五十一話 危急存亡
「がはっ……ゲホッ…ゲホッ、なに……しやがった」
聖杯の浄化に集中していたとはいえ、後方の警戒を怠ってはいない。にも関わらず襲撃者は不可避の凶手を放った。音もなく。気配も無く。息遣いすら感じさせず。
連換術師は朦朧としながらも自身を危地に追いやった襲撃者の正体を確かめようとして、見覚えのあるその顔に驚愕した。
「お前……あの時の」
「久しぶりさねぇ、連換術師? 感動の再会……としゃれこみたいところだが、随分と顔色が悪そうさね?」
くくっと忍び笑いを零す襲撃者は、己の手から滴る血液をうっとりと眺めた。
ピチャリピチャリと岩盤に赤黒い点が染みを作る。赤い滴が落ちる様はまるで砂時計が時を刻んでいる様を想起させた。
「おやおやおやおや。随分と顔色が悪そうさね? 血は足りてるのさね?」
「お前が……腹に……風穴開けたばかりだろう……が。づっ——!?」
あからさまな挑発につい大声が出かかって腹圧がかかる。失血が更に進んで一瞬、意識が飛びかけた。
考えうる限りで状況は最悪。
しかし、目の前の
痛みを堪えて歯を食いしばり、拳を力なく握った。
『元素術師殿!? 無謀です!! お逃げを!!』
「逃げ……られるわけ無いだろ……。ここでこいつを野放しにしたら、本気で聖地は終わるぞ」
「ククッ。よくわかってるじゃあないか。 流石はマグノリアの崩壊を救った英雄。裏を返せばお前だけが今回の計画の不確定要素だったわけだが、枢機卿の目論見は見事に出し抜けたわけさねぇ」
体の線、それも殆ど肉付きの無い貧相な肉体の影が浮かび上がる漆黒のトレンチコートを纏った男もとい道化は、弱った得物を値踏みするように舌舐めずりを一つ。
手負いの連換術師など恐るるに足らずと、明らかな余裕を見せつけられる。
対峙するこちらは言われるまでもなく満身創痍。
気力だけでなんとか立つことを維持している状態だ。全力で打ち合うどころか、これ以上の体への負荷は即ち死に直結する。
傷が熱を持ち始めたのか、体温が徐々に上昇していることを肌で感じ取る。
早鐘を打つ心臓を、荒波のように激しい呼吸をなんとか落ち着けて、眼前の敵だけに意識を集中した。
「——死に体の分際で無様に足掻くつもりさね?」
「こんな……ところで……くたばる……つもりは……ない。不意打ち決めて……満足か? さっさとかかってきやがれ!」
「ハッ! ならお望み通り死をくれてやるさねぇ!!?」
瀕死の得物を確実に仕留めるべく道化は青白い腕を振りかぶる。清浄に保たれていた洞窟内のエーテルが異変を知らせるように鳴動していた。
死者の肉体にしか宿らない腐敗エーテル。それを己の手足の如く自在に行使する道化の悍ましい力は熟知している。
僅かな合間に触媒にため込んでいた浄化の風を解放。
エーテル汚染を防ぐ簡易的なシェルターを周囲に展開した直後に、道化の手刀が眼前に迫った。
「——遅い」
衝撃に備えて両腕を交差するもあっけなくふっとばされる。失血で脚を動かすのもやっとの体に、容赦ない一撃が鳩尾にたたき込まれた。
鮮血が舞い、後方に派手に吹き飛ばされる。
岩の地面を二度三度、水の表面を跳ねる石のように水平に。勢いは止まず、鎖で仕切られた先、聖杯が置かれた台座に叩きつけられた。
「がっ……」
「お前の得物は武器では無くお前の肉体。磨き抜かれた体術と連換術の合わせ技の脅威も前回は測りかねた。ゆえに、真っ先に封じさせてもらった。——不自由を強いられる気分はどうさね」
「はっ……。だからこその不意打ちか。そこまで警戒されてたなんて、光栄……だな……」
血塗れの拳を支えにボロボロの体に鞭を打ち、息も絶え絶えに立ち上がる。
視界は赤に染まっていて、拳をついた地面もそこだけ紅をさしたかのように色づいていた。
後方に一瞬だけ視線を移す。
衝撃で倒れたかと思いきや、聖杯は思いのほか堅く固定されていた。どうやら最悪の事態だけは避けられようだ。
この場を戦いの舞台にすることだけは、なんとしても避けたい思考がより焦燥感を募らせる。
「おやおや、まだやる気さね?」
「あ……当たり前だろうが。こんなところで……くたばってられねぇんだよ! 痛っ……」
「腹に穴空いてるの忘れたかさね? そんなに大声を出しては更に血が流れるだけさね」
「……ジュデール。てめぇ……」
血塗れの手を振り払い道化は嗤う。
退路を塞ぐように距離を詰めながら「ところで」と呼びかけてきた。
「う し ろ。誰が転がってるか見えるさね?」
「あ? 後ろ? ——まさか」
瞼の血を袖で拭い後方に目を向ける。
そこには考え得る限りで最も安全な護衛に守られていたはずのアルクスが、気を失い倒れていた。
「……アルクスに何をした」
「別に。命まで取ってはいないから安心したまえ。聖地崩壊の総仕上げ、その人柱になってはもらうがね」
「は? ……人柱……だと?」
「そうさね。聖杯を守っているということは、それに何が封じられているかも知っているのだろう? 我らの狙いもまた聖杯——だからさね」
「なん……だと。まさか——」
ぞくりと悪寒が背を走り、台座に固定された聖杯を横目で見やる。
七つの大罪の内のどれかが封じられた古の呪物。
そしてジュデールの背後に控えるアルケーは、強欲の大罪を盟主と仰ぎ、目的も不明で得体もしれない不気味な結社だ。
もし結社の狙いが全ての大罪の復活だとしたら、どれだけ恐ろしい事態になるのか想像もつかない。
「なら……尚更……聖杯を渡すわけにはいかねぇな……」
「いーや? 別に持ち帰る必要はないさね? 言っただろう? 人柱——と」
「あ? だから人柱ってなん……うっ!?」
「お前、本当は只の馬鹿なのかさね? まあそのまま出血多量でくたばるがいいさね」
なけなしの気力で立っていた膝ががくりと崩れる。
もはや抵抗する余力もなく……どさりとうつ伏せに倒れ込んだ。
「ふざ……けんな、動け……よ」
「大人しくそこで寝てるがいいさね。さて」
ジュデールは悠々と這いつくばるグラナを跨ぐと、聖杯に血塗れの手で触れた。
聖杯から漏れ出していた黒い霧の筋が一層濃くなって、杯に湛えられた闇が鳴動を始めた。
「——さあ、目覚めの時間さね。
ジュデールが蠢く闇に向かって恭しく
道化の声に応えるように聖杯から溢れた霧が形を成した。
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