2邂逅

 ウェーブがかった金髪の男は、かの有名な怪盗が身を包んでいるような、派手な白い衣裳を全身に纏っていた。彼はテーブルにはなかったはずの二つ目のティーカップを持ち上げて、気味の悪い笑みを張り付けながらアルマを見据えている。カップの中から、一筋の湯気が立ち上る。アルマは瞬きも忘れて、突如として現れた男を凝視していた。瞑っていたもう片方の目も大きく見開いて、右目にドーナツを翳したまま反応できずにいる。男は笑みを浮かべたまま動かず、ただ二十六日目の月のように薄く目を開いて、アルマを見詰め返していた。

 アルマの背筋に悪寒が走る。その震えは指先にまで伝わっていき、彼女は掴んでいたドーナツを落としてしまった。彼女の指から離れていったドーナツは、重力に引き付けられて、音もなく落下していく。アルマの意識の向こうでは、落ちたドーナツが空のコーヒーカップに衝突し、その衝撃に耐えられなかったカップがドーナツと共に倒れて、甲高い音を響かせていた。


「あーあ、はしたないですよ、アルマさん。とはいえ、カップに中身が無かったということだけは、救いでしたね」


 アルマははじめて、目の前にいる男の声を聴いた。男とも女とも似つかない声だった。彼の声が引き金となり、アルマの中で止まっていた時間がゆっくりと流れ出す。彼女は暫く男を見詰めたが、彼は先程喋ったのを最後に、再び口を閉ざしたまま薄ら笑いだけを浮かべていた。

 アルマは落としたドーナツに視線を移した。それなりに質量のあるそれは、可愛らしいコーヒーカップの口から三分の一だけ外に零れ出ていた。アルマからすれば、ソーサーからドーナツが落ちなかったこと、もっと言えばドーナツが地面に落ちなかったことの方が救いだった。彼女は少し形の崩れたドーナツを手に取り、それを二つに割った。


「まさか、それを食べる気ですか?」


 それまで気味が悪い程に笑顔を張り付けていた男が、真顔になってアルマに問うた。アルマはその問いに答えることなく、小さく割れた方を男に差し出す。すると、男は一瞬だけアルマを見遣ってから、躊躇いがちにカップを置き、嵌めている白い手袋を外した。手袋の中から現れた生気のない色をした細長い指が、ドーナツの片割れを受け取る。

 アルマが大きい方のドーナツを一口齧ると、男も貰った小さい方を一口齧った。ドーナツはコーヒーカップの表面に付着していた水分で、少しだけ湿っていた。


「少し、湿っていますね」


 男は不快を隠しもせずに言う。


「このくらいで、丁度いいんだと思う」


 アルマは凡そ半分になったドーナツを早々に平らげ、指に付いたベリーソースを舐め取る。代わりに、自分の唾液で照り輝いてしまった三本の指を、紙ナプキンで拭き取った。次いで、口元も綺麗に拭う。


「それは、もう飲み物が無いからですか?」


「いや、それはまた、別の話」


 男は一口齧っただけのドーナツを中央の皿に置き、新しい紙ナプキンを取って汚れた指を拭き取った。彼はカップに口付け、一息入れる。中央の皿の上には、彼が置いたドーナツの欠片と、殆ど原形を留めたままの、チョコ味のオールドファッションが載せられている。その皿の左右には、時が止まってから一度も動かされてないコーヒーカップとティーカップがあった。アルマは乾いた唇を弄りながら男を見遣る。


「二人はどこに行ったの?」


「どこにも。彼女らは、単にこの次元空間とのチャンネルを持ち合わせていない故に顕現できないだけであり、決して消え去ったわけでも、消し去ったわけでもありません」


 アルマはテラスの外に目を向けた。往来していた人々の姿はおろか、空を飛ぶ鳥の姿さえなく、無機質な街並みだけが彼女の瞳に映った。空は青々と晴れ渡っているのに、どことなく街並みは灰色に塗りつぶされているように見えた。


「つまり、私とあなたは、この次元空間にチャンネルを持ち合わせているってこと?」


 アルマの問いに、男は首を傾げた。アルマは、何か間違った事でも言ったのだろうかと首を捻る。


「私はそうですが……。あなたに関しては、よく分かりませんね」


 男は苦笑するが、アルマは顔を顰めた。


「あなたが知らなかったら、私は知りようがないんだけど」


「そうでもありません。ただ、あなたはどのチャンネルも持っていて、それでいて、どのチャンネルも持っていないということだけは言えますので」


「なんだか矛盾した話のようにも聞こえるけど……。まぁ、いいか。それで、それ以外のことは皆目見当がつかない、というわけ?」


「ええ」


 二人して首を傾げる。世界が切り替わってから幾分か時間が経っているにもかかわらず、男の持ち出してきたティーカップからは、未だにゆらゆらと白い湯気が立ち上っていた。アルマは、倒れたままになっているコーヒーカップを何気なくソーサーの上に置き直した。すぐに手持ち無沙汰になったアルマは、ちらりと中央の皿に目を向けるも、すぐに視線を逸らす。

 沈黙。生の気配がしない世界での静寂は、そのままの意味で時が止まっているような感覚を覚えさせる。視線をどこに向けていいか考えあぐねていたアルマは、誰もいない街並みに目を向けることで落ち着いた。暫くして、アルマを見詰める男と、その視線を無視して街を見詰めるアルマの図が出来上がる。両者とも一言も喋らず、また、身動きもしないためか、まるで絵画の一部にでも切り取られてしまったかのような状態が続いた。

 沈黙を破ったのは、男の方だった。


「気には、ならないんですか?」


 アルマの視線がテラスの方へと戻ってくる。その先には、テーブルの上で指を組み、真面目な顔をしてアルマを見詰める男の姿があった。アルマは頬杖を付き、もう一度街の方へと目を向ける。


「何が?」


「今起きていること、全て、です」


 アルマは左手の指でカップの取っ手を弄りながら、眉をハノ字に曲げた。


「あなたは知らないんじゃなかったの?」


「それは、あなたがこの時空間にチャンネルを持ち合わせているか否かについてです。さすがの私も、答えられないことがあるとは思ってもみませんでしたが」


 アルマは取っ手を弄っていた手を止める。彼女は頭を斜め前に傾け、弄っていた手で頬にかかっていた横髪を耳にかけた。瞼にかかった銀色の前髪の奥で、琥珀色の瞳が妖しく嗤う。


「つまり、他のことには答えられる自信がある、と?」


 男は苦笑するだけだった。アルマは慣れない演技に飽きたのか、すぐに姿勢を正し、無表情に戻った。その視線の先は、やはり人のいない街へと向けられている。

 沈黙と緊張、そして呆れが交じり合う。アルマは溜息を一つ吐き、男の方へと向き直った。


「なんだか、質問する気分じゃないんだよね。こう、何て言うか、どうでもいいというか」


「どうでもいい?」


 食い気味に反応する男。心なしか、アルマを睨んでいるようだった。対するアルマは説明できないもどかしさから、指を弄ったりカップを弄ったりと、手遊びが激しくなっていた。彼女は瞼に被さる前髪を横に梳くようによけるも、絹糸のように滑らかな彼女の髪は、すぐに瞼まで滑り落ちてくる。


「ただ、私はここにいるんだな、という認識しか出来ない」


「だから、質問する気になれないと?」


 男は射抜くような視線でアルマを見据えた。アルマはその強い視線に対して、怯むことなく彼に視線を返す。彼女は姿勢を整え、両手のひらで空のカップを包み込みながら、「えぇ」と返答する。毅然としたアルマの態度に、男は目を細めた。


「それでも、ですか?」


 男はアルマが包んでいるコーヒーカップを指さしながら言った。アルマは言われるままにカップへと視線を落とす。途端に、手のひらに熱を感じ、空だったはずのカップには、注文してから受け取った時と全く変わらない、出来立てのホットコーヒーがあった。ふんだんに乗せられたクリームの隙間から、静かに湯気が立ち上る。

 アルマは顔を上げ、男を見た。男は挑むような視線を彼女に向けている。アルマは中身が零れないようにカップから慎重に手を放しながら、ゆっくりと口を開く。刹那、視界の端を通り過ぎて行くものがあった。アルマは咄嗟に身体を後方へ捻り、その正体へと目を凝らす。道路を走り去っていったものは、既に遠くまで行ってしまっていた。しかし、それは紛れもなく、手を繋いだ二人の人間のシルエットだった。腰まで届く白い髪を靡かせながら、凡そ人間に出せる速度とは思えない速さで、視界から遠のいてゆく。

 二人の姿が見えなくなるまで道路の先を眺めていたアルマは、身体を元に戻して、一息ついた。伏せがちな視線の先には、冷めることを知らないホットコーヒーが映し出されている。アルマはもう一度息を吐き、諦めたように天を仰いだ。


「分かった、あなたの話を聞かせてもらうよ」


 男はしたり顔で笑みを浮かべた。

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