第15話 書くということ
たとえ誰にも見せることを想定していないようなメモであっても、書かれたものは本質的に誰かに見られるためにあるものである。
話し言葉が音となって消え、少なくとも録音機器のなかった時代には直接的な形で記録を取ることができなかったのに対し、書き言葉は常に記録される。
後に破棄することは、「タイプ」言葉ではなく、文字通り物理的に書かれた言葉であれば今でも可能だが、いずれにせよ破棄されるまでの間は少なくとも記録される。
これは、話し言葉が録音されない限りは本質的に記憶だけの存在であるのとは対照的である。
そして、記録とは、常に誰かに見られるために残されるものなのである。ではその相手は誰か?
「誰にも見せることを想定していない」日記などの個人的記録を例に取ろう。
それらを発見するのは、プライバシーを侵害する無遠慮な同居人の類を別とすれば、基本的に本人の死後に残された者たちである。
例えば、ブレーズ・パスカルのパンセの多くは、そうして後世の人間が発見したパスカルのメモから構成されている。
ここで、死んでしまった本人に対しては、もはや残った側は危害を加えることはできない。
あるいは物理的に死体を損壊したり、宗教的に破門したり、法的に名誉を剥奪したりなどの措置は取ることはできるかもしれないが、死者にとっては、もはやそのようなことはどうでもいいことである。
書き手と未来の読み手との間には、決定的な隔たりがあるのである。
そしてこのように、記録は読み手と書き手を隔てることができるという点にこそ、書き言葉が想定する「誰か」の本質が含まれているように思う。
書き言葉が相手にするのは、自身に直接的な危害を加えることがないであろう人々である。
話し言葉の場合は、書き言葉よりも分かりやすく感情が出るため、また物理的に接近した距離にあるため、場合によっては喧嘩や闘争になることがあり得る。
そうならないように、イギリス議会はわざわざソードラインを設けているほどである。
対して、書き言葉の場合は、たとえ感情がこもっていたとしても、せいぜい紙の上であり、文章表現や筆跡に現れるだけにとどまる。
そしてまた読み手も、多くの場合書き手から物理的に隔離されているから、何か思うところがあったとしても、わざわざその隔壁を乗り越えようとするのは稀であろう。
このように、誰かに自分の言葉を伝えたい、しかしそのことで自分が傷つくことは避けたい、という微妙なバランスの上で為されるのが、書くという行為である。
「誰にも見せることを想定していない」はずの日記やメモでさえ、記録しているというまさにそのことによって、未来の自分自身をも含めた、「誰か」に見られ得る状態にさらされる。
書き言葉である以上、実はネットに発信される「タイプ」言葉も、ほとんどはそうした「無害な他者」に「自分の記録を見せる」言葉である。
ネットの場合は、かりそめとはいえ匿名性が読み手と書き手を隔てる最大の壁となる。
また、物理的な隔たりも大きな壁といえるであろう。
通常は全ては画面越しであり、たとえネガティブな反応が返ってきても、画面を消してしまえばそれっきりである。
だが、ネット上に残る「タイプ」言葉は、物理的に書かれる言葉と、いくつかの点で大きく異なる。
まず、「タイプ」言葉は、一度発信されたら消すことができる保証はどこにもない。
MediaWikiサイトの場合は特殊な拡張機能を用いない限り管理者やオーバーサイト権限保有者が見られる状態は保たれる。
またMediaWiki系以外のサイトでも、発信者がアカウントを削除したところで、魚拓やウェブアーカイブが残っていれば半永久的に閲覧可能な状態が維持される。
また、紙に書かれた日記の場合はプライバシー意識の低い実生活上の知り合いなどに漏れない限り、通常は実生活における攻撃に発展することはない。
しかし、「タイプ」言葉は、「自警」と呼ばれる粗探しだけが得意な暇人の目に留まった暁には、即炎上し、最悪の場合は個人情報の晒し上げや、その情報を悪用した実生活上でのイタズラなどによる被害を被ることとなる。
とはいえ、そのような事例は発信者の絶対数を考えれば至極稀であるから、実際にはほとんどの発信者はやはり気軽に発信するのである。
……無害な誰かが見てくれると想定して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます