五十二話 嫉妬の大罪

『——妾を呼ぶ者は誰ぞ』


 人型を成した闇が地の底から響くかの如く声を発した。それはさながらしゃがれた老婆の呻きであり、何故かうら若き乙女のようにも聞こえる不思議な韻を踏んでいる。聞く者により、様々な音色に千変万化するであろう魔性染みた響きだ。グラナは薄れ行く意識の中、懐かしい声色を聴いた。


「し……師匠……の声?」

『そこの、あの童はなんと言っておるのじゃ?』

「どうやら貴女の声を自らの師と勘違いされているのでは? そんなことより、——我らが盟主、強欲の大罪クピドゥス様の命によりお迎えにあがりました、さね」

『……どこの馬の骨が妾を解き放ったかと思えば、よりによって強欲の眷属とは。あやつ、妾より先に封印を破っておったのか。——呆れるほど、己が存在意義に忠実なものよ』


 陰と一体化した人のような姿の大罪は忌々しそうに吐き捨てる。

 強い意思を伴った言霊は、大罪が抱く感情を示すかの如く、空気中のエーテルを震わせた。

 ただ、それだけのこと。しかし———


「づっ!? 耳が……頭が割れ……」


 失血による気絶寸前だったグラナは耐え難い頭痛と耳鳴りに襲われて、意識が飛ぶを通り越して苦痛にもがき……喘ぐ。

 この世の苦しみ全てを凝縮したかと錯覚するほどの、痛み。

 時間にしてわずか5秒。しかし、1秒が1時間、24時間、8760時間一年かのようにも感じられて、さながら、終わりが来ない永遠に続く拷問のようですらあった。

 のたうちまわる連換術師の無様な姿に目を向けた大罪は、音も無く歩み寄る。そして、おもむろに漆黒の手を額にかざした。


『そなた人であるのに精霊のようにエーテルを感じ取ることが出来るのだな? 珍しい体質……いや、魂そのものが精霊に近しいのか?』

「……」

『先刻は失礼をした。そこに傅いておる眷属はともかく、妾の嫉妬は人を狂わせる毒のようなものでな。——治癒、とまではいかぬが痛みだけ取り除いてやろう』


 どぷりと大罪の漆黒の手が額にめり込む。

 まるで脳を直接、素手でまさぐられているかのような、あり得ない不快感。

 しかし、不思議なことに頭が割れる程の頭痛が、少しずつ痛みの波が弱まり始めた。


『——よいぞ』

「……お前、俺に何をした」

『礼も言えぬとは失礼な童じゃな。まあ、よい。妾の無作法ゆえ不問にいたそう。そなたの肉体を蝕んでおった第五元素のなれはてを取り除いただけよ。人には過ぎたるものじゃからな』

「第……五元素? なんだ、それは」


 眼も耳も鼻もない黒一色に染めた仮面のような顔の大罪は、「はて」と小首を傾げた。まるで当たり前のことを今更尋ねられ、どう答えようか思案しているようにも思えるその仕草に、グラナは違和感を覚えた。


『——ふむ。元素を扱う術を自在に扱いながら第五元素真エーテルを知らぬとは。どうやら、忌々しい聖女の目論見は失敗したようじゃな』

「……は? お前、何を言って——づっ!?」


 瞬間、引いたはずの痛みが再びぶり返した。

 まるでいきなり麻酔が切れたかのように全身が悲鳴をあげて、ぴくぴくと虫の死骸のように四肢が痙攣を始める。


『——二度は許さぬ。不敬であるぞ、童』

「あ……がっ……」


 大罪はつんと顔を背けると再び音も無く、道化の側へと戻っていった。一部始終を黙ったまま眺めていたジュデールの横には、いつの間にか気絶したままのアルクスが仰向けに寝かせられていた。


『不快な童よ、妾に実体があったならば八つ裂きにしてくれるところであったわ』

「そう、思いまして。——現界するにあたり、器をご用意させてもらったさね」

『……ほう。流石は強欲、用意がいいことよ。そこに転がっておるおなごの肉体が妾の器か?』

「仰せの通りさね。心ゆくまで検分されよ。これ以上に無い極上の器なのでね」

『……。そこまでいうのなら、期待させてもらうおうぞ。眷属、そなた名をなんと申す?』

「——ジュデール、さね」

『……覚えておこうぞ。さて』


 大罪は満足げに頷くと、漆黒の腕をアルクスに向かって伸ばした。

 元より不定形の闇が人型を成したものだけあって、そこに宿る意思に呼応するかのように腕が長さを増してゆく。

 漆黒の掌が気絶したままのアルクスの額に触れ、どぷりと沈みこんだ。

 先ほどグラナに処置を施したのと全く同じ動作。しかし、大罪が何かを信じられないものを見たかの如く、仰け反った。


『——まさか。このおなごは』

「五百年前の聖女の血を受け継ぎし、今代の聖女さね」

『よい、実によい! 強欲もたまには粋なことをしてくれるものよ。気に入ったぞ、やはり臣下とはこうであるべきよ。ジュデール……と申したな。妾は恩を忘れぬ。いずれ、お前の身にはあまりに余る褒美を取らせようぞ』

「ありがたき幸せ。……ククッ」


 すっかり気を良くした大罪は、興奮を抑えられぬまま両腕を伸ばす。

 蝶の幼虫を包む細い繭の糸のように、幾つも枝分かれしながらアルクスの全身を闇が包み込んだ。

 闇の糸は瞬く間にアルクスを覆い尽くし、重力に逆らうようにその場で直立する。

 グラナはともすれば飛びそうになる意識を懸命に留めて、手を伸ばす。

 しかし、人の腕では3m先のアルクスには届くはずもなかった。


「……あ……アルクス!? 取り込まれるな!! 目を覚ま……づっ!?」

「いいから。大人しく見守っておけさね。まったく、呆れるほどしぶといやつだ。もう一カ所、腹に風穴開けられたいかさね?」

「じゅ……ジュデール……てめぇ……」

「我ら人の罪を裁く大罪の受肉——さね。これほどに神聖な儀式を邪魔しては、それこそ不敬では済まされない。そうは、思わないかさね? 連換術師」


 背中を圧迫するほどの脚力で踏みつけられ、微動だに出来ないグラナを道化は嘲笑う。今、この場に置いて主導権は道化と大罪が握っている。

 満身創痍でもはや指先すら満足も動かせない連換術師に、為す術は無い。

 

 ——手詰まり


 何をどう間違えてこんなことになったかなんて、考えるまでもない。

 これまでが運に恵まれすぎていただけだ。

 なまじ今までが上手く行き過ぎていたからこそ、いざという時に助力も得られない、帝国内地から遠く離れたこの地で起こされた結社の目論見を看破出来なかった。


 だから、最悪の事態を招いた。それが逃れようのない直面している現実だった。

 都合のいい助けなんて、本来は起きようが無いのだ。

 奇跡は起こらないから、奇跡——

 そんな当たり前のことを、当たり前であることを、いつの間にか忘れていた。


 だけど——


「……呆れるにも限度があるとは知らなかったさね。お前、みっともなく足掻いて、まだなんとかなると思ってるのかさね?」

「や……やかましい。 ……諦めて……たまるか」

「……」


 対照的な二人の男は心情もまた正反対だった。

 正義の反対は悪なのか。それとも違うのか。

 そして、己の生き様と合わせ鏡のような生き様を見せつけられた者が、大人しく引き下がるはずもない。


「興醒め、さね。——計画など知ったことか。ここで、果てるがいいさね」

「がっ……」


 道化は痩せ細った四肢からは想像も出来ない圧で、万力のように連換術師の頭を素手で押さえつけた。露わになった首筋にもう片方の手を振り上げ、忌々しそうに舌打ちを一つ。

 そう、最初からこうすればよかったのだ、と今更のように気づく己の思考にも呆れて。


「永久の別れ——さね。マグノリアの英雄」

「——させぬ」


 道化がひと思いに手刀を振り下ろした瞬間、焔のかいなが勢いよく手刀を弾いた。

 



 


 

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