εSide1≫ωSide1

 二人の友人と別れた加絵は、人知れず人々の波から抜け出し、とある路地裏へと足を運んでいた。その手には純白の百合の花と、白い紙袋が握られている。彼女はある程度奥まった場所まで行くと、屈みこんで手に持っている物をそっと壁際に置いた。額の前で強く指を組み、顰めた表情で目を瞑っている彼女の先では、斑模様に赤茶けた地面が存在しているだけであった。


 長い間同じ姿勢を続けた後、加絵は無表情のまま立ちあがり、それまで冥福を捧げていた場所から背を向けた。黒髪のツインテールが左右に揺れる。刹那、景色が切り替わった。

 ビルの林立する中心街から一転して、長閑な田園風景が広がる。黄金の稲穂はたわわな実りをつけてしな垂れ、僅かな風でゆらゆらと揺れている。所々に平屋造りの家屋が建っており、加絵はそのうちの青い瓦屋根をした一軒家へと赴いた。


 家屋の南側にある広大な庭には、趣味程度の大きさをした畑が作られている。その可愛らしい畝から生える青々とした葉と、熟れた野菜たちが陽の光に照らされていた。茂る葉の隙間からは、アイボリー色の麦わら帽子が見え隠れしている。加絵が少し遠くからその帽子を被った人物へと声を掛けると、件の麦わら帽子は大きく蠢いた。忽ち愛嬌のある顔をした少女の姿が露になる。彼女はぶかぶかの作業着ともんぺを身に纏い、土塗れになった軍手を避けて、手首の甲で額に浮かんだ汗を拭った。白い歯を見せながら笑うその姿は、太陽のように眩しく、そして清らかであった。


「相変わらず此処の気候はめちゃくちゃだよね。夏なんだか、秋なんだか、わけわかんない」


 はち切れんばかりに育った真っ赤なトマトを一撫でし、加絵は失笑する。もんぺ少女は「そうかなぁ?」と気のない返事をしながら、軍手を外して食べ頃のトマトを一つ、もぎ取った。彼女は畑の横を流れる小川まで移動して、その清涼な水でトマトの表面を洗う。清潔なタオルで表面の雫を軽く拭き取ってから、向日葵のような笑みを浮かべて真っ赤な実を加絵に手渡した。加絵は礼を言いつつその実を受け取り、躊躇いも無く嚙り付く。シャリっと瑞々しい音が響くと共に、加絵の口の端と齧り取られたトマトの側面から一筋の水分が垂れ堕ちた。加絵は左手の甲で零れ出た水分を拭い取りながら、生のトマトを咀嚼する。


「うん、良くできてる。気味悪い程」


「何でそんなこと言うかなぁ。加絵ちゃん、首席で卒業してるくせに」


「なーに言ってんの。私は至って平凡な成績でしかないよ? オール3、オール3」


「それは『向こう』での成績でしょうに。そもそも平均に調整すること自体が既に才能を垣間見せているようにも思えるんだけどね」


 非難がましい口調をしながらも、もんぺ少女の表情は明るい。彼女は再び軍手を嵌めて、草を抜き始めた。野菜の茎と茎の間に生えた小さな芽を見つけては、器用に根っこまで引き抜いていく。暫くの間は高所から彼女の様子を眺めていた加絵も、一心不乱に草を抜き続ける少女に感化され、トマトを食べきってから一緒になって草を抜き始めた。


 爽やかな風が彼女たちの隙間を通り抜けていく。質感のある黒と栗色の髪が乱れ、稲穂の擦れ合う音が二人の鼓膜を擽った。加絵は指先にうっすらと土を付けたまま、自分の前髪をかき上げる。容赦のない直射日光は辺りを強く照らし出すとともに、濃い影を作る。太陽の位置は真夏の様相を呈しているものの、気温も湿度も共に適した数値を示しており、放射されている筈の強力な紫外線ですら、二人の白い肌を焼くことも、二人を日射病にさせることもなく、寧ろ程よい刺激を与えて肌の健康を促進させていた。


 自然ではありえない気候。不自然な環境。故にこれは人工的に作り出されたものであると同時に、それが現在の科学技術では不可能であることも指し示していた。この明らかなオーバーテクノロジーは、しかしながら、現にこの場で再現されているのだった。


「公安部のエリートには農学部出身の気持ちは分からないんだろうけどね。多分、こうやって引き籠って土いじりをしているのが、一番平和なんだと思うんだ」


 もんぺ少女は手を留めずに呟いた。加絵は小山になった雑草を弄りながら、唇を尖らせる。


「別に、ノエルを非難してるわけじゃないし。単に『向こう』の技術がまだこちらに追いついてないだけで、いつか追い越される可能性を否定しちゃいけないんだよ。そうしないと、私たちは歴史から抹消されてしまう」


 ノエルと呼ばれたもんぺ少女は、溜まった雑草を加絵の分までかき集め、プラスチック製の水色の手箕に投げ入れた。


「そんなに深刻に考えるようなこと? 考えすぎて空回りしてるだけじゃない?」


「そんなことない!」


 加絵は大きめの雑草を勢いよく引き抜いた。腐葉土が跳ね上がり、周囲に飛び散っていく。


「そんなことないんだよ、ノエル。……そうじゃなきゃ、犠牲者なんて出ない」


 加絵から大物の雑草を引き取ったノエルは、それも手箕に入れた後、手箕を左右に揺らして余分な土を振り払った。手箕の隙間から、細かい土の粒子がぽろぽろと零れ落ちていく。


「この前だって、年端も行かない子供が殺されたんだよ? まだアーティファクトの展開も操作も十全じゃない子供を、狙うようにしてね。私たちを殲滅するにしたって、子供から排除するなんてあまりにも下劣なやり方だと思わない?」


 漸く手を止めたノエルは、俯く加絵に冷ややかな視線を送り、息を吐いた。


「『向こう』がそうなんだとしてもね。……奇妙なのは、先立っているはずのこちら側がやられっぱなしって所。『向こう』にやり返そうとしないのは、こちらが先んじている故の余裕? それとも驕り? どちらにしたって、馬鹿らしいったらありゃしないよ。なんたって、異形を恐れて、嫌悪して、排除しにかかるのは世の常なんだから。そういうのはお互い様であって、理解し合うまではいかずとも許容できるようにならなきゃ堂々巡りのままで、そこから抜け出すことなんて到底できないと思うんだよね」


 ノエルは手箕を腰に添えながら抱え、立ち上がった。終始晴れやかな顔をしているのは加絵がここへ来る前から変わることはなく、ただ淡々と事実だけを正直に口にする。


「それでも偽善者ぶって、取り締まりの形で『向こう』と敵対し合う道を選ぶんなら、嘆いている場合じゃないと私は思うね。加絵の言い分からすれば、少しでも『向こう』より先の技術を持ち続けなきゃ、滅びる運命にあるんだから」


 加絵が顔を上げ、情けない表情を露わにする。彼女の苦しそうな笑みは、いつも自信に満ちている彼女の身体を、一回りも二回りも小さく見えさせた。


「ノエル、他人事みたいに聞こえるよ」


「誰かさん達のお陰で平和ボケしてるからねぇ。どこか、画面の向こう側での出来事のように思えてるってことは否定しないし、できないよ」


 でも、とノエルは言葉を切り、表情を柔らかくした。


「淘汰されるのなら、それまでの種族だった、としか思えないんだよね。実質、私たちの起源って、なかなかクレイジーじゃない? この時代まで子孫を残してこれたのだって、前提として創造主の遺物があったからこそだし。もともと存在していること自体がおかしい種族なんだから、畏怖されるのも当然っちゃ当然の成り行きだよね」


 ノエルは可愛らしく膨らみのある頬を引き上げて、「とはいっても。この種族にはいつの時代も一定数の信者がいるっていう事実は、まこと人間の面白味を醸し出してるんだけどね」と豪快に笑った。加絵も乾いた声で笑いながら立ち上がり、ノエルと同じ高さで視線を交わす。


「生きたきゃ死ぬまで、いや、死んでも技術を磨き続けろ、ってことか。それこそ〝彼等〟に辿り着かんとばかりに」


 それまで悠然とした態度を決め込んでいたノエルが、思わず吹き出した。


「っちょ、加絵ちゃん、そこで〝彼等〟の話を持ち出す? 無理だよ、無理無理。あれは別次元の存在だから。唯一の共通点なんて、世の中に紛れ込んで存在してるって所だけじゃん。それも、一部分だけね」


 嘲笑を交えて加絵の言葉を完全に否定しにかかるノエル。加絵は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべて、非難がましい視線を彼女へ向けた。


「あくまでも意気込みの話をしてるんだよ。光以外には光速度に至れないのと同じ。でも、掠ろうともがくことくらいはできるでしょ」


 加絵は深く息を吸い込み、目を細めながら遠くを見遣る。視界一面には黄金色の景色が広がっており、その表面は柔らかな風に押されて幾重もの濃淡を生み出している。鼻腔を擽るのは仄かに甘みを感じさせる稲の香。この場所では、年中色付いた田園風景が広がっていることを加絵は知っていた。そして、バスが一時間に一本しか通らないような奥深い田舎のように見えるこの場所が、ノエルを筆頭とする農産物研究所の農業試験場であるということも。


「私はさっき、何を食べたんだろうね」


 無意識に呟いた言葉に、「トマトだよ」との答えが返ってくる。加絵の口から零れ出てくるのは、失笑ばかり。彼女の知るトマトを食べたなら、決して五キロ先にある稲穂の皴など鮮明に見えはしない。ここで育てられている植物にまともなものなどないことを知っていながら、浅慮なことに口にしてしまった過去を苦く思う。加絵はそれ程までに自分が追い詰められていたということに気付き、厭世の同級生に密かな感謝を差し向けた。未だ心のどこかにしこりは残れども、それでも突き進まねばならない現実に直面している今、前向きになれたことは幾分か加絵の気持ちを浮上させたのである。

 全くもって、加絵は一体何に毒されてしまっていたというのだろうか。言うまでも無く『向こう』の世界に呪いの如く根深く浸透している倫理観である。加絵たちには『向こう』のものとはちぐはぐな遺伝子と技術と倫理観が受け継がれてきたというのにもかかわらず。環境と数の暴力は、悉く白を朱に染め上げていく。


「私は、私の信じた道を貫く」


 意志の宿った漆黒の瞳は、空の蒼をどこまでも吸い込んでいく。もんぺ少女は、独り宣言をする彼女の知人を余所に、甲斐甲斐しく愛野菜たちの世話を焼いていた。



        *



 暗闇に塗れた路地裏に、突如として二つの光が浮かび上がった。紫紺色をしたそれらは、儚くも蠱惑的に揺れ動く。影の中からぬるりと姿を現した一人の青年は、月明かりに照らされて眩しそうに夜空を見上げた。絹糸のように繊細で艶やかな黒紅色をした頭髪が、月の光に透かされ、至極色になる。


「カスタードの匂い」


 中性的な顔立ちからは想像に難い、低く甘い声が夜闇に響く。青年は虚空を眺め、引力に引き寄せられるままに、その身を壁に凭れさせた。酸に晒されて粗くなった壁の表面に強く頭部を擦るものだから、彼の見事なキューティクルは無残にも傷つけられていった。次第に膝が折れゆき、臀部が地面と接触する。

 彼の左手の指の先には、壁際に添えられた供え物という名の白百合と白い紙袋。彼と同じく月明かりに照らされて、その場にもの悲し気に据え置かれていた。青年は徐に紫紺の瞳を横に流し、白い紙袋へと焦点を当てた。彼はそれが他人への供え物であることを理解していながら、左腕だけを動かして紙袋の中をまさぐった。


 彼の手のひらに触れたのは、柔らかで繊細な、手のひらサイズの「何か」。ビニール袋で個包装になっているらしく、指先から刺激される感触は酷く滑らかであった。彼は袋の中に入っている物のうち、一つだけを取り出して目の前まで持ち上げる。虚ろな瞳で持ち上げたものを見遣り、意識の向こう側で右腕を動かした。その先に付いた三本の指が個包装を裂くと、中身が露になって彼の膝の上に零れ落ちた。青年は皮膚に仄かな反発力を感じ取り、自分の上に落ちた「何か」を拾い上げる。


 自らの手の中には、下手をすれば漏れ出てしまいそうな程に、中身の詰まったシュークリームが一つ。匂いの元はこれか、と青年は不機嫌そうにぼやく。暫く彼を不愉快にさせた元凶を手のひらの上に鎮座させていたものの、このまま腐らせるのも、捨て置くのも具合が悪かった。故に彼は仕方なくそれを口にして、指に付いたカスタードまで、全てを食べ切った。決して不味かったわけではない。しかし、彼にとっては可もなく不可もなくという評価しか、脳裏には浮かんで来なかった。


「どうしてドーナツにしなかったんだか」


 独りごちたものの、それで過去が変わるようなことはなく、ただ彼の手のひらに新たな物体が出現するだけであった。彼はそれを幾許か宙に投げては受け取るという一連の流れを繰り返し、その動作に飽きたところで謎物体の電源を起動させた。

 金箔のような優しい光の粒子が発生し、時とともにその粒子は環状に形成されていく。まるで天使の輪のようにも見える謎物体は、重力に作用されることなく宙の中に留まった。


「ちょーっと、形状が違うんだよなぁ」


 青年は宙に輪を浮かべたまま、「ま、別にどうでもいいけど」と呟きながら、勢いをつけて立ち上がった。血流は引力に従い、一瞬のうちに下部へと流れ落ちてしまう。青年は軽く眩暈を覚えるも、その表情はどこか嬉しそうに歪められていた。彼は覚束ない足取りで月明かりから逃れ、そのまま夜闇の中に紛れ込んでしまった。



 誰もいなくなった路地裏では、天使の輪が不気味に佇んでいた。

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