第7話 天才涼宮ハルヒとSOS団について

 涼宮ハルヒは天才である。


 願望実現能力、あるいは情報創造能力と言われる特殊能力を抜きにしても、涼宮ハルヒは天才児、ギフテッドだと言って良い。


 運動も、芸術表現も、知的表現も完璧以上にこなす。

 それも、ぶっつけで文化祭バンドのボーカルをこなしたり、テストで高得点を取ったりするような、まだ日常的と言えるレベルで高い能力を発揮するのみではない。

 彼女は、何気なく文芸部の機関誌に投稿した「世界を大いに盛り上げるためのその一・明日へ向かう方程式覚え書き」が未来人の時間平面理論の基礎部分を構成したり、何気なく書いたSOS団のロゴマークが膨大なデータ量を含んでいたりする、世界的レベルの天才肌である。

 国が国で、運もよく世界的な学者の目にでも止まっていたら、間違いなくアイビーリーグやスタンフォードなどへの飛び級の道も開けていたことだろう。

 また、時代設定上当時は恐らく存在しなかったであろう東大の推薦入試の突破も、時間平面理論系の研究によって(もし現代人で理解できる人がいたら)十分可能だと思われる。


 これらの才能すらも願望実現能力の産物、と主張することもできよう。しかし、私はそうは考えない。

 運動能力については、そう簡単には向上しないだろうが、願望実現能力によって過去の記憶や記録まで塗り替えられたという空想も成り立ちうる。

 願望実現能力の射程が作中では明確にされていないものの、少なくとも時間をループさせる場合には実際に記憶も記録もリセットしているし、情報統合思念体にできる程度の情報操作が彼女にできないとも思えない以上、原理的には不可能ではない。


 だが、彼女の知的能力については、その手のごまかしは通用しない。

 情報爆発の発生する前に起こった、小6の時の彼女の原体験を挙げれば十分だろう。彼女は間違いなくその頃からかなり利発な子だったと言っていい。

 小6の時に、既に自分の存在の無力さを感じ取る能力と、日本全体や宇宙に思いをはせる思考力とを獲得していたのだ。それは、パスカルの言う「考える葦」の本質的な部分である。

 大半の子はいくら利口でも、この時期は遊び倒すか、あるいはどこかの名門中学のお受験に向けて勉強漬けになっているかのどちらかで、この境地に至ることすらできまい。


 そしてこの天才にとって、学歴よりも望むものへの期待を優先させた結果が、恐らくは北高の入学という選択なのだろう。


 もちろん、場合によってはジョン・スミスのことは半分以上諦めて普通に進学校に進学した可能性もなくはないし、そのような世界が『消失』の改竄世界以外に存在しなかったという保証もない。

 進学校でも、優等生肌の学校の二番手クラスが集まる場所よりも更に上、全国に名の知られる超の付くレベルの進学校に進めば、彼女と知的レベルの見合う存在に出会えた可能性もあろう。

 宇宙人を探すにあたりNASAの報告やハビタブルゾーンに存在する系外惑星の観測を試み、有機生命体以外の生命体の理論的可能性を模索する生徒や、相対性理論で一度は否定された過去への遡行の可能性を超ひも理論の研究がてら模索する生徒などに出会えれば、全く別の形のSOS団が生まれた可能性もある。

 超能力については定義からして恐らく科学に本質的に反するので難しいにせよ、宇宙人の可能性、未来人との遭遇の手段、そして異世界(多世界仮説的な分岐世界なり、多元宇宙・マルチバースなり)の可能性は、ある程度までは科学の力で可能性を考察できるし、そこまで突飛でも非常識でもない。(このアプローチの問題点は、むしろ工学の領域に属する。科学理論において可能でも、それを実践に移すための技術が追いついていないのだ)

 恐らく知的刺激という意味では、本当はそっちの方が彼女にとっても、彼女の周囲になる側にとっても良かったのではないかという気がしないでもない。


 だが、「今実在しないなら未来人かもしれない」とジョン・スミスのいる一縷の可能性にかけて「普通の」高校である北高に入る道を選んだことも、商業戦略や原作者の来歴などの大人の事情もあるように見えなくもないが、結果的に当たりだったのだから、本人にとってはそれほど悪い選択ではなかった…と、高2のハルヒは思っていることだろう。

 彼女が楽しんでいることそれ自体は悪いことではないし、原作通りのSOS団結成ルートは、ある意味天才にとっての理解者や対等な能力の持ち主が集まって彼女を囲むこととなるため、本人の精神衛生上も悪くはない選択肢には違いない。


 だが、それは問題の一面に過ぎない。


 たとえSOS団の団員が団員意識をもって結束を強めるに至ったとしても、キョンとハルヒを除く団員には、それぞれの立場がある。


 ハルヒの観測と保全を目的とする長門有希は、恐らく彼女の道を積極的に邪魔することはしないだろう。

 能力的にも、彼女に追随する理解者枠ではなく万能選手として振舞える対等枠であり、この二人は、真に良き友人になれる可能性を持っていなくはない。


 だが、既定事項を遂行して自分たちのいる未来に誘導したい朝比奈みくるや、現状維持を望む「機関」の古泉一樹はどうだろうか?


 仮にハルヒが事情を知れば、みくるは優勢に立つことができる。

 ハルヒが自らの望むアクションを取ろうとしたときに、それをすると自分のいる未来につながらない、自分の存在が消えてしまうかもしれないと脅せば、団員想いのハルヒを思うように操ることも不可能ではないだろう。それが事実か否かは関係ない。彼女の存命中にTPDDが発明される状況にさえしなければ、後はいくらでも「禁則事項」として伏せてしまえるのだから。

 みくる(小)はさすがにハルヒの願望実現能力を用いた報復の可能性も念頭に入れて、そして性格的にも、そこまであくどいくどいことはしないかもしれないが、みくる(大)は、ハルヒの天才性の発揮が自分たちの未来を脅かす可能性があるとき、容赦なくみくる(小)に理由を告げることなく最上級命令を発して、時にキョンをも手駒にしてハルヒの才能を潰し、発揮させない方向で彼らを操りにかかるだろう。

 そして、説明を求められても、古泉のいないところで適当にキョンをけむに巻いて、あるいは自らの性的魅力に訴えて逃げるに違いない。


 古泉一樹に至っては、もっと露骨にハルヒが天才でい続けることを望んでいない。

 彼はかりそめ、偽りの「不思議」を出来レースで提供し、ハルヒを退屈させないと同時に目の前の出来事に縛り付けようとしている。

 SOS団の目的が既に本人の自覚なしに達成させられているとはいえ、彼は本人が望むような不思議から彼女を遠ざけ、自分たちの「世界の現状維持」のために彼女の「平和な生活」を望む組織の一員である。そして、彼女を「まともな思考形態を持つ一般的な人種」であり、常識的な部分を持っていると規定する。


 彼にとっては、天才ハルヒという像ははっきりと困りものなのである。

 天才は、常識が誤りであると気付いたときにこれを捨てることのできる力を持っているからである。

 ハルヒも、根本的にその力を持っているとみて良いが、古泉としてはその(人間の範囲内)の才能の発揮すら望んではいないと見た方が良い。

 天才でも時に過ちを犯し、誤った思考を行うからである。

 仮にハルヒが時間平面理論の基礎研究の中で過ちを犯し、しかもそれに気付かずに誤った結果を信じ込んでしまったら、世界はその通りになるかもしれない。


 また、天才としてのハルヒが何らかの研究を行ったとして、その成果は、恐らくは朝比奈みくるのいる時代、現代とはあまりにも大きく異なることが想像される時代への一歩となる。

 「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」とはよく言ったもので、ハルヒその人が時代を前に進める天才・変革者になってしまったら、第一にはハルヒの人生は彼女の思う不思議とは無縁でも「平穏無事」な普通の人生からは遠くなってしまうし、第二にそれが彼女の願望実現能力の産物で物理法則を狂わせているのかという不安に襲われることにもなろう。

 彼にとっては、朝比奈みくるのいる未来に至る途方もない大変化、一種の産業革命は、少なくともハルヒの存命中に開始されてはいけないのである。


 故に彼は、できればSOS団が続く限りはその日常に没頭させて時空に思いをはせる時間を奪い、最終的には普通人のキョンとくっつけて、早いところ彼女を普通の家庭生活、それも専業主婦生活に移してしまいたいと考えているとしても、おかしくはない。

 事実、作中では、何か所か彼女のキョンへの想いに気付かせようとする節もあるし、ハルヒが普通に近付くことを喜んでいる描写も見られる。


 結局彼はSOSと「機関」の利害の対立で団の肩を持つことはあるかもしれないが、ハルヒと「機関」の利害の対立になった場合は、あくまでも「機関」の一員に徹するのではないかと思う。


 つまり、朝比奈みくるや古泉一樹は、あくまで人間的範囲内での天才としての涼宮ハルヒとも対立し、その才能を潰しにかかる可能性が十分に考えられ、その意味では、ハルヒにとって本当の友人にはなり得ない。


 では、背後組織のないキョンはどうだろうか。

 このような状況になったとき、彼はハルヒの味方でいられるだろうか?

 恐らくキョンとしては、ハルヒの思い付きに振り回されることには慣れてそれほど嫌でもなくなりつつあるようだが、あまりに天才的な才能を発揮して彼女がキョンを置いていくような事態は望んでいないだろう。

 『驚愕』で見た未来について、「あの場所にいることを望む」と言ってしまっているのだ。

 彼女がその才能を最大限発揮しようとする機会があって、それがキョンとの地理的な別れを意味する状況になったらどうだろう。恐らくは彼女もそれを望まないし、キョンは口では行ってこいというかもしれないが、やはり本音ではそれを望まないだろう。

 そして、キョンは作中描写に沿う限り、自ら普通人であることを宣言する通りの凡庸な男だ。自力でついていくという選択肢は限りなく非現実的である。


 端的に言うと、キョンは意識的にハルヒの才能を潰そうとは思わなくても、自らの才能不足ゆえに彼女の足を引っ張る可能性があるということだ。

 背後事情がなく、ハルヒにとって真の意味での友人、あるいは場合によっては恋人にすらなれてしまう可能性があるというまさにその事実故に。


 そして、原作の流れは、大枠では涼宮ハルヒの天才性が鳴りを潜める方向で進んでいる。SOS団は年中行事をエネルギッシュにこなすだけの一種の「お遊びサークル」に堕落しつつあり、全てはおおむね古泉(&みくる(大))の思惑通りに進んでいる。

 佐々木団などは平穏へ向かう方向、つまり作品のマンネリ化に対抗するちょっとした刺激要素ではあるが、彼らとてハルヒが天才性を失い、文字通り普通の女性になっていく方向性を阻む力はない。


 原作のタイムラインでは、最終的にハルヒの天才としての生き方はふさがれることになるだろう。彼女の中年や老年の時期がもし書かれたら、変わらず賑やかで元気いっぱいな姿は見られるかもしれないが、その才能の真価は遂に発揮されないで終わっている可能性が高い。

 恐らく、ハルヒの天才性が発揮されてしまってはキョン視点で描けない難解な理論の描写が増して読者が困惑するであろうことや、キョンというキャラの、場合によっては作者自身のスペックを超えてしまう可能性があるというメタ的な事情も相まって。


 しかし、正直に言うなら、これは私というハルヒファンにとってはあまり望ましい展開ではない。


 私はSOS団の団長以外の団員を中心として、ハルヒが蚊帳の外に置かれた物語よりも、ハルヒ団長が中心の物語が見たい。

 どちらかというとハルヒシリーズそのものよりも、ハルヒという個人のファンなのだ。

 そして、できるなら、ハルヒが天才のまま、as isで生きて行ける、団員が変な尻拭いをして世界が毎度つまらなくなることのないようなタイムラインを見てみたいのだ。

 天才潰しはあまりにも日常的な悲劇である。天才性は美人の美貌と同じくらいかそれ以上に儚い、不安定な領域にある才能だからだ。あえて潰そうとしなくても、ひょんなことから簡単につぶれてしまう。だから、私はつぶれない天才が見たい。


 天才性抜きのハッピーエンドもあり得るって?

 ありえなくはないだろう。だが、たとえ本人が天才性を発揮しない状態のままで幸せを感じていたとしても、それは天才性に身を委ねたときの大いなる喜びに比べれば微々たるものであろう。故に人類にとっての喪失などという大げさな言葉を持ち出さずとも、やはり悲劇である。


 そういう訳で、私はキョン視点「ではない」完全な異世界人を導入して、状況の打破を図る二次創作で、原作にないものを作ってしまおうとしている。

 渡橋ヤスミの言う通り、異世界人は、「一番何でもアリ」なのだ。

 そしてこの異世界人は、極限状況においては、他の団員と対立してでもハルヒ団長を応援することだろう。「彼」は、純粋にして究極的なハルヒストとして振舞うこととなる。


 だって、ハルヒが言う通りで、なければ作ればいいんだし、その方が面白いじゃない?

 ハルヒに興味を示す勢力の中では、何となく過激勢力寄りの見解という気がしないでもないけど、そういう急進派だの過激派だののためのハルヒも、あってもいいじゃない。

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