θSide2

 こうした、ある意味で充実した生活が壊されたのは、高二の秋のことだった。その日はいつもより空が高く、青く澄み渡っていた。美姫は普段通りに起きて朝食を取り、時間をかけて丁寧に支度をしてから登校した。授業も、友人とのお喋りも、加絵との口論も、いつもと変わったところは全くなかった。

 唯一違ったのは、放課後に加絵の友人である、大人しくて地味な見た目をした長髪の少女、隼瀬真奈から声が掛かってきたことであった。通常、美姫と加絵が牽制し合っている間ですら、無口な銀髪の友人と共に、揃って観戦だけをしていた彼女が、今更になって美姫に何の用があるというのか。訝しがりながらも彼女の後へついて行った美姫は、とある高級和食料理店へと案内されることになる。


 普段から彼氏などに連れられて格式高い店に行き慣れていた美姫は、苛めたくなるような様相をしている目の前の少女が何食わぬ顔をして入店していることに驚いた。それも、まだ学生という身分であるにもかかわらず、その学生だけで来ることになんの衒いもなく店の奥へと進んでいくものだから、美姫の方が却って狼狽させられていた。

 席は完全個室で、二人は向かい合う形で腰を下ろした。真奈が適当に注文をし、軽食が運ばれてきた後に、彼女は本題を切り出した。


「あなたに会って貰いたい人がいるの」


 すぐに来るから、と宣う少女は、運ばれてきた品を優雅に食していた。美姫は彼女の様子を惚けた顔で眺める。

 件の男が寄越してくる情報の中に、目の前の少女に関するものは見当たらなかった。だから美姫の中でリスト化されている危険視すべき人物から、隼瀬真奈の文字は除外されていたのだが、それ故に、ますます彼女が美姫を呼び出した理由を見い出せず、彼女の中で不信感は募るばかりであった。

 同時に浮上してきたのは、なぜ自分はおめおめと彼女の後ろをついて行ったのだろうという疑問だった。例えどんなに交流の無い間柄であったとしても、学生同士が学校で話をする程度のことならば、何ら不自然なことはない。しかし、真奈は学校でもなく、周辺の喫茶店でもなく、学校から少し離れた場所に位置し、尚且つ個室有りの料理店に美姫を案内したのだ。これを訝しがらないわけがない。それでも尚、美姫はここまで付いてきてしまったのである。


 ある種の思考誘導だろうか? 用件を伝えるや否や、無口を貫き通す目の前の少女を見ながら美姫は考える。彼女は美姫に対して、「ちょっと用事があるの」と声を掛けてきただけで、それ以外は何のアクションも示していなかった。この時、咄嗟に件の男が自慢げに話していた事柄が思考の片隅を過ぎったが、彼女はすぐに小さく首を振った。

 その内容は、天使のテクノロジーから男が新たに開発したという、対象の認識疎外を図る装置についてである。その装置を使えば、対象にされたものは「疑う」という思考が阻害されるのだ。しかし、目の前の少女が〝天使〟であるという確証はなく、況してや、あの男の関係者であるとも思い難かった。もし彼女が男と繋がりを持っていたのだとしても、今まで直接会うか連絡をし合うという関係が続いてきた中で、急に第三者を介入させる意味を見いだせなかったからである。


 美姫の思考は困難を極めた。とはいえ、真実が如何なるものであるにせよ、もう後戻りはできないのだろうと美姫は直感した。そもそも、自分が冷静に思考できている時点で、既に相手の陣地で囲みこまれているのかも知れないからだ。このような状況に置かれた今、最早愚考することは無意味である。

 切り替えの早い美姫は、机上に並べられた食事に手を付けた。




 食事の半ばで個室に現れたのは、件の男とそっくりな顔をした、黒目黒髪の男であった。確認するまでも無く、正真正銘の数学教師であった。

 美姫は混乱した。さすがにここに来てなぜ彼が、と愚直な思考をするような真似はしなかった。しかしながら、なまじ頭の良かった彼女は、動揺によって脳内がショート状態へと陥ってしまった。

 件の男の双子の弟が、その兄の所業を知らないという可能性が低い事くらいは予測できていたものの、その数学教師が真奈を通して自分に面会を求めてくるなどと、十七歳の頭で如何様に理解すればよいのだろうか。その解を探し求めて、思考がグルグルと渦を巻く。


 数学教師は美姫の隣に一人分の間を開けて座った。相も変わらず張り付けたような道化師の笑みを浮かべていたが、この状況で普段通りの態度を出されることに、美姫は理性では抑えきれない恐怖を覚えた。暫くして彼の分の食事が運び込まれ、そのまま無言の空間が継続されていく。真奈がデザートに手を出した頃合いに、教師は口を開いた。


「ごめんね、阿波野さん。これ以上はもう、繕いきれないんだ」


 美姫の手と口が止まる。見開かれた眼は不安げに揺れ、分厚い皮下に己の感情を覆い隠した教師を見上げる。あわよくば、白を切って通そうと画策していた美姫は、教師に自身の所業を単に知られていたのではなく、寧ろ庇われていたのだという事実に絶句した。


「なん、で……?」


「『どういうこと』じゃなくて『なんで』ってことは、僕に知られている可能性は予想がついていたのかな。うん、阿波野さんは優秀な生徒だしね。それくらいはどうってことないか」


 彼は細かく切られた高野豆腐を一つ摘まみ、口元に運んだ。美姫の瞳は揺らぎ続ける。


「どうして君を庇っていたのかって? それは実際問題として、『こちら』の法律ではそれが犯罪にはならないからなんだよね。特に、〝純天使〟を相手にした者の場合はね。……あいつも上手くやってるよねぇ、全く」


 遠い目をしながら呟く教師。失笑にも似たその表情は、どこか人間味を消失させていた。


「ちなみに。僕は『こちら』側に住みはしているけど、『こちら』側の者でないことだけは明言しておくよ。詰まるところ、『こちら』側から君の所業を隠すだけなら別にこのままでも良かったんだけど、彼の許容範囲内を出ちゃったっていうか、ぶっちゃけ気が尋常じゃないくらい長いことで有名な天野君がぶちギレしちゃったのが主たる原因で……、兎に角〝僕ら〟が君の所業を見過ごすことができなくなったんだよね」


 乾いた笑い声を出す彼は、いつもの雰囲気を醸し出しながら、まるで他人事のように語っていた。


「まぁ、そんなわけで、君を適切に処罰しなくちゃならないんだけど。そこで選択肢が出現するわけだ」


 おどけた顔をして、教師は右の人差し指を立てた。


「其の一~、天使コミュニティの法に則っての処罰~。多分、派閥の意見対立によっては、一番えげつない処罰になる可能性大だね」


 彼は中指を立て、「其の二~」とふざけた口調で後を続ける。


「天野君に損害賠償を払う~。払えない場合は、彼の元で馬車馬の如く働いてもらうことになるよ。これは天野君の気分次第で待遇は変わるだろうけど、下手すると生死に関わるかもね」


 そしてわざとらしく左手で右の薬指を摘まんで立ててみせた。


「其の三~、僕らのスパイになる~。ちょっと非倫理的な方法を取ることになるけど、僕的にはこれが一番丁度いいくらいの処罰になるんじゃないかな?」


 さて、どれがいい? と言わんばかりの表情で、教師は美姫を見詰める。「処罰は決定事項なんだ」と、美姫は小さく愚痴を零した。彼女は健康的で美しい肌に深く皺を刻み、暫く歯を噛み締めながら熟考する。その後、徐に息を吐いた。


「あのさ、それ、実質一つしか選択肢ないじゃん」


「やだなぁ、ただちょっと、ゴルディロックス効果を使ってみただけだよ?」


 数学教師は、おどけた顔を終始崩さなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る