3法則

「では手始めに、私の正体からお教えしましょう。自己紹介は、挨拶の基本ですからね」


 そう言いながら、男はテーブルに両肘を付き、くゆる湯気を遮るように指を組んだ。右目の眼窩に嵌っている金縁の片眼鏡の奥からは、プレシャス・オパールのような七色の瞳が、底知れない雰囲気を醸し出して輝いている。彼の右耳では金色の細長い雫型のピアスが、ゆらゆらと揺れている。白く陶器のような肌からは、凡そ生命と思しき気配は感じられなかった。

 人間の形をした何か。何か、生命体ではない、動作を持ったもの。思考を持ったもの。アルマは意図せず充填されたコーヒーカップに半ば意識を取られつつ、男の正体について自分なりに考察していた。しかし、一介の人間であるアルマにその正体が分かるはずもなく、アルマは早々に推測することを放棄した。彼女は男に言葉の先を促す。


「私は、選帝侯です」


 それだけ言って、男は紅茶に口付ける。ちらちらとアルマの様子を窺いながら目を伏せるあたり、彼はアルマの扱い方を持て余しているようであった。案の定、アルマに反応はなく、選帝侯と名乗った男は陰った瞳でアルマから視線を逸らす。


「……私は、選帝侯です」


「それはさっき、聞いたよ」


 選帝侯は両手で顔を覆い、肩を震わせた。時折、「ローマ王の? とか、ネタ? とか、いろいろ言い様はあるはずなのに……」と愚痴を零している。彼の右手には、いつの間にか白い手袋がはめられていた。

 アルマは半目になって選帝侯の様子を眺める。不意に口腔が乾いていることに気が付き、新しいホットコーヒーで口の中を濡らした。あまりの不味さに、アルマは顔を顰める。


「そんな事より、さっきの現象と、通り過ぎて行った人について教えて欲しいんだけど」


 口の中に残るねっとりとした不快感に苛立ちを覚えながら、アルマは本題を切り出した。しかし、とうの選帝侯は「そんな事より……」と虚しく呟き、アルマからの冷遇にその身を震わせていた。凡そ生命体とは思えない身体を持っている彼が、人間のような反応をすることに違和感と嫌悪感を抱くアルマ。苛立ちは募るばかりにもかかわらず、それでも尚、彼女は不味いコーヒーに口を付けた。


 再び、コーヒーにもクリームにも無い、ねっとりとした感触が舌の上に残る。まるで腐ってドロドロになったものを口に含んでいるような感覚になり、アルマは吐き出しそうになった。それでも中のものを飲み込んだのは、はしたなさからくる羞恥心というよりは、アルマ自身の勝手な信念からくるものによる習慣であった。出されたものは残さず食べる、飲む。ただ、それだけの理由で、美味くても不味くても、彼女は飲食物なるものを喉の奥に通すということを決めていた。


 コーヒーカップには、まだ半分のホットコーヒー with クリームが残っている。

 不快な感覚に顔を顰めたところで、彼女は不意に、選帝侯が目の前のホットコーヒーを出したくだりを思い出す。彼がカップに指差すや否や、カップの中に暖かいコーヒーが満たされた。


 何故か?


 考えるまでもない。『そこにコーヒーがある』と彼が思ったからだ。


 アルマはもしや、と思いつつ、カップに口付けた。甘く、ほろ苦い、店のホットコーヒーと同じ味が再現されている。アルマは自分の考えが正しかったことに気を良くし、カップを大きく傾けた。底に残ったクリームをスプーンで丁寧にかき集め、それを綺麗に舐め取った。空になったカップをスプーンと共にソーサーの上に置き、一息つく。そこでアルマは、空のコーヒーカップを想像すればよかったのではないかと思い至ったが、時すでに遅し。それでも、結局は信念を曲げずに済んだということから、アルマは些細な後悔を追い払った。

 機嫌の直ったアルマは、漸く選帝侯へと意識を戻した。しかし、彼は未だに嘆いており、話が進むどころか、話をすることさえもままならない状況が続いていた。アルマは虚ろな瞳を彷徨わせている彼に向けて、最大限の笑みを浮かべた。


「ねぇ、帰っていい?」


「いや、駄目です」


 先程までの悲愴な面持ちはどこへやら、選帝侯は元の胡散臭い笑みを顔に張り付け、アルマを呼び止めた。まるで演技をしていたかのような様変わりで、さすがのアルマも彼の変わりようには厭きれてしまっていた。彼女は仕方なく浮かんでいた腰を下ろし、再び選帝侯と相対する。彼はアルマの手元を見ながら、いやにニコニコと薄ら笑いを浮かべて、独り、満足そうに頷いていた。


「さすが、とでもいうべきでしょうか。アルマさんは、既にこのチャンネルに横たわっている法則を見抜いてしまわれたのですね」


 アルマは、その琥珀色の瞳を鋭くした。相も変わらず、選帝侯は本心の見えない顔をしたままアルマを見返してくる。


「意志と、現象が直結する、という法則?」


 選帝侯の七色の瞳が妖しく煌めく。


「えぇ。意志が、ね」


 刹那、アルマは眉を顰めた。選帝侯の言わんとすることが正しければ、アルマはまんまと彼の手のひらの上で踊らされていたことになるからだ。

 彼女は不快感に支配された味覚を思い浮かべながら、腹いせに、皿の上に残っていた食べかけのドーナツを指差した。選帝侯は数度瞬きをしてから、彼女の細い指の先に視線を落とす。

 完全な状態になった二つのドーナツが、そこに鎮座していた。一つはアルマが食べていたベリーのドーナツ。一つは彼女の友人が口にしていたチョコ味のオールドファッションドーナツ。選帝侯は視線を泳がせ、唇を震わせた。辛うじて口の端に笑みを添えるも、さしたる効果は発揮されていなかった。彼は恐る恐る口を開く。


「食べない、という選択肢は」


「許さない」


 アルマの鷹の目のような監視の下、選帝侯はもう一度手袋を外し、右手を皿の上空で彷徨わせた。時折上目遣いでアルマを見るも、その有無を言わせぬ眼光に、選帝侯は従わざるを得なかった。

 彼が選んだのは、ベリーのドーナツだった。徐に口に付けようとした瞬間、彼は機械のように動きを止める。何を思っているのか、白い顔をさらに青白くしながら全体的に小刻みに震え始めた。アルマはその様子で察したのか、口の端に悪魔のような笑みを浮かべる。


「あぁ、書き換えも無味覚も許さないから」


 選帝侯はアルマの圧倒的な存在値に気おされ、一寸先のドーナツに齧り付いた。件のドーナツが口に含まれた瞬間、彼の顔が土気色になる。しかし、アルマの視線から逃れることは虚しく、彼はやむなく咀嚼を開始した。最早食べ物というべきではないものを噛んでいくにつれ、彼の顔から表情が消えていく。まるでバグの発生したプログラムのように、無闇矢鱈とドーナツを噛み千切っては口内に押し込んで行く。最後に、口内でドロドロになった何かを、彼は一気に喉の奥へと押しやった。催される吐き気とともに、彼は派手に咳き込む。


 その様は、中のものが出てこなかっただけ、マシだったと言えよう。

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