4帰還

 選帝侯は急いで紅茶を飲み干した。中身の無くなったカップを静かにソーサーに置き、漸く地獄から解放されたことを実感する。彼の左目の目尻からは、一筋の涙が零れ落ちていた。


「悪戯は、相手を選んでやらないと」


 一部始終を眺めていたアルマが、くすくすと笑う。選帝侯は顔を歪めながら、手袋をはめ、片眼鏡を掛け直した。


「まさか、ここまで性格の悪い人だったとは」


「名前とか外見は見たり聞いたり調べたりすればすぐに分かるものだけれど。為人とか、その人が考えていることは、理解しているつもりでも、それは結局『つもり』でしかないんだよね」


「手痛い指摘ですね。してやられた後では、心が抉られる以外の何物でもありませんよ」


「あなたに、心があるの?」


 選帝侯は苦笑するだけにとどまった。アルマは頬杖を付き、胡乱げに彼を見遣る。


「……どうでもいいけど」


「どうでもいいんですね」


 アルマは艶めかしく視線を端に動かす。人気のない街は尚も健在で、これからも人の気配を纏うことはないのだろうと彼女は思った。徐に視線を戻してから、負荷の掛かっていた右頬をさする。


「それで、さっき通り過ぎて行った人のことは、教えてくれるんだよね?」


 いつの間にか片手に分厚い書物を広げていた選帝侯が、その紙面から顔を上げ、「はい?」と聞き返した。アルマは一瞬だけその書物に興味を惹かれたが、すぐに選帝侯へと意識を戻す。


「自動車みたいにそこを駆け抜けていった、二人の白い人のこと」


 アルマが問い直すと、選帝侯は「あぁ」と声を漏らし、目を細めてアルマより遠くの方を見遣った。暫く彼女の向こう側を見詰めて、選帝侯が何を思っているのか、それとも見詰めるだけで何も思っていないのか。アルマには見当もつかなかったし、わざわざ意志を込めてその見当を付けようとも思わなかった。


 どれくらい時間が経ったのか。時計の無いこの世界では、そもそも時間という概念が存在しているのかすら怪しい。しかし、このチャンネル下で動きがある時点で時間が流れているだろうことは明白なのだが、もしかするとそれは見かけ上の動きなのやもしれず、実際、ここには意志という形なきモノしか存在していないのかもしれなかった。

 アルマは一向に動かない選帝侯に痺れを切らし、思わず彼が眺めているのと同じ方向へ振り返ってしまった。視界に入り込んできたのは、地平線まで伸びている灰色の道路だけ。その左右に林立する物々しいビル群が、この情景を一段と寂れたものへと演出していた。


「あの二人とは」


 唐突に、男とも女とも似つかない声がこの場に響いた。アルマはいい加減振り返ったままの態勢を気だるく思い始めていたため、彼の声を機に、姿勢を元に戻した。


「また会えます」


「そんなことは、一言も聞いてないんだけど」


 アルマの冷ややかな声に対しても、選帝侯は薄ら笑うのみ。彼は開いていた書物を片手でパタンと閉じると、アルマの目の前でそれを消して見せた。それまで質量のあった書物が水色の光の粒に弾け、空中に霧散して消失する様は、まるでファンタジックな世界の魔法のようであった。選帝侯が自慢げに口の端を歪めるも、そのようなおままごとでアルマが騙される筈もなかった。

 反応のないアルマにとうとう根負けしたのか、選帝侯は不貞腐れたように呟く。


「今度、彼女たちに会う機会があります。その時、挨拶がてら、ご紹介しましょう」


 彼が事務的に告げるや否や、アルマは「そう」とだけ言って立ち上がった。


「じゃあ、今度こそ帰る」


「え?」


「〝今度〟ってことは、〝今日〟はもう用は無いってことでしょ?」


 アルマは軽く伸びをしながら、さも当然とばかりに返す。選帝侯は若干狼狽えながら、往生際悪く再度アルマを椅子に座るように促した。彼女は眉間に皺を寄せるも、渋々彼の言葉に従って、面倒くさそうに背凭れにもたれ掛かった。勢いで顎の先が跳ね上がる。彼女の肌理細やかな後ろ髪は背凭れの背後でだらしなく垂れさがり、椅子が少し傾いたかと思うと、振り子のように元の位置へと落ち着いた。しかし、アルマの体勢は変わらず、背凭れにもたれ掛かったまま焦点の合わない目で天井を見上げている。少ししてからその態勢が苦しくなったのか、アルマは幾許か咳き込んだ後、今度は机に突っ伏した。顔の周りを囲った腕越しに、くぐもった声が発される。


「まだ何か用があるの?」


「いえ、〝今日〟は何もありません」


「じゃあ、帰っていいよね?」


「正気を疑いますね。『向こうへ帰りたい』だなんて」


「分かってるんじゃん」


 アルマは腕の中から片眼だけを露わにして、妖しげにその目を細めた。選帝侯は未だに彼女の言葉が信じられないのか、プレシャス・オパールの瞳から無駄に光を散乱させている。アルマは意味もなく彼の瞳を眺めていると、どうにも表情と顔のパーツが相殺し合って、次第に彼が驚いているのか、喜んでいるのか、見分けがつかなくなってしまった。彼女は一息つき、体を起こす。


「友達と、週末、コート買いに行く約束してるから」


 一言、一言、言い聞かせるように選帝侯へと言い放つ。彼はアルマの琥珀色の瞳から強い意志を読み取ったのか、降参したように両腕を上げた。アルマは子供らしい満面の笑みを浮かべ、それからふと、真顔に戻った。


「そういえば、どうやって帰ればいいの? 帰りたいって思えばいいの?」


 選帝侯は口を紡いだまま、アルマから顔を背ける。どこか不貞腐れたようにも見えるその仕草に、アルマは思わず噴き出した。彼女は「じゃあね」とだけ残して、一瞬にしてその場から消え去った。

 静かになったテラスで、選帝侯は独り、アルマがいなくなった場所を見詰める。彼は無意識にティーカップを持ち、中身を一口流し込んだ。香り高い紅茶は舌の上で溶け、広がっていく。彼は、視線はそのままに、カップをソーサーに戻した。カチャリ、と陶器と陶器が静かにぶつかり合う音が響く。


「……間違えたかな」


 誰へともなく呟いた言葉は、物寂しい空間の中へ消えていった。


「いえ、間違ってはございません」


 突如として、冷徹な声が静寂の余韻を打ち破った。選帝侯の脇に音も無く現れたのは、黒いレディーススーツに身を包み、銀縁眼鏡の奥から鋭い眼光を放つ、如何にも有能な秘書のような出で立ちをした女であった。彼女が選帝侯に一歩近づくと、踵の高い黒のヒールが、かつん、と高い音を響かせた。それと同時に、アップに纏めた彼女の艶やかな黒髪が、ばねのように上下左右に揺れる。


「河橋アルマは、基準軸チャンネルにおける時間間隔にて、一か月後に理との謁見予定が入っております」


 間違いありません、と繰り返す無表情な女は、その見た目通り、確かに有能な秘書であった。しかし、彼女が「誰の秘書でもない」という点が、彼女と通常の秘書とを決定的に異なるものへと位置付けさせていた。


「困ったなぁ」


 選帝侯は呟き、深く息を吐く。しかし、息を吐ききった後にあげた顔には、言葉とは裏腹な表情が浮かべられていた。秘書の女は常時射貫くような視線で選帝侯を見詰めるも、彼女はこれ以上、言うことはないといわんばかりに無口を決め込んでいた。

 選帝侯が、くつくつと不敵に嗤う。



「未来が見えなくなってしまったよ」


        *


 アルマが気付いた時には、あの奇妙な空間に行く前の、友人たちとの穏やかな時間が流れ始めていた。目の前には楽しそうにお喋りをする二人の友人がいる。アルマは思った通りに帰省できたことに、独り、満足していた。アルマは人や車の往来で雑多している街並みを遠目に眺める。


「あれ、オールドファッション、誰も口付けてなかったっけ?」


「えっ!? え、え、え、えーっと、多分?」


「ん、でも、さっき一口真奈が食べてた気がするような……?」


「えっと、うーんと、うーんと。うん、忘れちゃった! 多分、まだ私、食べてないかも!」


 アルマを余所にして、ツインテールと長髪の少女が語り合う。密かな不思議と共に。


「あ、じゃあ、ちょっと分けてよ! 少し味見したいかも」


「いいよ。ちょっと待ってね」


 真奈と呼ばれた黒い長髪の儚げな少女が、中央の皿に手を伸ばし、ぽつねんと残っていた完全形のドーナツを取り上げる。そのままもう片方の手を添えて、一気に親指に力を入れる。脆い生地で出来たドーナツは、あっさりと二つに分かたれた。割れた表面から幾らか屑が零れ落ちる他は、完璧に二等分されたドーナツが真奈の両手に残された。彼女は右手に持っていたドーナツをそのまま加絵へと手渡す。渡された彼女はしどろもどろになりながらも、「いいの?」と受け取った。真奈は優しく微笑み、「どうぞ、食べて」と返す。その返事に、真奈は大輪の花を咲かせた。


「ありがと! さすが真奈、太っ腹!」


 加絵の元気な子供じみた反応に、真奈は慈しみの眼差しを向ける。

 そして、二人は同時にドーナツを齧った。


 沈黙。

 加絵の表情がみるみる歪んでいき、真奈に至っては顔面蒼白になって小刻みに震えていた。二人ともドーナツを口に含んだ瞬間、その舌が味わうことを拒絶したのだ。加絵は半欠けらのドーナツを取り溢すや否や、紙ナプキンを手探りで掴み取った。二、三枚ほど掴んで引き上げたためか、勢い任せに紙ナプキン入れが倒れてしまう。しかし、当の加絵にそのような事を気にする余裕もなく、普段よりも枚数の多い紙ナプキンの上に、ドロドロと液状化した〝何か〟を吐き出した。次いで、舌に付いた残りかすも、紙ナプキンで残らず拭き取っていく。最早乙女の恥じらいなど気にしている暇もなく、加絵は涙が出てくるのを堪えてひたすらコーヒーを呷った。


 真奈の方は、味覚が口内のものを拒絶しても尚、乙女としての恥じらいが勝ってしまったのか、涙目になりながらせめてもの、口に含んだものを咀嚼し、飲み込んだ。何か得体の知れないものが喉元を通る時、真奈はまるで食べ物ではない〝何か〟を飲み込んでいるような気すらした。ブツが無事に食道を通り過ぎたところで、真奈は手に持っていたドーナツの半欠けらを静かに皿へ置いた。


 悲痛な沈黙がこの場を支配する。


 漸く二人の異変に気付いたアルマが、通りの方からテラスへと視線を戻した。そこで、友人がどちらも涙目になっていることに気付き、どうしたの、と口に出そうとしたところで、彼女は皿の上に乗ったドーナツの欠片と、床に落ちたその片割れを目にした。

 刹那、アルマの中で、別時空にて起こった出来事が走馬灯のように蘇った。

 アルマはどのように言いつくろうべきか、それとも知らぬ存ぜぬと通すべきか、一瞬迷ってしまった。迷ってしまったがために、二人からの視線は非常に痛かった。


「なんか、ごめん」


 それしか言うことができなかったのは、きっとアルマのせいではない。

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