8喫茶

 アルマ一行は荒廃した街中を歩き、裏路地を抜け、閑散とした場所に佇んでいる喫茶店へと足を運んでいた。アンティーク調の内装と仄暗い橙色の照明は、昂ったアルマの心を穏やかにする。カウンター席の向こう側には、この店のマスターと思わしき壮齢の男が一人。灰色がかった短髪を後ろへ撫でつけ、同じ色をした見事な口髭は、カイゼル髭の形に綺麗に整えられている。黒のベストに蝶ネクタイを付けた姿の彼は、洗練された姿勢でグラス拭きに勤しんでいる。

 来客に気が付いたマスターは、「いらっしゃいませ」と低く落ち着きのある声でアルマたちを出迎えた。選帝侯は笑みを深めて彼へ話し掛ける。


「久しいですね、マスター。五十年ぶりくらいですか」


 マスターは濃い色をした瞳をさらに深めながら、目を細めた。


「これはこれは、選帝侯。お久しぶりですな。五十三年と二か月と十七日、三時間二十四分五三秒八七ミリ秒二九マイクロ秒四六ナノ秒七三ピコ秒九六……」


「いえ、もういいですマスター。折角人間らしく曖昧に表現したのに、台無しですよ」


「これは、申し訳ない事を。そちらは動静の双天使と、後……?」


 マスターの視線と、アルマの視線がかち合う。彼女は琥珀色の瞳でただ、彼を見返した。口を開くつもりが無い事を察したのか、選帝侯が彼女をマスターに紹介する。


「河橋アルマさん。敵わない人です」


「あぁ、漸く時が訪れたのですな。長生きはしてみるものですねぇ」


 マスターは人の良い笑みを浮かべ、孫を見るような目でアルマを見詰める。アルマは無口を決め込み、選帝侯に促されるままカウンター席へと座った。その左隣に双子が、右隣に選帝侯が腰を下ろす。選帝侯が適当に飲み物を注文した後、彼は息を吐いた。横目でアルマと双子を見遣り、失笑する。マスターは双子にオレンジジュースとアップルジュースを、アルマにココアを、選帝侯にアールグレイを出した。双子は仲良くジュースを飲み合い、床につかない両足をぶらぶらとさせながら機嫌よく談笑している。アルマはココアの表面から薫る煙を夢現に眺めるだけで、カップに手を出そうとはしなかった。選帝侯はカップを傾けて、一口だけ紅茶を口にした。その間も三人の少女を観察し、これからどうしようかと思案する。


「マスターは時の真理を得た人?」


 視線はココアに向けたまま、アルマが呟いた。選帝侯はゆっくりとした動作でカップをソーサーの上に置き、テーブルに両肘を付いて指を組む。アルマは顔を上げ、マスターの方へと視線を向ける。彼女の瞳の中には、マスターの左耳でゆらゆらと揺れている、銀色の細長い雫型のピアスが映し出されていた。


「……どうでもいいのではなかったのですか?」


 アルマはマスターから顔を背け、選帝侯に向かって鋭い視線をぶつけた。しかし、すぐに表情を緩め、歪んだ笑みを浮かべる。


「あなたが仕向けたんでしょうに」


「私は、あなたには敵わないというのに?」


 アルマは呆れたように眉をハノ字に下げ、麗しい唇から仄かに息を吐き出す。


「そんなこと、少しも思ってないくせに」


「そんなことはありませんよ」


 選帝侯は品良く笑う。アルマは揶揄われていることが分かっていても、不貞腐れも、不機嫌にもならなかった。彼に関しては、かわらず〝どうでもよかった〟からである。反応のないアルマを見た選帝侯は笑うのをやめ、瞳に悲哀の色を浮かべた。マスターは全方位隙の無い、完璧な姿勢でグラスを拭き続ける。


「マスターは、どこにでもいるよ」

「いつでも、どこでも、何度でも♪」


 双子がジュースのお代わりを貰いながら、遅れ馳せアルマの問いに答えた。今度は、グレープジュースとグレープフルーツジュースが二つのコップに注がれる。双子は時折コップを交換し合い、二種類のジュースを飲み比べる。アルマはマスターを見遣ったが、彼は丁寧にグラスを拭くばかりで、我関せずとした姿勢を崩さなかった。さすが喫茶店のマスター、商業の鏡とアルマは思ったが、マスター自身のことを尋ねているのにもかかわらず、それに対して返事をしないのも、それはそれで商売には致命的な行為なのではないかとも感じられた。


「でも、マスターは一人しかいないから、全ては知らないんだ」

「ドッペルゲンガーにはなれないから、マスターをしているんだ」


 双子は楽しそうに、誰へともなくお喋りを続ける。


「あとね、マスターは事象介入をしちゃいけないんだ」

「だから〝耳〟の役割をこなしているんだ」

「だからマスターは質問には答えてくれないよ?」

「でも、〝目〟のお姉ちゃんなら知ってるよね?」


 そんなことくらい、と双子は呟き、満足げに口角を上げる。そのシンクロ率は非常に高く、アルマは生命の神秘たるものを垣間見たような気がした。


 アルマは双子から視線を放すと、湯気のおさまったココアの表面を見てから、その不透明な焦げ茶色の液体を喉の奥へと流し込んだ。温くなった液体が、甘みを舌に絡めながら食道へと下りて行く。彼女は空になったマグカップを静かに机上に置いた。


「知らないのに、知ってるって、どういうことなんだろうね」


 形の良い唇の隙間から、生温かい息が零れ出る。双子はいつの間に注文したのやら、一つの皿の上に盛られたとろとろのオムライスを二人でつついて食べていた。アルマは徐に左手でティースプーンを持ち上げ、双子の片割れの横から無言でオムライスを半口分、掬い取った。そのまま流れるような手つきで照り輝く黄と赤のコントラストを口内へと運ぶ。

 見た目通りのふわふわな卵の部分は、舌の上でとろけてチキンライスと絡み合う。あまり回数を噛むことなく、アルマは喉を鳴らした。


「美味しい」


 双子は揃って幼い顔をニコニコとさせ、アルマの様子を窺う。アルマが断りも無く勝手に半口分食べてしまったにもかかわらず、彼女たちは一言も文句を口にしなかった。寧ろ、アルマの一挙一動に興味があるようですらあった。


 アルマは空のカップにティースプーンを入れ、唇の表面に付着したソースの油分を舐め取った。暫く極上のオムライスの余韻に浸り、不意に、ココアを飲み干してしまったことを悔やんだ。アルマは意味も無く上唇を舐める。そこで漸く選帝侯の存在を思い出したアルマは、意識を彼女の右隣へと向けた。彼は冷めた紅茶の傍らで一冊の文庫本を開き、興味深げに、無関心に、面白げに、嫌悪を示しながらその内容を読み耽っていた。とはいえ、彼の表情は一ミリも動いておらず、アルマが彼の幻想的な瞳から、独断と偏見により彼の感情を推し量っていたに過ぎないのだけれども。


「何を読んでいるの?」


 アルマの問いに、選帝侯が文面から顔を上げる。彼は皮肉気に苦笑しながら本を閉じた。同時に本のカバー表紙が露になる。


「『Wisdom, Vessels, and Doughnuts』……? 何それ」


 アルマが訝し気な視線を選帝侯へ向けると、彼は満足そうな笑みを浮かべた後、意識を遠くへ投げやった。


「最近、巷で噂になっている稀代の作品ですよ」


「巷って、この生命体が殆ど存在していないようなチャンネルにあるの? それとも『向こうに帰ること』に関して正気を疑うものだと思っている選帝侯でさえも、向こうの流行には気にかけているっていうの?」


 胡乱な瞳で弾丸の如く言い返すアルマに、選帝侯は乾いた笑い声をあげた。


「私は、『向こう』へ行くことに正気を疑っているのであって、『向こう』を知ることに関しては特に何とも言ってませんよ」


 アルマは口をへの字に曲げ、マスターにココアのお代わりを注文する。マスターは洗練された動きでグラス拭きからココア作りへと移行し、一瞬の間に湯気の薫るカップをアルマの目の前に差し出した。アルマは仄かに熱いココアに口付け、その熱さに舌を出す。選帝侯は微笑ましげにせせら笑い、持っていた文庫本をアルマに渡す。それを素直に受け取ったアルマは、パラパラと中身を眺めた。


『三人の少年たちは、ある日一人の少女に出会う。彼女は少年たちを認識しているのかいないのか、表情のない瞳で彼らを見詰めている。不意に、少年のうちの一人が腹の虫を鳴らし、顔を赤らめた。それを見た少女は、どこからともなく三つのドーナツを出現させ、三人の少年たちにそれぞれ、一つずつ手渡した。彼らは訝しがりながらも、ひもじい思いには敵わなかったようで、三者三様、カラフルなドーナツに齧り付いた。一口食べてしまえば、彼らの欲望を止めるものはもう、何も無かった。咀嚼するのも惜しいとばかりにドーナツを齧り、嚥下していく。不思議なことに、少女の与えたドーナツは、それ一つで少年たちの飢えを満たしたのである。』


 奇妙な一節が目に入り、そのページで手を止める。遠目から見ても連続使用されていることが容易に窺える「ドーナツ」の文字。本のタイトルからして疑問には感じていたものの、何故ここでドーナツをチョイスしたのかと、この本の作家に是非とも問いただしてみたいとアルマは思った。

 アルマは本を閉じ、選帝侯の方を見上げる。彼は冷めていたはずの紅茶から揺蕩っている湯気を深く吸い込み、その香りに微睡んでいた。


「これが、巷で流行ってるの?」


 選帝侯が横目だけをアルマに寄越す。伏せられた睫毛で蔭りのある瞳からは、鋭い意志が放たれている。


「一度じっくりと読んでみると良いですよ。どうせ今日も〝帰る〟のでしょう?」


 その視線に厭きれも含まれていることに気付いたアルマは、思わず頬の筋肉を緩めた。シンプルなカバーが掛けられた文庫本を確と手に持ち、彼の目の前に掲げる。


「明日も約束があるからね」


 双子とマスターに挨拶をしたアルマは、その場から消え去った。残された者たちは、あたかも初めからアルマがそこに居なかったかの如く振る舞っていた。双子たちは食後のデザートを堪能する。片やザッハトルテを。片やミルクレープを。やはり交換し合いながら食べ比べる。マスターは無心にグラスを拭き続け、選帝侯は喜色を浮かべながら、窓の外を見遣った。




 楔は深く、打ち込まれた。

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