第43話 問いかけ ウィルヘルミナ

 ウィルヘルミナの足は、離宮から遠ざかってしまっている。決してシャスティエと仲違いしたという訳ではなく、やむにやまれぬ理由が重なってのことだった。


 まずひとつは、シャスティエの体調を慮ってのこと。先日、父に捕らえられていた女性たちと対峙したことは、やはり身重の方の心身には負担になってしまったらしい。医師の命令と嘆願によってシャスティエは寝台に押し込まれることになって、見舞いもままならないことになってしまった。

 シャスティエの容態は、ウィルヘルミナにも大いに責任がある。父のことも、女性たちのことも、そしてもっとも直接的には、彼女自身の不甲斐なさも。でも、謝りたいからといって押し掛けては御子にも母君にも負担をかけてしまうことになる。シャスティエたちの無事を願えばこそ、敢えて訪ねることはできなかった。


 そしてもうひとつには、マリカと――それにラヨシュから目を離すことができないということがある。ラヨシュのを聞いて以来、マリカはいつ泣き出すか癇癪を起こすか分からない状況になってしまっている。離宮に連れて行くことができないのはもちろんのこと、置いて行くのも考えられないと思うほどの有様だった。侍女たちにとっては癇の強い子供だと思われてしまっている節もあるし、母であるウィルヘルミナが傍にいてやらなくてはと思うのだ。




 だから、ウィルヘルミナはその報せをひとりきりで受け取った。夫がついに父を破り、近く凱旋するのだ、という報せを。シャスティエと共に手を取り合って喜ぶことができなかったのを嘆くべきか、父の最期を思って表情が曇るのを取り繕わなくても良かったのを喜ぶべきかは分からない。でも、たとえ使者が相手であっても、悲しみなど見せるべきではない感情なのだろう。父は幾重にも罪を犯した反逆者なのだ。王によって討たれるのは当然の帰結、ずっと前から分かっていたことなのだから。


「そうですか……ファルカス様――陛下が、ついに……」


 ウィルヘルミナが無理に微笑みを浮かべたところで、跪く使者には見えないはず。でも、これからはどこに行っても誰と会ってもこのように振る舞うべきなのだと彼女は知っていた。憎むべき逆臣が討たれたこと、王が勝利を収めたことは喜ぶべきこと、祝うべきこと。夫の妻であろうとするなら、王の妃の立場にあるならば、それに背く振る舞いをしてはならない。


「は。ティゼンハロム侯爵に並んで長子のティボールも討ち取られたとのことでございます。その他、一族の女や幼少の者も全て捕らえられ、陛下の沙汰を待っております」


 とはいえ、夫が遣わしてくれた使者は王妃を気遣う風が感じられるから優しい者なのだろうと思う。勝利の報せならばもっと勢い込んで伝えたいものだろうに、あくまでも淡々と告げるのは、もしかしたら不本意なことなのかもしれないけれど。


 ――お兄様も……。でも、お母様やお姉様方はまだ生きておられるのね。


 父の一族の者とは、すなわちウィルヘルミナにとっても身内の者ということになる。彼女が真っ先に気に懸けるであろう肉親のことを、報告の体で伝えてくれた夫の配慮は過分のものだ。


「それで、陛下は今どちらに? ティゼンハロム侯爵領で采配することは、まだ残っているのでしょうか。王都に戻られるのは、いつになるのでしょう……?」

「残党狩りは、臣下に委ねられるとのことでございます。侯爵を捕らえたのは地元の民でしたから、褒美といっても領地を与えるということにはなりませんので。いまだ逃げ惑う者どもをいかに炙り出し、荒れた民心を宥めるかで、今後を委ねる者を決められるおつもりなのでしょう」

「そう、ですか……」


 残党、とひと言で括られた者たちも、きっとウィルヘルミナがよく知る者たちなのだろう。彼女が生まれ育ち、父が治めてきた領地も、これからは縁もゆかりもない者に切り分けて与えらえるのだ。

 父のことだけでなく、彼女にとっての悲しみは尽きない。できることなら、見知った者や母や姉の命乞いをしたい。できるだけ罪を減じて、せめて命は長らえるようにと、夫へ言伝を頼みたいという衝動が、胸の奥から喉へとせり上がってくる。


「王が間もなく戻られるというのは、とても心強いことですわ。民も、臣下の方々も、何よりクリャースタ様も。御子の誕生を、父君にお見せできるのですもの。一刻も早いお戻りをお待ちしています、と――どうかお伝えしてくださいませ」


 簡単に、とはいかなかったけれど、ウィルヘルミナはどうにかしてその衝動を呑み込むことに成功した。代わって口にするのは、今の彼女が言うべきであろうこと。王の勝利を祝い、側妃を慮り、その御子の誕生を待ち望んでいると示すこと。彼女がそう言ったと伝えることで、きっと夫を安心させることができるように。


「お言葉、確かに承りました」


 心からのものだと信じさせるには、彼女の言葉はやや早口すぎたかもしれないし、強張りを隠すことはできていなかったかもしれない。でも、使者は少なくとも気付かない振りをした。だからウィルヘルミナも何事もない風を装って、この面会を打ち切ることにした。


「離宮の方へもどうか早く行って差し上げて。クリャースタ様にはお会いできなくても、侍女の方々がきっと喜んでくださるでしょう」


 彼女は芝居には慣れていないのだから、を出す前に使者には下がってもらいたかった。たとえこの先はずっと、本心を見せないようにしなければならないとしても。王妃として衆目に晒される機会は、まだ少し先のはずなのだから。




 使者を送り出すと、ウィルヘルミナはマリカの部屋へと足を向けた。


「マリカ……? お母様よ……」


 部屋に閉じこもって庭遊びさえしようとしない娘の様子は、愛犬のアルニェクを亡くしたばかりのころとよく似ている。あの頃のマリカも、姿の見えない犯人に憤り、突然奪われた犬を思ってはよく泣いていた。でも、今の状況はあの頃より悪いかもしれない。犬を殺した犯人は見つかった――自ら名乗り出てくれた――けれど、それはマリカがもしかしたら両親以上に親しみ信頼している者だった。ただでさえ父と祖父との争いや、腹違いのきょうだいたちの存在を受け入れかねているマリカの心に、ラヨシュのはどれほど深く刺さっただろう。


 ――エルジーやお父様と同じ……あの子も、私たちのためだったと言うことだけど。


 あの日――人質から解放された女たちを、シャスティエが追い返してくれた日。客を帰してやっとひと息吐くことができていたウィルヘルミナは、マリカの叫び声によって慌てて立ち上がることになった。あまりにも不躾な女たちの言動を目の当たりにして、娘が傷ついたのではないかと案じて。

 そしてマリカの部屋に駆けつけると、そこは惨憺たる有り様だった。ラヨシュを労って出したはずの菓子が床に投げ捨てられ、倒れた茶器が敷物に染みを描いていた。それだけでなく、皿も盆も同様に散らばって、中には砕けたものもあった。その惨状を生み出したのがマリカだということはひと目で分かった。床の菓子も茶器も、全てマリカと――それに、彼女に跪くラヨシュを中心に散乱していたから。何より、ウィルヘルミナが部屋に入った瞬間も、マリカは小さな足で床を踏み鳴らしながら怒鳴っていたから。


『何でっ! どうして、そんなこと言うの……ラヨシュ!』

『マリカ、どうしたの……ラヨシュも……』


 鋭い欠片をマリカが踏むことがないよう、慌ててまだ床の綺麗な方へ導きながら、ウィルヘルミナはマリカとラヨシュを見比べた。マリカがこれほど怒りを露にするのはさすがに珍しい。しかも、相手がこの穏やかな少年というのは初めてのことではないだろうか。興奮して、母の胸の中でも暴れる娘よりも、ラヨシュの方が筋道の立った説明をしてくれることを期待したのだけど――


『申し訳ございません、王妃様。私のせいなのです。私が――犬のアルニェクを殺しました。やっと、打ち明ける決心がついたのです』


 跪いた姿勢から見上げてくるラヨシュが述べたのも、全く訳の分からないことだった。




「マリカ……ご機嫌は、どう?」


 今日のマリカの部屋は、侍女たちによってきちんと片付けられている。でも、娘の心中は変わらず荒れ狂っているであろうことは、母の呼び掛けに返事もしない態度や、寝台に身体を丸めてこちらに向けられた背中、寝具を握りしめる拳から見て取れた。幼い心には、既に受け止めきれないほどの負担がかかっているだろうに、さらに重石を乗せようとしていることは、母としてはとても辛い。けれど言わない訳にもいかないから、ウィルヘルミナはそっとマリカの傍らに腰を下ろした。寝台の上に散る娘の髪を梳きながら、語りかける。


「お父様からお使いが来ていたの。おじい様との戦いは終わって、もうすぐこちらに帰ってきてくださるそうよ」

「……おじい様は、亡くなったの……」


 娘からの返事は返ってこないかもしれないと思っていた。話をするためには、辛抱強く言葉を尽くさなければならないかもしれない、と。だから、顔を背けたまま、小さな声であってもマリカが答えてくれたことに、ウィルヘルミナは驚き、動揺を隠すのに少し苦労した。


「……ええ。伯父様も。……おふたりとも、沢山の人に辛くて悲しい思いをさせてしまったの。だから、お父様に裁かれるのは、仕方のない――当然のことなの」

「小母様たちが仰っていたものね……ひどいことを、なさっていたのね……」

「ええ、そうね……」


 父や兄たちのを、娘にどこまで詳しく話さなければならないのか。先ほど使者から教えられたように、戦場を放棄して父たちを仰いだ者たちさえも見捨てたことまで伝えて、娘を傷つけてはしまわないか。内心で思い悩んでいたところだったから、


「私やお母様のためにそんなことをなさったの……? 私、そんなことして欲しくなかったのに。どうして、皆……ラヨシュだって……!」

「マリカ……」


 これだけは変わらない軽やかな動きで、マリカは寝台から跳ね起きると母の胸に飛び込んできた。泣き顔を見せまいとするかのように顔を伏せていても、頭を押し付けてくる力の強さで娘の裡に渦巻く怒りや嘆きや混乱は伝わってくる。父や祖父、肉親同士の争いそれ自体だけではなく、マリカは彼らが掲げる身勝手な大義にも傷ついているのだ。誰もが、彼女や母のためを思っているのだ、という。


 ラヨシュも同じことを言っていた。あの日、泣き喚いて地団駄を踏むマリカをやはりこうやって抱きしめながら、ウィルヘルミナはラヨシュに問い質したのだ。アルニェクを殺したというのは本当なのか、どうしてそんなことをしたのか、と。


『あの頃……私は、クリャースタ様とフェリツィア様が王宮を離れられるのが王妃様方のためになるだろう、と考えてしまったのです。そうすれば陛下がより長い間、おふたりの傍にいてくださるのではないか、と……』


 顔を青褪めさせ引き攣らせ、声も震わせながら。それでも、ラヨシュは目を逸らすことなく答えてくれた。目に涙の膜が張るのを見て、ウィルヘルミナも彼が戯れでやったことではないのは悟った。そもそも、そのようなことをする子供ではない。――だから、相応の理由があったはずなのだ。


『ですが、マリカ様のご心痛を見て、本当に正しかったのかずっと悩んでおりました。しかも、クリャースタ様は王妃様のために大切なお身体を押してまで動いてくださって――だから、王妃様や王女様の御為、などとは誤魔化しに過ぎなかったと思い知ったのです』


 だからといって、罪は罪、なのだろうけれど。マリカの心を痛ませ、シャスティエを怯えさせ、ウィルヘルミナにも不安を抱かせたことは。だから、事実を知った以上は、何もしないということはできないのだ。それは、彼女にもよく分かっているのだけど。


『罪の重さは重々承知しております。――どうか、死をもって償いとさせてくださいますよう……!』


 でも、ラヨシュにこの罪を犯させたのは、母のエルジェーベトの影響も大きいに違いない。何よりも、ウィルヘルミナとマリカの存在が彼にそうさせた。それを思うと、ラヨシュが望むままに罰を与えるのが正しいこととは思えないのだ。

 ラヨシュは今、自室を牢として自らを閉じ込めている。鍵も掛かっていない部屋から出ようとしない彼のことを、使用人たちは王女の怒りを買ったとでも思っているらしい。ウィルヘルミナのもとへ、執り成しを願う者もいるほどだった。その見方も、一面では間違いではないけれど――マリカの胸中はもっと複雑だし、次の一歩を踏み出すこともとても難しいことだろう。でも、このまま心を閉ざさせていることもまた、娘のためにはならないはず。


「マリカ。お父様が戻られたら、ラヨシュのことをお伝えしなければならないわ」


 親しい人が、お前のために、と言いながら罪や悪事を犯すのを見るのは辛いものだ。その悪の一端を負わせられるような気になるのも、彼らがウィルヘルミナのために裁かれることになってしまうのも。頼んでいない、勝手なことをしないでちょうだい、と詰りたくなる瞬間もある。マリカも多分そんな想いを抱いていて、そして母も同じ気持ちなのだと気付いている。だから大人たちへの不信が極まった今でも、こうして甘える素振りを見せてくれるのだろう。


 でも、いつまでも他者の思惑やその結果を、黙って見ているだけでは許されない。勝手な想いを押し付けられることに憤るなら、自分自身で考え決断し、動くことができるのを示さなければならないはずだ。


「エルジー……エルジェーベトも、悪いことをしてしまっているの。ラヨシュはその子供だから許していただくのは難しいかもしれない。でも、お母様は助けてもらえるように、お父様にお願いするつもりよ。エルジーもラヨシュも、お母様のために罪を犯してしまったのだから。せめて、ラヨシュだけでも助けたいの」


 アルニェクはただの犬だから、などと言ったらマリカは怒り狂うのだろうけど。でも、ウィルヘルミナが言わんとしていることはそこではない。マリカにとってほとんど唯一の心を許せる相手、その大事さとアルニェクを奪われた怒りと憎しみは、一体どちらが重いのだろう。娘に断罪を乞われたら、きっと夫は――もしかしたら喜んで――その願いを叶えるだろう。でも、感情に任せてラヨシュを罰したら、娘は後々それを悔いることにならないだろうか。


 ウィルヘルミナはマリカの頬に手を添えると、娘の顔を上向かせた。父親譲りの青灰の目を覗き込んで、問いかける。


「貴女は、どう思う……? ラヨシュを、許せないかしら。お母様とは逆のことを、お父様にお願いする……?」


 混乱と悲しみの只中にある娘に言うには酷なことであることは承知している。でも、考える時間を無限に与えることもできない。夫が帰るまでに、マリカには心を決めておいてもらわなければならないのだ。母としてウィルヘルミナにできるのは、娘に決断を促すことだけ。そして、できることなら後悔することがないように支えてあげなければ。


 母の目の真剣さから、猶予がないこと後戻りができないことを察したのだろう、マリカは長いことウィルヘルミナの目を見返してぎゅっと顔を顰めていた。けれどついに小さな唇が開かれる。


「お母様。私は――」

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