五十三話 空と地の狭間で
「ねえ!? なんなのあの黒い霧!?」
天翼の聖獣の背に乗り空で待機していたカインは、山頂から立ち上る噴煙にも似たそれをおののきながら凝視した。
雲一つ無く澄み渡る砂漠地帯の空に立ち上る一条の黒煙。さながらそれは、地底深くから沸き立つ溶岩から漏れ出た吐息のようであり、気流に乗って卵が腐った時に発生させる刺激臭が鼻を突いた。
『——。不味いな』
「ま、まずい!? 何が不味いの!?』
天翼の聖獣はカインの呼びかけには応えず、猛禽の瞳を細く顰めた。
先ほどまでの尊大な態度から一転、どこか怯えたように背筋を震わせる震動をカインは如実に感じ取った。
『……ジュデッサが封じた災厄の記録。教会には遺されておらぬのか?』
「は……初耳なんですけど!? さ、災厄って本当にいたの!?」
『我らだけでなく精霊達も力を落とすはずだ。まさか、ジュデッサの教えがここまで廃れていたとは』
「わ、わかるように説明して!? とにかくグラナは!? グラナは大丈夫なの!?」
『少しは、落ち着け。——まだ確証が持てぬ。災厄の封印が解かれるなど、想像したくもない——が』
聖獣は山頂から距離を取る。シナイ山上空の周回飛行を行いながら、最悪の事態を迎えたかもしれない可能性に鋭い猛禽の眼を細めた。
山頂は一角の聖獣が守護する聖域。
が、先ほどから上空から見張っているだけでも、明らかな異常を感知していた。
腐食性が臨海に達した汚染エーテルが渦を巻いたかと思えば、清らかな風によって雲散霧消する様を見届けたばかりだ。
敵性存在の禁足地への侵入はもはや疑いようもなく、
「と、とにかくグラナが心配だよ! 僕を山頂に降ろして!」
『無茶を言う。——お前如きが戦場に降りて何が出来る』
「そ、そんなこと、やってみないとわからないでしょ!?」
『——情けなし。これがジュデッサの志を継がねばならぬ次期教皇とは。あやつも浮かばれぬな』
「さっきから、自分だけわかってるみたいなその独り言、すごい傷つくんだけど!?」
『馬鹿者!? 羽毛をむしるな!?』
どちらも人から敬われるはずの一人と一匹は、立場も忘れて本気で罵りあった。
こんなことをしている場合ではないのにという焦りと、今すぐにでも同胞を救いに行きたい衝動がせめぎ合った結果。
「あ」
『しまった!?』
天と地が逆しまになり、ようやく空に放り出されたのだと気づいた時は遅かった。
浮遊は瞬きの間だけ。
すぐに地上へと引っ張られる重力の手に掴まり、落下を開始した。
「きゃあああああああ!? また、落ちてるぅぅぅぅぅぅ!?」
『大馬鹿者! 姿勢を制御せぬか! 両手を広げて風に乗れ!』
「そんなこと、出来るわけないでしょぉぉぉぉぉぉ!?」
前傾姿勢を取り、急速で滑空しながら聖獣が叫ぶ。
折り悪く向かい風が吹いているのか、風切り羽を立てても一向に追いつけない。
まるで、風が意思を持つかのような錯覚すら覚えた、その時だった。
「シルヴァ!」
「わーってるての! 相変わらず精霊使いが荒い女だよ。お前は」
突如、風が渦を巻き上昇気流を生み出した。
見えざる巨人の手のように落下するアルクスを少々荒っぽく掴む。そのまま風に押し出されるように吹き飛ばされたアルクスは、ぐるぐると回転しながら柔らかい羽毛の上に落ちた。
「目……目が回る〜」
『……世話が焼ける。しかし、今の風は——』
「よう、久しぶりだな大鷲の旦那。相変わらず壮健そうでなによりだ」
ただならぬ気配を察した聖獣は、大きな目を見張った。
不自然に回転を止めない竜巻から現れたのは見覚えのある筋骨隆々の大男とそこに肩車している、銀髪の少女。
『——風の? それと』
「……驚いた。本当に長命種だったのね」
『——信じられぬ。……五百年ぶりか、聖女』
聖獣は長く生き続けた中で、それでも滅多に味わうことの無い驚愕に両翼を震わせた。
高度千メートル地点の上空を吹く風は、冷たく身を切るような感触で、聖獣の暖かな羽毛に体を沈ませなければたちまち凍えてしまうだろう。
にも関わらず、宙に浮く大男の肩に座る少女は、寒そうな素振りひとつせず猛禽の瞳を真っ向から凝視していた。
「状況はこちらも把握してる。あんたも山頂の異変は目撃してるでしょう?」
『では、災厄の封印が解かれたのは——』
「残念だけど、事実。今は成り行きで同行しているトライシオン……じゃなかった、フレイメルという教会の従司教が、再封印を施そうとした元素術師と一角の聖獣の救出に向かってくれてる」
『……では、我はいざという時の離脱役をかって出ればよいのか?』
「そうならないことを祈りたいけど、災厄が復活した以上、——聖地もシナイ山も、無事では済まない——でしょうね」
聖女と呼ばれた少女は眼下の聖地に眼を向ける。
人も建物も豆粒よりも小さいものとしか認識出来ない高所からでも、はっきりと視認出来るのは、幾条にも上る火災の煙。
ここからでは被害の全容も知れないが、聖地が壊滅的な打撃を受けているのは想像に難くなかった。
『では、どうする』
「こうなっては打つ手無し……よ。悔しいけど。隙を伺ってなんとか逃げ出して、態勢を整えるくらいしか」
『けどよお、エステル。逃げるったってどこに行くつもりだ? 帝国で奴らの探知から身を隠すことなんて至難の技すぎるだろ?』
「あてならあるわよ。——東。あいつらが張ったエーテル境界線の向こう側なら、しばらくの間は身を隠せるはず」
『……東。龍脈の地へと向かうつもりか。だが、あそこは』
含みを持たせるように聖獣は嘴をつぐんだ。
エレニウム帝国領、東の果てに位置する聖地よりも遙か東。
荒涼たる砂漠を越えて、密林に覆われた大陸中部を突っ切り、世界の頂たるアルトゥス連峰の険しい峰々を通過したその先。
大陸の最東端に位置する広大な土地を、
西の帝国とはそこに住まう人々も、生活様式も、思想も、何もかもが違うまさに未開の土地。
しかし、少女は臆することなく真っ直ぐと日が登る方角から目を逸らさなかった。
「精霊の加護が及ばない、龍脈の地——か。また、行くことになるなんてな」
「しょうがないでしょ。木の葉を隠すなら森の中、なんて古語に習うつもりは無いけど。今のあたし達が身を隠す場所なんてあそこしか思いつかないわよ」
藁にもすがる思いで東へと旅立ったあの頃を思い出て、気丈な少女は僅かに俯いた。
結果的に目的は果たせたものの、その道中は正に苦難の連続。
言葉も通じず、土地勘も無い中でのただひたすらに東を目指す聖女とその
しかし、当事者からしてみれば脚色されて、全てが上手く行った
人々が求めることは常に結果であり、過程にはなんの価値も無いから。それを聖女である少女は本質的に理解していた。
「とにかくぐずぐずしてられない。フレイメルが突入してから十分は経った。狼煙が上がらないことから察するに、救援が必要な状況と判断するわ」
「……子孫、共々世話が焼ける男だぜ。だが、俺ですら災厄には太刀打ちなんて出来やしねぇ。逃げ場を失えば即、終わりの撤退戦。その覚悟はあるんだな?」
「——上等。これ以上、あいつらの好き勝手にはさせない。意地でも生き延びるわよ」
『では、我は天の
一人と一柱、そして一羽と呼ぶには大きな大きな鷲は互いに頷きあうと、散開した。聖地崩壊を防ぐことはもう不可能。それでも、まだ全てを諦めきれるほど彼、彼女達は諦めが悪かった。
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