第4話 人生の最終問題
「人生、生きていればいいことはある」という類の言葉は、引きこもったり不登校になったりする若者を鼓舞するために、あるいはそこまでいかなくても落ち込んでいる人を励ますためによく使われるものである。
しかし、この言葉は、結局人生の逃れられない最終問題よりも前のある地点がどうこうという話をしているに過ぎない。最終問題に対する回答を与えず、ただ漠然と「いいことがある」という人たちに、私は何となく不信感を覚える。
人生の最終問題とは、言うまでもなく死である。
全ての人間はいずれ死ぬ。
当たり前のことだが、そうであるならば、長生きを試みさせることは、つまるところかりそめの延命策に過ぎない。自殺志願者がいたとして、それを止めなければならない理由などない。結局は、いずれくる最終結果を前倒しにするか後回しにするか考えているだけなのだから、その答えは、本当は「どっちでもいい」のである。
そのことに触れず、何が何でも延命させようとして、希望をいたずらにばら撒くような考え方は、ある種の逃避だと思われる。
確かに「いいこと」とやらはあるかもしれない。だが、長生きすればやがて健康を損なったり、体力や知能を衰えさせたりして、苦しむことになるかもしれないのもまた確かだ。「いいこと」を強調する論理は、結果を無視するのみならず、人生の途中経過さえも一面的にしか見ていない。
私が本当に欲しいと思うのは、人生の最終問題、死を踏まえた上で、何故そうするのか、何故そうあるのかという問いへの答え、「いずれは滅びるのに」という言葉を退けて生き残る答えである。
私自身は、まだそれを見つけられてはいない。
外部の何者かのためと言ってみることはできるが、人類はいつかほぼ間違いなく絶滅するし、宇宙にしたって、ビッグ・リップなどの何らかの終焉を迎え、生命を支えきれなくなるだろう。
価値判断を行うのは生命だ。そして生命の消滅は価値の消滅だ。あらゆる生命の将来的消滅は、あらゆる価値の将来的消滅を意味する。
全ては、客観的には無意味なのだ。
だからこそ、何か、最終問題への自分なりの答えが欲しいのだ。
滅びゆく存在に頼らず、かといって神のようなごまかしの道具を仕立てるのでもない答えが。
しかし、その答えが得られるめどは全く立たない。
そうして、私は寄る辺なく、今日も人生という海を漂っているのである。
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