第二幕 困った主人

 涼一が太田屋を出ると、丁度陽が傾き始めたところだった。遊女達にとっては、ここからが一日の始まりである。

 人の少ない表通りを、涼一は歩き始める。桜の季節を過ぎたばかりの外は、まだ少し肌寒さが残っていた。


「……全く、あきら様にも困ったものだ」


 誰も聞いていない事を確認してから、涼一はひとりごちる。下男の身分である彼が主人に不満を漏らしているなどと知れたら、それこそどのような目に遭うか解らないからだ。

 やがて涼一の目に、目的の茶屋が見えてくる。その店先では、果たして探し求めていた人物が呑気に甘味を味わっていた。


「旦様!」

「やあ、涼一じゃないか」


 涼一の姿を認めると、その人物は軽く手を上げる。着流しを遊び人風に着崩し、長い髪をゆとりをもって結んだ美貌の青年。彼こそが太田屋の主人、旦であった。


「お前も散歩かい? ならここで一緒に甘味でもどうだい?」

「お戯れを、旦様。私は全様の命で、あなたを探しに参ったのです」

「フウ、全の生真面目ぶりにはいつもながら参るね。まだお天道様だってこんなに高いじゃないか」


 そう憂いを帯びた瞳で溜息を吐く姿は、妙に艶かしく。初な女ならば、一目で恋に落ちたかもしれない。

 しかし涼一は男である。更に言えば、彼にとってこれは実に見慣れた光景であった。


「……旦様。お戻り下さい。あなたあっての太田屋なのですから」

「私がいなくても、全が上手くやるだろう。太田屋を実質取り仕切っているのは、全の方なのだから」


 拗ねたような旦の言い分も、けして間違ってはいない。口は悪いが勤勉な全の方が、店を空ける事の多い兄より太田屋で影響力を持っているのは確かなのであった。

 しかしそれならば、旦が真面目に太田屋の経営を行えばいいだけの話である。更に言えばまだ若い全を番頭に据え、経営を一手に引き受けさせたのは他ならぬ旦自身なのだ。

 それを知っている涼一からしてみれば、旦のこの拗ね方はあまりに子供染みていると言わざるを得なかった。


「旦様。……あまり店を空けては、全様も寂しがりますよ」


 仕方無く、涼一は最後の手段を切り出した。すると涼一の言葉を聞いた旦が、嬉しそうに微笑む。


「全は、私がいないと寂しいかい?」

「はい。きっと」


 今ここにいない全に申し訳なく思いながら涼一が肯定を返すと、旦は上機嫌にうんうんと頷いた。そして茶を飲み干し、店主を呼びつける。


「ご馳走様。私はそろそろ帰るとするよ。可愛い全が寂しくないようにね」

「へえ、旦那のところはいつもご兄弟仲がよろしい事で」

「そうとも。いつまで経っても、全は私がいないと駄目なのだから」


 どこか得意気に言う旦に、涼一は思わず溜息を漏らす。そう、いつもこうなのだ。

 一度外に出た旦は、全が自分を必要としていると言われるまで太田屋に帰らない。寧ろ、そう言わせる事こそを目的としている節がある。

 実に回りくどいやり方で、弟を溺愛する。旦とはそういう男なのである。

 もっとも当の全はいつまでも弟離れしない兄に呆れ気味で、旦を連れ戻すのに自分を出汁に使うなと毎回ぼやいているのだが。


「さあ涼一、帰るよ。全が私を待っている」

「……畏まりました、旦様」


 意気揚々と帰路につく旦を見ながら、涼一は心の中で自分の不甲斐なさを全に詫びるのだった。

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