出歩くなど、普通なら有り得ない事なのだ。年季の明けていない遊女が遊廓の外に出る許可を得られるのは、客がその遊女を外に連れ出したいと望んだ時のみ――。
「……でも、あの方は来てはくれなかった」
するりと、麗羽の手が涼一の腕から外れる。力無く垂れ下がった腕は、まるで麗羽の虚無を表すかのよう。
「昏い水の底で、もがき苦しみながら待ったのに。最期まで、あの方は来てはくれなかった……」
硝子玉のような瞳が、涼一の姿を映す。けれどもその視線は、何も見ていないようであった。
「嗚呼――やっと気付いた」
ぽつり、麗羽が呟いた。涙は、いつの間にか止まっていた。
「わっちは……やはり、あの方でなければ駄目なのでありんす。誰を代わりに見立てようとも、同じ。この心は満たされなせん……」
涼一はそれを、黙って聞いていた。自分が口を挟むのは、無粋とそう思ったが故に。
「この者は、お前様に返しゃんす。わっちはここで、あの方を待ち続けるでありんす。いつまでも、いつまでも……」
最後にそう言うと、麗羽の全身からふっと力が抜けた。涼一は全のものでもあるその体を、慌てて抱き止め支える。
「……涼……一……」
「全様!」
涼一の腕を支えに、間も無くゆっくりと顔が上がる。微かに眉間に皺の寄ったその顔は――紛れもなく、涼一がよく知る普段の全のものであった。
「全様、麗羽は……」
「……
全の言葉に、涼一は安堵の息を吐く。麗羽が成仏した訳ではないが、ひとまずもう全が狙われる事はなくなったのだ。
「ったく、手前にゃ嫌になる」
眉間の皺を更に深めて、全が呟く。その瞳は、どこか憂いを帯びているようにも見える。
「あの女が手段を選ばなかったら、今頃二人ともお陀仏だったんだぞ? 俺なんざ振り払って、さっさと逃げちまえば良かったものを」
「……私にそれが出来る訳がないと、解っているでしょう」
「だから嫌になると言ってるんだ、馬鹿が」
そう言うと全は涼一から体を離し、一人歩き出した。少し辛そうではあったものの、その足取りは実にしゃんとしていた。
「死んでやる気はなかったんだな?」
涼一に背を向けたまま、不意に足を止めて全が問う。涼一はそれに、優しい笑みを浮かべて答えた。
「はい。あなたとの誓いを違える気は、全く」
「ならいい。これからも、俺の為に生きろよ」
それだけ言って、全はまた歩き出した。涼一もまた、遅れないようにその背中を追う。
そんな、どこまでもいつも通りのやりとりが堪らなく尊いと――そう、涼一は思うのだった。
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