四十五話 向き合うべきは己の影
次々と連換される風の輪に呆然としながらも、なんとか聖獣の羽を御そうとするが全く言うことを聞いてくれない。それにさっきから妙に空気が清々しい気がする。
山頂近くにいるのだから当たり前といえば当たり前なんだが、どうも上手く説明できないというか。
周囲に点在するエーテルの質が明らかに違うのかもしれない。
例えていうなら川の水を蒸留して飲み水にするように、不純物を取り除いた澄んだエーテル……とでも云えばいいのか。
連換術を形成する工程を淀みなく行える。これまで感じたことのない研ぎ澄まされた感覚に、何か得体の知れない胸騒ぎを覚える。
問題はそれが俺の意思を無視して行われていることだ。
連換術は決して術者に負担の無い異能の行使では無い。人の身体を循環する生命エーテルは年月を経ることに、呼吸によって大気から取り込む量がだんだん減っていく。
年を重ね老いる毎に人体がエーテルを受け付けなくなり、命の灯火がやがては消える。これが、いわば死の仕組みだ。
しかしこと連換術師について言及するなら、その寿命は常人より遙かに短いのが通説だ。なぜなら連換術を行使する際に、自身の体内を流れる生命エーテルを消費し続けているから。
本来なら緩やかにエーテルへの耐性を臓器が失ってゆくのだが、連換術師はその速度が常人より速い。
故に連換術はこのようにも言い換えられる。
自らの命を削る代償行為であると——
つまりこのまま聖獣の羽を御すことが出来ず、連換術を行使し続ければ死は避けられない——
連換玉ならともかく、羽に使役者として認めさせることなんて出来るのか……?
生物の一部位を連換玉のように扱うことなんて本当に出来るのだろうか?
いや、出来る、出来ないの話じゃ済まない。
過剰な程の生命エーテルの消費で徐々にだが呼吸が荒くなりつつあるのを肌で感じる。只でさえ標高の高い山頂にいるのだから、このままでは本気で酸欠しかねない。
しかし、どうしたらいい?
どうすれば聖獣の羽に言うことを聞かせられる?
焦りだけが先走る一方で、解決策なんて思い浮かばない。
こんなところで足止め食らってる場合じゃないのに。聖地の混乱をなんとかする為に聖獣達から協力を取り付けないといけないのに。
『本当救いようが無い馬鹿だな、俺?』
「あ!? 誰だ!? 人が必死な時に喧嘩売ってくる馬鹿は!?」
焦燥感が募ってつい大声が出てしまった。冷静に考えたら俺以外に誰もいないはずなのに。だとしたら誰の声だ?
『俺だっての俺。ったく自分のことで精一杯すぎて周囲の状況も把握してないのかよ。マジの馬鹿だな俺?』
「え——」
両手が塞がっている今、動かせるのは視線だけ。目に映る光景に思わず嘘だろ……と、叫びたくなった。
「俺が……もう一人……いる??」
『今更、気づいたのかよ。お前の目、どこについてんだ?』
俺と全くうり二つの何者かが唇を歪めて嗤った。
目の前にいるのは確かに俺。だが、俺であって俺でないそいつの表情や雰囲気、仕草はとても同一人物とは思えないほど、相手を舐め腐ったむかつく態度だった。
「んな馬鹿なことあるワケないだろ……。何が起きたっておかしくないシナイ山が見せる幻か何か……か?」
『幻……幻ねぇ。そうやっていつも現実逃避するのが得意だよな。お前は』
こっちの言うことにいちいち噛みついてくるのは、挑発のつもりだろうか。ただでさえ余裕が無い時に、神経を逆撫でさせて冷静さを奪う魂胆なのかもしれない。
言い返す余裕もない中でダンマリを貫いていると、そいつは痺れを切らしたように再び口を開いた。
『ハッ! 馬鹿な振りしていつもそうやって相手の出方を伺ってるよな、俺? 処世術かなんかか? それとも静観していれば飽きて相手がしらけるのでも狙ってんのか? 村で虐められてた時となーんにも変わってねぇ! お前如きが英雄……だぁ? 連換術の師匠だぁ? 笑わせんな。成り行きで助けた教会の小娘に骨抜きにされただけだろうが』
「——あ゛!?」
羽に集中していた意識を好き勝手にほざくそいつに初めて向ける。何を言われても動じないつもりだったが、それだけは我慢ならなかった。
『ハッ、図星じゃねぇか! 今更逆ギレかよ? だっせぇ』
「……てめぇ。人を煽るなら煽られる覚悟はあるんだろうな」
連換術を発動し続けたまま、目の前の軽薄野郎に見せつけるように身構える。
ことここに至って自分のそっくりさんだろうが、躊躇は無くなった。
完膚なきまでに叩きのめす——。
気迫が伝わったのだろう。そいつはにやりと嗤うと左腕を横に突き出した。
『馬鹿が。風の精霊からも見放されたお前ごときが俺とやり合おうってのかよ?』
「やかましい! あのガキ精霊が勝手にへそ曲げて消えただけだろうが! どこの悪趣味な変装野郎か知らねぇが、俺に喧嘩売ったこと後悔させてやる!」
『いつまでそんな威勢のいいこと言ってられるか見ものだなぁ? ——こいつを拝んでもまだハッタリ噛ませられるかよ?』
「ごちゃごちゃうるせぇ! いいからさっさとかかって……。おい、それは」
勢いのまま飛び掛かろうとして寸前で踏みとどまる。奴が突き出した左腕に、緑色の風が纏わりつく様に虚を突かれる。
やがて風が収束し見慣れた形状に変化した。それも、ついさっきまで俺が身につけていた翡翠の籠手に。
「ど……どういうことだ……それはガキ精霊が俺に貸してくれてた……」
『——翠風の籠手。四大精霊が一柱、風の精霊の加護を授かったものだけが使える精霊装具だ。まっ、風の精霊の加護を失ったお前には最早無用の長物だけどな。お前にはその古ぼけた羽がお似合いだよ。くくく』
堪えきれなくなったのか嘲笑が大きな笑い声に変わった。同じ声帯で普段は出そうとも思わない陰湿な声音に、ぞくりとする。
つまり……アイツは俺と違って万全の状態で連換術を行使出来るというわけか。それもガキ精霊の加護まで何故か受け継いで。
「想定外すぎだろ……。これも大聖別の試練……なのか?」
『くくっ、せいぜい痛ぶってやるよ。——元素収束』
奴が連換術の発動体勢に入る。俺が師匠から教えてもらい、そしてシエラにも伝えた連換術を発動するイメージを声に出すあの掛け声まで模倣して。
『——元素解放。吹き荒れろ、風の牙!』
「なっ……??」
鎌鼬に切り裂かれたが如く頬に鈍い痛みが走る。つーと流れ地面にぽたりと落下したのは紛れもなく俺の血。
「こいつ……風の刃を連換しただと……」
『お前のような三流術士じゃ一生掛けても体得出来ないエーテルイメージの錬成さ。ああ、お前は体術を強化するのに特化していたっけか? ハッ! せっかく人智を超えた力を使えるってのに、随分と見劣りするなぁ?』
高笑いしながら風の刃を連換し続けるそいつは高見の見物を決め込みながら、尚も嘲笑を止めない。連換術の発動をし続けている今の状態は、体力の消耗が激しい。風が飛んでくる感覚だけを頼りに、刃を躱すのは不可能。
「ぐっ……」
続けざまに右腕と左脚を真空の刃が擦る。浅く裂かれた皮膚から出血が染み出てズボンに赤い染みが出来た。
「畜生……このままじゃ嬲り殺しだ」
なんとか距離を取って再び聖獣の羽に意識を集中する。奴が連換術を発動し続けているせいか、エーテルと風の元素を取り込む間隔が少し長くなっていた。
羽に使役者として認めさせるには、今しかない……!
連換玉に所持者として認めさせる工程をなぞるように、自らの生命エーテルを細く伸ばし羽と接続した。
「こ、こいつは……」
初めて連換玉と接続した時のことを思い出す。あの時もぞわりとした嫌な悪寒が全身を駆け巡り、吐き気を催した。
だが、羽と接続した今の感覚はあの時の比じゃない。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ」
頭が……割れそうだ。
吐き気どころか気絶しかねない激痛で四肢から力が抜けて……いく。
『馬鹿が。連換玉ならともかく、生物の体組織と己の身体を同期なんて出来るわけないだろ。自分の身体に異物を取り込むようなもんだ。拒絶反応が激しいのは当たり前だろうが? こんな初歩的なこともわからんとは。度しがたい馬鹿だなぁ? 俺?』
「……」
奴の耳に触る嘲りに反応する余裕もない中で、耐え難い痛みに意識が……途切れかける。
無理矢理接続した俺の生命エーテルと聖獣のエーテルが激しく反発しあっている。その結果、反動が直接身体に返ってきているようだ。
このままエーテル同士でせめぎ合いを続けてたところで、果たして聖獣の羽に認めてもらうことなんて、出来るかどうかもわからない。
奴の云うとおり、俺自身は別に特別でもなんでもない。
今連換術師としてなんとかやっていけてるのも必死に努力して足掻いた結果だ。
それに、どんなに俺一人が奔走しようが、今まで事態が好転したことなんて、果たしてあっただろうか。
いや……ない。
いつも、いつも誰かに助けられてばかりだ。
肝心な局面でいつも誰かの後押しを受けて、それでなんとかしてきた。聖地に到着してからもそれは変わらず、カインやアルクス、認めたくないけどフレイメルにも色々と世話してもらった。
だから心のどこかでピンチの時は誰かが助けてくれる——。なんて甘えがいつのまにか常になっていた。
けれど、そんな都合の良いことが毎回起きるはずも無いのは、聖地に来て嫌になるほど痛感した。
今だってそうだ。あろうことか聖地が襲撃を受けてる真っ只中なのに、俺の偽物に足止めされて身動きが取れない。
何が足りない? 現状を打破するきっかけはどこにある?
……駄目だ。何も思いつかない——
『安心しな。お前がくたばっても俺が大聖別の試練をちゃんと最後まで見届けてやるよ。だから出来損ないのお前はここで終わりだ』
「好き勝手……ほざきやがって……。そもそもお前はなんなんだよ!?」
『お前の弱いところ全部捨て去ったのが俺だ。俺には他人とのしがらみなんてものはない。ごちゃごちゃ悩むこともない。己の無力に嘆くこともない。お前自身の別側面——。そう定義された只の影さ』
「別……側面? だと?」
攻撃の手を緩めた俺……改め影はくくっと嗤う。
そもそも別側面とはなんのことだろうか。皇都でシエラが洗脳された時は、別の人格が指輪を通じて精神を乗っ取っていたことはあったが、俺自身に身体をいじくられたことなんてない。
……いや、待て。
確かリャンさんとの修行を終えて協会本部に向かう際に、アルケーの連中と鉢合わせして、そこから先の記憶は途切れている。
確かあの場には小人のような老人、セレスト博士もいたはずだ。
帝国の英知そのものとして世に知られる天才科学者が、秘密結社と手を組んでいたのは衝撃だったが、いや今はそんなことはどうでもいい。
「お前、俺の生態情報か何を基に作られた人間の複製か何かか?」
『——』
鎌掛けるつもり放ったその一言に奴の嘲笑が止まる。
そして、怒りとも焦りともどちらにも取れる殺気立つ形相でこちらを睨んできた。
『——何故、そう思う?』
「皇都でアルケーに身柄を拘束されたことがあるからな。その時に何かされていたのは十分あり得る話だろ。それにあと時、所持していた可動式籠手も連換玉も無くした。加えてとある情報筋から聖地近隣の集落で、大量に人が失踪していると情報を得ている。これだけの情報が揃えば、自ずと導かれる答えは限られる。——差し詰め胸くそ悪い人体実験の材料にされたのだろう……とな」
正直、あり得ないことだと思いたい。
けれど、これだけ状況証拠が揃っていれば、そうとしか考えられない。
改めて、俺は影と名乗るそいつを直視する。
上背は同じくらい。服装も同じ。しかし明確に違う点が一つあった。
はだけた左の胸元に仄かに緑の光点が明滅している。
それも俺が所持していた連換玉の色とよく似た色合いで。
『……よーく出来た推論だ。穴も無い。だが、俺がわざわざその馬鹿げた妄想を認めると思ってたら大間違いだ』
「なら、どうするつもりだよ?」
『知れたこと。この場でお前を消し去るだけだ』
血走った殺意をまき散らしながら影は再び連換術の発動準備に入る。
それも、さっきまでとは比にならない大規模な風を連換するつもりなのか、周囲の元素、エーテル残量がごっそりと減っていくのを如実に感じる。
『連換術も満足に使えないお前如きに、こいつは防げねぇ。強がるのもここまでだ!』
怒号ともに連換されたのは吹き荒れる風の刃の暴風。
岩肌を抉り木っ端微塵にする程の威力のそれが、眼前に迫る。
だが、俺は敢えてその場に踏みとどまり、右手を突き出した。
『ハッ! 降参のつもりかよ!?』
「そうじゃない。連換術の基本ってやつをおさらいするだけだ」
気負うことなく、焦ることなく、ただ目の前の暴風に意識を向ける。
複雑に編まれた風の元素とエーテルが混じり合い形成された暴風の中心。そこから外に伸びる一本の糸を掴み取った。
「連換術式解析完了。——元素分離」
『なっ……なんだよ? それ——』
驚愕で大口を開ける影の目の前で暴風は跡形もなく消失し、風が凪いだ。
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