9人形

 今週出された数学の課題はこの上なく厄介な問題ばかりであり、アルマは帰宅してから就寝するまでの間にすべてを終わらせることができなかった。生温くなった手のひらを最大限に開き、そのまま伸びの姿勢を取る。「うーん」という声が漏れるとともに、椅子が後方へと傾き、足の裏が床から離れていった。アルマは椅子の倒れ行くままに、背の上部からベッドの上に沈み込む。その少し後に、椅子の背凭れが引力のままに床と衝突した。

 無表情で天井を眺めるアルマ。広げた腕の先には、先刻選帝侯から借り受けた一冊の文庫本が無造作に置かれている。アルマはその本を手に取ると、その表紙をただ眺め続けた。

 情報の錯綜する彼女の海馬は、味覚から来る不愉快な情報と複雑に絡み合い、これ以上新たな知識を取り込むことを拒んでいた。アルマは飽和する脳内にやるせなさを感じつつ、右腕で両目を覆った。右手のひらから文庫本が滑り落ち、小口を下にしてベッドへと落下する。羽毛布団と衝突した時、本は竹のようにしなり、少しばかり撥ねてから裏向けで静止した。裏表紙には、左上に印刷された二段のバーコードと文庫本の定価、あらすじ、ISBNコード、Cコードの情報が端的に記載されているものの、光沢のあるカバーが無機質な蛍光灯の光を反射して、所々それらの文字が見えなくなっていた。




 アルマの意識が覚醒したのは、時計の短針が丁度半周した頃合いであった。重たい頭を抱えながら寝返りを打って二度寝を図ったが、ここで意識を手放すと約束の時間までに起き上がれなくなってしまうことを危惧して、泣く泣く布団から這い出したのである。寝落ちしてそのまま朝まで眠りこけてしまっただろうアルマは、分厚いカーテン越しの太陽光で仄暗く映し出されている室内を見渡した。部屋の電気を消した記憶はなかったので、一度母親がこの部屋に訪れたらしいとアルマは推測した。


 朝の支度を終えたアルマは午前中のうちに昨晩残した課題を気合で終わらせ、軽く昼食を取ってから家を出た。友人との待ち合わせ場所は、とある駅から徒歩数分の場所にあるバス停前である。交通量が多く、吐き出される排気ガスで一帯の空気が淀んでいた。


 徒然なるままに思考に耽っていると、待ち合わせ時間の少し前に真奈が、十五分遅れて加絵がやってきた。三人揃うや否や、彼女らは目当てのバスに乗り込んだ。静かな車内で小声の会話を交わしつつ、半時ほどバスに揺られる。とあるバス停で降車すると、三人は真奈の先導によって坂道を登っていった。


 彼女の道案内で辿り着いたのは、こぢんまりとした一戸建ての家屋であった。展示ブースはアトリエと隣接しているらしく、出入り口が二ヶ所設けられている。真奈は手前の出入り口のドアを開いて、アルマと加絵を中へと誘導した。ドアのすぐ傍にある受付の机の奥では、いかにも雇われたといわんばかりの中年男がうつらうつらと舟を漕いでいた。この状態の男への対応に困ったらしい、真奈は視線を泳がせながら二人の友人に助けを求めた。ここで彼女の代わりを買って出るのは決まって加絵であり、彼女は眠りこけている男に堂々と声を掛けて行った。鼻提灯の壊れた男は情けない面を晒した後に、漸く来客者の存在を把握した。彼はこの展示会に「来客」があるという事実に半ば驚きを見せつつも、声には出さずに淡々と受付を行った。入場料は五百円とそれなりの値段であったが、閑古鳥が鳴いていそうな雰囲気から察するに、採算がとれているか否かは些か微妙であった。


 展示内容は、真奈が表した通りに大小様々な「人形」であったものの、アルマの目にはいずれの背中からも、一対の羽が生えているように見えた。なるほど、人の形をした人工物にはかわりないが、これを人形とカテゴライズして良いものなのか、芸術に疎いアルマにはさっぱり分からなかった。同じく「人形展」と聞かされていた加絵も混乱しているらしく、美を最大限に体現しようとした天使像たちを見て、彼女の身体は幾許か小刻みに震えていた。


「この作品の作者は、この世に天使がいると信じて、こうやって羽の生えた人形を作り続けているらしいんだ」


 今日のホスト役である真奈が、唐突に解説を始める。


「彼曰く、『天使は降臨し、闇に斬られて深紅に染まる』とのことで、実際に見たかどうかについては明言されていないんだけど、この情景からインスピレーションを得て、いろいろな人形制作を手掛けてるってことらしいよ」


 ちょっと発言が厨二病っぽいけどね、と真奈は苦笑する。彼女の説明を聞いてから再度展示物を見たアルマは、全体的にモノトーンで統一された世界に、差し色として赤が使われていることに今更ながら気が付いた。天使といえば、偏に神聖で人より絶対的なイメージを抱くような代物である。しかし、その中に「死」という概念を仄めかせてくるあたり、この作者は相当狂った思想をお持ちなのだろうとアルマは思った。芸術家は凡人とは一味違った感性を持っているとよく言われるものだが、たかが一場面をされど一場面に昇華させてしまう程の執念というものは、アルマの理解を遥かに超えてしまっていた。否、分からないわけではなかったものの、彼女自身の中で明確な理解として定着させてしまうことに、多大なる拒絶があったのだ。故に、この展示会では作者の思いや背景など一切合切を切り離したうえで、さも美しく造形されているような天使像を、取り敢えず眺めておくのが吉だと彼女は判断したのである。


 真奈の解説と共に展示ブース内をゆっくりと練り歩き、三人は最後の仕切り部屋へと辿り着いた。そこには、等身大の天使像が一体、空間の中央に佇んでいた。床まで届くブロンドヘアーは品良くうねり、ライトの効果で煌々と輝いている。病的なまでに白い肌は同時に柔らかさを持ち合わせており、指の先まで完成された「型」を保っている。人形が身に纏っているのは絹製の白いワンピースのようで、天使の純粋無垢な有様を表現しているようであった。頭の上には金のラメを樹脂で固めた輪っかが浮かび、背中からは体全体を覆えるほどに大きな羽が三対生えている。これらそれぞれの要素が、この作品を人形から天使像へと変貌させていた。


 そして、その顔は――。


「え、みきぽん?」


 加絵が呟く。唖然とした表情で、息を吐くかのように。アルマは表情を崩しはしなかったものの、どこか腑に落ちたような感覚を覚えていた。

 目の前にある天使像のご尊顔は儚げで、その名の通り作り物の如く整っている。目の中に嵌められた零れんばかりの紅い瞳は、宙を虚ろに眺めている。この人形然とした容貌は、瞳の色以外、どう見ても、如何様に目を堪えても、彼女たちの知り合いの顔と一致していたのである。


 アルマは何も言わない真奈を見遣った。彼女はいつも、周囲を窺い、まるで小動物のように警戒と怯えを態度に表していた。けれども、今の彼女に内気な感情など一切無く、等身大の天使像に目を向けたまま、歪んだ感情を口の端に映し出している。

 アルマは彼女から目を放し、もう一度像に目を向けた。何も喋らない、身動ぎもしない、血の気もない、天使の像に祭り上げられた、知人らしき人影。そういえば彼女は行方不明になっていたな、と消え去っていた情報が記憶の奥底から浮上してくる。加絵は未だに状況把握ができずにいるようで、絶句したまま放心状態に陥っていた。


 阿波野美姫。アルマたちと同学年かつ同じ学校に通う女子高校生。クラスはアルマと同じだったか違ったか、当の本人はあまりよく覚えていない。とはいえ、何かしら加絵にちょっかいを出してくる彼女が視覚にも聴覚にも煩かったことだけは、アルマの記憶の中にも残っていた。当の二人は「みきぽん」「かえりん」と、突き詰めればふざけた渾名で呼び合っていたにもかかわらず、基本的には犬猿の仲であったことは事実である。彼氏にでも刺されて死体遺棄されたのでは、と加絵に言わしめるほどの仲の悪さではあったのだが、それでも知人が本当に死んでしまったのかもしれないという現状に晒されては、さすがの加絵も現実を受け入れられないのだろうと、アルマは勝手ながら考察していた。


「どうしてここを紹介したの?」


 アルマは頭の中が支離滅裂に散乱している加絵の代わりに、真奈に尋ねる。彼女はゆっくりと首だけを横に動かし、その歪んだ表情を惜しむことなくアルマに向けた。


「だって、加絵ちゃん、気になってたみたいだし。彼女の行方」


 仮面のように張り付いた笑みは、彼女の本心を現していた。


「犯罪に加担していたことが露見してしまうのも厭わずに?」


「……犯罪? それは、私に言うことではないんじゃないかな」


 噛み合わない会話。しかし、アルマは彼女の言わんとすることを正しく理解していた。何故とは言わない。理解してしまえるものは、それは説明のしようのないものなのだから。

 意識を取り戻した加絵が振り返り、真奈に詰め寄った。


「どういうこと!? なんで、美姫が――」


 真奈は可哀そうな子を見るような目で加絵を見遣り、息を吐いた。掴まれた襟元をやんわりと外し、彼女から一歩、距離を取る。


「何でって言われても、私としてはあなたの方が『どうして』、なんだけどな」


 核心を突かない真奈の言い様は、加絵の脳内をさらに掻き乱す。真奈は普段なら見せないような朗らかな笑みを携えて、聖母のような視線を加絵に向けた。


「言っとくけど、私は〝知っていた〟だけで、加担はしてないよ? あー、でも、仏の顔も三度まで、ならず数十回は見逃してはいたんだけどな」


 加絵の眉が跳ね上がる。これでもかというほどに両眼を開き、真奈を凝視した。その口からは、「えっ、えっ」という言葉が繰り返し零れ出る。


「でももう、我慢の限界だったんだよね。確かに、法律でいえば黙認も罪に含まれるんだろうけど、私からすれば人が便宜的に作ったルールなんて、ねぇ」


 彼女の視線がアルマに流れてくる。まるで同意を求めるかのように。アルマは失笑するだけで、肯定も否定もしなかった。その反応に満足したのか、真奈も表情を和らげる。


「そんなことより、師匠の作品を、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、それはもう、何度も壊して踏み躙っていった彼女の方が、余程罪深い」


「……師匠?」


 呆けた顔で呟いた加絵に、真奈は「そう、師匠」と返した。そして、嗤う。


「稀代の人形師にして、天使の創造主」


 詠うように、躍るように、彼女は続ける。




「〝彼〟があなたのお父さん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る