第三幕 祟りの噂

 二人が太田屋に戻ると、店子達が慌ただしく開店準備をしている最中だった。その指示をしていた全が、二人に気付き振り返る。


「ただいま、全。お前の兄が帰ってきたよ」

「やっと戻りやがったか馬鹿兄貴……ってうわ!」


 文句を口にしようとした全を、旦が愛しげに抱き締める。それだけで何があったか察したらしい全は、兄の体越しに涼一を睨み付けた。


「涼一テメェ……」

「……申し訳ございません、全様」

「私がいなくて寂しかっただろう? 大丈夫だよ、今日はもうどこにも行かないからね」


 全のボサボサの髪に顔を埋めてすり寄る旦を、全が鬱陶しげに押しやる。そして旦を睨み付け、びしっと顔を指差した。


「いいか兄貴、こっちは兄貴の押し付けた仕事でてんてこ舞いなんだ。解ったら少しは手伝いやがれ」

「フウ、私の弟は兄への頼り方が下手くそだね。一言助けて兄上と、そう言ってくれれば幾らでも助けるのに」

「世迷い言を言ってないできりきり働け!」


 今にも本気で激怒しそうな全の剣幕に一つ溜息を吐くと、旦は全に変わって気だるげに店子に指示を出し始める。旦は全に頼られたいから全に仕事を任せているだけで、決して無能という訳ではない。寧ろ一つの店を担う者としては、有能な部類に入る。

 それでも全に構われたい一心で度々店を空ける為、店子や遊女の信頼は常に店を取り仕切る全の方にこそ厚いのだが。


「ここは兄貴に任せて大丈夫そうだな。涼一、遊女商品共の様子を見に行くぞ」

「はい、お供します、全様」


 不承不承働く兄の様子を見てひとまずは溜飲が下がったらしく、全はそう言うと店の奥へと歩いていった。涼一もすぐに、それに付き従う。

 太田屋の一日は、まだ始まったばかりだ。



「全様、お茶をお持ちしました」


 夜の帳がおりて暫しの時が過ぎた頃。涼一は煎れたての茶を持って、全の仕事部屋を訪れた。


「入れ」


 短い返事を聞き、涼一は障子を開ける。文台の前に胡座を掻く全は、難しい顔で帳簿を見つめていた。

 涼一は主の邪魔にならぬよう、黙々と茶を湯呑みに注ぐ。そうして置かれた茶の入った湯呑みを鷲掴み、全はぽつりと呟いた。


「……ここ数日、目に見えて減っていやがる」

「売上がですか?」

「客足だ。馴染みの連中は来るんだが一見いちげんは激減してるな。だから売上は大して減ってないように見えるがこれが続くと不味い」


 成る程、だから主は難しい顔をしているのだと涼一は納得した。涼一は下男という立場ながら頭が切れた為、全のこのような愚痴の聞き役になる事が多かった。


「……やはり、最近の連続心中が尾を引いているのでしょうか」


 思わず零れた涼一の呟きに、全の形の良い眉がぴくり、と動く。そして、手にした茶を一気に飲み干した。


「遊女と客の心中なんざ、珍しい事でもねえ。……と言いたいんだがな。最近の心中の数は、生まれてからずっとこの吉原で育ってきた俺から見ても異常だ」

「はい。吉原ここに来て日が浅い私でも、何かがおかしい事は解ります」

「店子共は麗羽れいはの祟りだなんだと言っちゃいるが、どうだかな」

「麗羽?」


 涼一が聞き返すと、全は「知らないのか」とでも言いたげな目を向けた。その視線に、涼一は世俗に疎い己を恥じ俯いてしまう。


「ハァ……お前は何かと使える奴だが、うちの店以外の事にゃてんで興味を示さないのが玉に傷だな」

「……申し訳ありません」

「これからは他の店の事もよく研究しとけ。下男に学は不用だと世間の奴らは言うが、どんな立場だろうと知識が多くあるのはいい事だ。無知な奴は確かに扱いやすいが、いざという時に致命的な失敗をやらかすのもいつだって無知な奴だからな」


 全の言葉を、涼一は座して静聴する。涼一は太田屋の下男になるまで商いというものに深く関わった経験はなかったが、全のような考え方はきっと珍しいのだろうという理解はしていた。


「話を戻すぞ、麗羽はこの吉原の大店おおだな、松井屋の売れっ子だった遊女だ」

「売れっ子『だった』……?」

「ああ。……麗羽は少し前に自殺した。川に身を投げたんだ」


 そう全が口にした途端、涼一には辺りの空気が一気に冷えたように思えた。全はあくまで淡々と、話を先に進める。


「それからだ。この吉原で、やたらと心中が起こるようになったのは。だから信心深い奴らは、これは麗羽の祟りだと騒いでるんだ」

「しかし……その麗羽は心中した訳ではないのでしょう? それなのに、何を祟ると言うのです?」

「そこだ。だから俺は、麗羽の話は単なるこじつけだと思ってる。それでも今が異常なのは変わらねえがな」


 そこまで言うと、全は小さく溜息を吐いた。そして無言で、涼一に空の湯呑みを差し出す。

 湯呑みを受け取り、涼一は無言で新しい茶を注ぐ。その間に全の興味は、また帳簿へと移っていた。


(……祟り、か)


 存在を否定しながらも、何故かその言葉は、涼一の頭から離れようとはしなかった。

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