第2話 狐と狼 アンネミーケ
イシュテン王の詰問に、マクシミリアンの身体が軽く震えたのが分かった。抜身の剣を突きつけられるような鋭い敵意は、確かにアンネミーケも対峙したことがない類のもの、経験の浅い息子が怯むのも致し方ない。
――だが、敵にそれを見せてはならぬ……。
相手からは見えないよう、卓の下と椅子の陰で、そっと息子の手に触れる。落ち着け、と言葉によらず伝えるために。それが果たして成功したのか否か――マクシミリアンの顔を覗き込むわけにもいかないから分からないが、とにかく問われたのは彼女に対して、だ。アンネミーケ自身が毅然としていれば良いのであれば、話はまだ簡単だった。
「
まずは真っ直ぐに答えを返すことはせず、相手の出方を窺う。
イシュテンの軍の強さは目の当たりにさせられた。イシュテン王と直に顔を合わせて言葉を交わして、戦うしか能がない獣ではないこと――それどころか侮ってかかることはできない知性も持ち合わせていることも、よくよく承知している。
だが、それでも言葉の駆け引きにおいてはアンネミーケに一日どころではない長があるはずだった。傲慢を装って相手を焦らし苛立たせ、彼女の思い通りに話を進めるのだ。
案の定、彼女の迂遠な答えはイシュテン王を満足させなかったようだった。青灰の目がわずかに細められ、唇を軽く噛んだのが見て取れる。この程度の挑発に不満を露にするようでは、まだまだ青い。あるいは、不調を伝えられているあの姫君のことがあるからこそ、平静を保つのが難しいのかもしれないが。
「……対立する複数の者から同じ話を聞いたのだ。信憑性は高いとイシュテンの誰もが考えている。何より、件のミリアールトの生き残りも戦場でそのようなことを喧伝していたが」
怒りによってか声は低くなっているが、イシュテン王は忍耐強い男のようだった。安易に怒鳴り出したりはしないところは、敵ながら評価できる。
――この妾にしては、随分と甘い考えではないか……?
敵と対峙して、問答を愉しむなどと。しかも相手は精悍な美丈夫と名高い――そして実際に会って噂を確かめた――イシュテン王だ。剣ばかりを恃む者、見目の良い者、いずれも普段のアンネミーケならば侮るか鼻白むかする対象なのだろうに。品定めできる程度の余裕は持ちつつも、舌戦の緊張を心地よく感じているのは不思議だった。
多分、この男の目に彼女の容姿を嗤う気配が見えないから余計な引け目を感じずに済んでいるのだろう。こちらを鋭く見据える眼つきはあくまで鋭く、女だからどうこうという遠慮はない。お互いに本音を隠し力を探り合う駆け引きは、それこそ戦場で行われることと似ているのだろう。アンネミーケに剣を握ることはできないが、言葉での戦いならば慣れたものだ。年齢も立場も、男女の別も関係ない。
剣での戦いに敗れたとしても、このような若造に、まだ後れを取る訳にはいかないのだ。
「そう。元々はかの御方の進言であったが、妾も認めたこと。シャルバールのことを持ち出せばイシュテンの獣どもは平静ではいられないだろうから、と……途中までは上手く行ったと思ったのに、まことに残念なことであった」
あえて笑い声を響かせて見せれば、傍らのマクシミリアンが息を呑む気配がした。母がわざわざイシュテンを挑発するような真似をするのが信じがたいのだろう。――だが、イシュテンの怒りは全てアンネミーケに向けさせなければならないのだ。先ほどマクシミリアンに向けた言葉からして、イシュテン王に彼女を見逃すつもりがあるなどとは考えづらいが。念には念を入れなくては。
ミリアールトの出身らしい、薄い金色の髪の老臣によって翻訳された言葉が耳に届くと、イシュテン王の頬に朱が差した。獣呼ばわりが聞き捨てならぬのはもちろんのこと、公子の挑発による指揮の乱れでイシュテン側の犠牲が増えたことを思えば、怒りを抑えられぬのは当然だろう。戦場で人が傷つき命を踏み躙られるのがどういうことか、アンネミーケも自身の目で見ることになったのだから。
イシュテン王が憎しみを再燃させたのを確認してから、アンネミーケは続ける。
「姫君はともかく、ティグリス王子とレフ公子は陛下にとっては敵であろうに。まともに耳を傾けられるとは、いささか意外なこと」
「苦し紛れの出鱈目とでも? ティグリスは御身を信じて乱を起こしたのだろうに冷たいことだ。シャルバールでのこと――密約の相手を裏切るとは信じがたい卑劣としか思えない」
「それによって陛下は救われたのだろうに。公子も、同じことを言っていたと思うが」
敵に恩を着せられるのは、いかほどの屈辱なのだろうか。イシュテン王の口元が不快げに引き攣るのを見ながら、しかし、アンネミーケの笑みは苦いものだ。兄弟で王位を巡って争うのがイシュテンの倣いだろうに、その王の言葉は半ば血の繋がらない弟に対して驚くほど、そして過分なほどに優しかった。
――ティグリス王子か……あの者が妾を信じていたなどとあり得るものか……!
公子も度々アンネミーケの命に背いて事態を混乱させてくれたが、身勝手さでいえばティグリス王子もさほど違いはないように思う。ブレンクラーレとイシュテン、両国の遺恨の根本でもあるシャルバールにしても、例の策を考えたのはティグリス王子にほかならない。そもそも挙兵の時機さえあの王子は勝手に決めて一方的に通達してきた。同盟相手に対しての不実はあちらも同じことだと思う。
――結局は、結ぶべきでない者たちと結んだのが妾の落ち度、ということなのだろうが。
何もかもを見通し、操ることができると考えていた傲慢。他者を見下す独善。それらがアンネミーケを今の状況に追い込んだのだ。賢いつもりで、引き際を誤った愚かさはもはや取り返しのつくものではない。――だが、息子の治世が母の愚行によって
「……まあ、お望みの言葉を差し上げてもよかろう」
イシュテン王への挑発は、この辺りまでで良いだろう。怒りに任せて、アンネミーケへの殺意を募らせれば良いのだ。悪名を一身に背負って去ることができるならば、国と息子への償いにはなるだろう。
だから、せいぜい開き直ったように見せなくては。ふてぶてしく勿体ぶってイシュテン王の怒りを煽り、彼女の――狡猾で貪欲な女狐の首を刎ねろと言わせるのだ。できればマクシミリアンに口を挟ませぬ勢いで激昂して欲しいものだが。
「妾は確かにティグリス王子と通じておった。兵を貸し、我が国の後援を餌に諸侯を陛下から寝返らせた。レフ公子も、ティグリス王子の乱には関わっている。何しろシャルバールの罠を築いたのはあの御方だからな。――そう、その時にイシュテンに足がかりを残しておいたからこそ、姫君を攫うのに手の者を送り込むのも容易かったのだが。諜報においてはイシュテンはまことに脆かった、そのことは是非とも教訓になさるが良いだろう」
「無論、そのつもりだ」
「何……?」
相手の神経を逆撫でるため、わざとらしく恩着せがましい忠告面をして告げたというのに、イシュテン王は素直にしっかりと頷いた。通訳を待つまでもなく、その仕草だけで意思が知れたほどだった。
自国の弱さを敵に指摘されて、どうして真っ直ぐに受け取ることができるのか――アンネミーケが訝しんだ隙に、イシュテン王に発言することを許してしまう。
「一応は理由もお聞きしておこうか。ティグリスは、イシュテンの力を弱めることがブレンクラーレの利になると言っていたが」
「……ティグリス王子に伝えたことは誤りではない」
――異母弟を殺す前にそこまで話をする暇があったのか。
驚きを表情に出さないように苦労しつつ、アンネミーケは慎重に答えた。知らぬ事実を突きつけられて動揺させられる側に回るというのは、なかなか不愉快なものだった。
ティグリス王子の陣営から密約が漏れる懸念を抱いてはいたものの、こうまで詳細かつ正確な情報が伝わっていることも予想の外ではある。乱の後にイシュテン側からの明確な非難がなかったことで、ひとまずは安堵していたのだが――ハルミンツ侯爵の首が送られてきたのは、やはり牽制の意味があったのだろうか。
マクシミリアンが、母の方を窺おうと首を捻っているのが目の端に窺える。敵の前でよそ見をする不心得を、叱ることができないのがもどかしかった。アンネミーケがイシュテン王の殺意を受けるのを恐れているのかもしれないが、ブレンクラーレのためには母の命など諦めるしかないのだ。通訳の者は気が利いているようで、マクシミリアンが発するあの、だとか母上、だとかいう呟きを拾う気配がないのが幸いだった。
「ブレンクラーレは、イシュテンに長らく手を焼かされてきたのだ。不具のティグリス王子が王になれば、その王に恩を売ることができれば、ブレンクラーレの国境の平和は保たれよう。夫の代理に過ぎぬ女の身には何かと侮りも多いからな……剣に依らずとも功績を上げることはできるもの、と。国内と歴史に示したかったのだ」
マクシミリアンに口を挟む隙を与えぬため、イシュテン王への挑発のため、アンネミーケはやや早口に捲し立てる形となってしまった。相手を怒らせるはずが、イシュテン王の表情は既に凪いで、アンネミーケの言葉がさほど堪えているようには見えない。それどころか、青灰の目に冷静に見据えられると、アンネミーケの方こそ追い詰められているかのような気分になってしまう。
――妾が
自身より遥かに若く経験の浅い男に底を見抜かれているのかと思うと屈辱だった。功名心に囚われてイシュテンに手を出したと見せなければならないのに! だが、イシュテン王が続けて述べたのは、彼女が長々と並べたこととは多少ずれていた。
「イシュテンに弱い王を、ということであればティグリスよりもなお適役がいるな。恐らくはとうに気付かれているのだろうが」
「……マリカ王女のことか……」
アンネミーケは、頬から血が引くのを感じた。イシュテン王とのやり取りは、それだけならばごく自然な論理に過ぎない。不具の王子と幼い王女と。どちらかを王に選べと言われれば、イシュテンの者にとっては頭の痛い問題になるだろうが。だが、それでも男の王を選ぶに違いない。ブレンクラーレと同様、かの国においては女子には継承権はなく、戦場に立つことのできない王もあり得ないのだから。
だから、アンネミーケがすぐに言い当てることができたとしても何ら不思議はないはずだった。だが、にも関わらず彼女は顔色を変えてしまった――かもしれない。否、確かに動揺を見せてしまったのだろう。なぜならイシュテン王は間髪入れずに彼女の隙を責め立てたのだから。
「ティグリスの時にイシュテンに足がかりを残していたということだが、ブレンクラーレの者だけで動くのはさすがに目立つ。ティグリスに代わって、間者どもと例の公子を助けた者がいるはずだと思うのだが」
――イシュテン王の本題はこれか……!
イシュテン王が、彼女に何を望んでいるか――瞬時に悟って、アンネミーケは唇を噛んだ。イシュテン王にとっては今回の遠征は道の半ばでしかないのだ。帰国すればティゼンハロム侯爵との決着が待っている。その前に、政敵を糾弾する手札を得ようと考えるのは、当然のことだった。そのようなことにも思い至らなかったとは――我が身さえ犠牲にすれば全て丸く収まる、などという陶酔はいかに視野を狭めることか。これではあの姫君を嗤えない。
「失礼ながら、ファルカス陛下はブレンクラーレの知力を侮っている。言葉も見た目も、仕草でさえ、生粋のイシュテン人さながらに振る舞うことができる者を、妾は多く飼い慣らしておる」
「それは見事。とはいえ、黒松館の正確な場所や国境までの道を詳しく知るのはさすがに難しかったのではないのか?」
内通者の存在なくしては。
相手を煙に撒こうとして、かつ再び挑発しようとして、あえて驕った振りをして見せたが――イシュテン王は言外の言葉であくまでもアンネミーケを追い詰める。ささやかな時間稼ぎでしかない、儚い抵抗の陰で、彼女は必死に計算を働かせた。イシュテン王のこの糾弾を、大人しく認めるべきか否か。この男は、どこまでの確信があって彼女に対峙しているのか。
あの金の髪の姫君が、ティゼンハロム侯爵と結んだことでアンネミーケを非難したことはあっただろうか。咄嗟に思い出すことはできないが――イシュテンからの道中、従弟の公子に聞かされた可能性は大いにある。そして、それ自体は咎めるようなことでもなかった。姫君が再び夫と会うことができるなど、誰も考えてはいなかったのだから。
ティゼンハロム侯爵との間柄など、所詮利害だけに基づくものだ。お互いに確固たる信頼などあるはずもなし、侯爵が反逆の罪を逃れるために庇ってやる必要など微塵も感じない。だから、認めてしまっても良い――とは、断言できない。
侯爵との関りを認めた時に、ブレンクラーレに何が起きるのかも考えなくては。
イシュテン王が従える臣下たちの目が、一段と鋭くアンネミーケを貫いているように思えてならなかった。シャルバールでのことは、この度の敗戦とその賠償で相殺されたといえなくもないかもしれない。だが、二度も自国に対して陰謀を巡らせていたと知れば、ブレンクラーレへの敵意と憎悪は、もはやアンネミーケひとりで背負うことができないほどに膨れ上がるのではないか。
――それに……イシュテン王がティゼンハロム侯爵を下すとは限らないではないか!
イシュテン王に侯爵との密約を明かして、その後めでたく侯爵が討ち取られればまだ良い。最悪の事態は、敵国との内通を突きつけてなお、イシュテン王がその義父に敗れた場合に訪れる。アンネミーケの裏切りを、侯爵は必ず憎むだろう。女の王を擁しての不安定な時代にひと息を吐くどころか、あの老人の性格では万難排してでもブレンクラーレへの意趣返しを企みかねない。
「名高い摂政王妃にしては察しが悪いように見受けられる」
答えの出ない思考の渦に囚われて黙するうちに、イシュテン王はついに痺れを切らしたようだった。冷酷な狼の目が、アンネミーケを捕えて逃がさない。鷲の巣城の中において、彼女を害することができる者はまず存在しえないが――言葉の刃についてはその限りではない。
ミリアールト出身の老臣が主君の言葉を翻訳するまでの短い間が、アンネミーケに与えられた最後の猶予だった。
「ブレンクラーレの手をイシュテンに招き入れたのは、我が義父、ティゼンハロム侯爵ではないのか……!?」
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