三十八話 雲海から覗く景色

「ここが————」

「シナイ山の八合目だよ。山頂まではあと少しのところまで登ってきたかな」


 長い長い坂を登り切った先は、高山とは思えないほど植生豊かな平原だった。

 雲海が覆う外輪に囲われるように、茂る青草の上を歩けば空の彼方までも続いているような錯覚さえする。


 もちろん足を踏み外せば落下は免れないのだが、それだけ浮世離れした光景に見えなくもない。来た道を振り返れば、霧のように漂う雲に覆われて霊山の中に戻る洞窟の入り口も分からなくなっていた。

 心無しか空気も薄い。それでいて、普段以上に体を動かすのに負担が掛からないのは、不思議としか言いようがない。


「カインはここまで登ってきたことは?」

「もちろんこれが初めてだけど、なんでそんなこと聞くの?」

「さっきの口ぶりからして初めてじゃないような感じだったからかな。もしくは誰かから事前に聞いていたのかと」

「ああ……そういうことね。まあグラナになら別に隠すことでも無いか」


 俺の疑問に少しだけ眉根を寄せて考えこんでいたカインは、何かを思い出すように遠くに目を向けた。


「その昔、クロイツ教皇猊下から直に聞かされたことがあるだけだよ。大聖別の試練の内容とシナイ山を登頂したときの話をね」

「教皇様……から?」

「そう。色々あって、最愛の一人娘が遠方の山村に移り住んでから教皇猊下は、娘と同い年くらいの子達と触れ合う機会が増えてね。僕やカインも沢山可愛がってもらえたものさ」


 教皇猊下の娘、間違いなくシエラのことだろう。夏の頃、皇都のビスガンド邸でアレンさんから聞かされたシエラの悲しすぎる過去とも合致する。

 クロイツ教皇猊下も苦渋の決断だったはず。愛したアリアさんに先立たれて、愛娘と離れて暮らすことは寂しかったのかもしれない。

「じゃあ、シナイ山と大聖別の試練についてもクロイツ教皇猊下から事前に?」

「あの当時はよく理解出来ていなかったけど、次の教皇候補であるという自覚が芽生えてから、そういうことだったのかと考えるようにはなったね。山頂付近は、空の何処かに現れる浮島のような景色だったと、教皇猊下は仰ってた。実際の光景を見ればそれも納得出来るよ。本当にこの世のものとは思えないくらい幻想的だよね」


 そう言いながら両腕をめいっぱい上に伸ばして、カインはぐーっと体の筋を伸ばした。

 俺も倣って同じように筋を伸ばし、深呼吸。

 霊洞を上へ上へと登り続けてきた疲れも、こうしていると忘れそうになるほど綺麗な眺めに、地上のあれやこれやが些末なことと思えてくるのだから不思議だ。

 

 山海というのは人を開放的にするのだろうか? ふとそんなことがぼんやりと頭に浮かんでは消えていった。


「さて、そろそろ行こうか。ここまで来れば山頂までは後少しのはずだよ」

「了解。今の所、聖獣らしき気配も感じないのが解せないけどな。なあ、カイン。シナイ山を登る前に聞かされた試練の内容と、随分違うけど本当にこれでいいのか?」

「聖獣達に意思が通じないどころか、襲いかかってきたことだよね……。気になるけど、余り霊山に長居をするのもよくないと教えて貰ってるんだ。だから、諸々の疑問はひとまず置いて先に進むことだけ考えよう」


 山に長居するのはよくない? 意味深なことを呟いたカインの後に慌てて続く。

 クロイツ教皇猊下から試練の内容を聞かされているからか、カインの歩みは淀みなかった。

 草で覆われつつある山道を最初から知っていたかの如く、外れずにゆっくりとだが着実に山頂までの距離を縮めて行く。


 今のところ聖獣が牙を向いて襲いかかってくる以外は順調に試練は進んでいる……と思う。

 心掛かりなのは霊洞を抜ける間際に感じたとてつもない嫌な予感だけ。

 それも根拠は無いし、連換術を封じられているこの状況に精神的な支柱を俺が失いつつあるだけかもしれない。


 相変わらず、あのガキ精霊の気配は微塵も察知出来ない。

 気のせいだと思いたいが、普段以上にエーテルの流れをぼんやりとしか感じられないのも不安が募る。


 が、ここで弱音を吐いてる暇は無し。

 今はとにかく試練を無事に終わらせることだけ考えなければ————。


「わ! 見て見てグラナ! すごーい景色! 絶景! 絶景〜」

「オイ、コラ。人がせっかく気合い入れ直したところに、やる気削げるような脳天気な反応は……。は?」


 はしゃぐカインのその向こう。

 青天に浮かぶのは鯨のように途轍もなく大きく空をたゆたういくつもの雲の海。

 澄んだ空の空気は恐ろしい程視界も良好で、眼下を見下ろせば地上の聖地が小さな模型のようだ。

 目をよーく凝らせばいつもと変わらぬ聖地の営みかと思えば、生誕祭のパレードのように人々が群れを成して一箇所に向かって行進しているようにも見える。

 豆粒ほどの小さな人だかりが、聖地の入り口を目指している……それも何かの塊に追い立てられるように。


「……何か変じゃない? 聖地の様子」

「……同意だ。何かのお祭りにしちゃあおかしすぎる。それに、冬の小川の方から煙りが昇ってないか?」


 ここからでも山から流れ落ちる瀑布は視認出来る。

 あの近辺に宿場が固まっていた地区があったはず。空にもくもくと上がる煙は明らかに煙突から上るそれでは無い。


 なぜなら、その光景は俺の脳裏に焼きついたあの日の記憶とそっくりで————。


「聖地が……燃えてる……? そんな、そんなことって……あ」

「な!? カイン!?」


 身を乗り出し過ぎて崖から落下しかけたカインの左腕を慌てて掴む。

 間一髪、間に合ったが宙づりになったこいつを一刻も早く引き揚げないと。

 俺の握力とカインの握力が尽きる前に。


「うわわわ!? ど、どうすればいいのこれ!?」

「落ち着け! とにかくじっとしてろ! 直ぐに引き上げるから!」


 じたばたと両足をばたつかせるカインに俺は腹から大声を出した。

 断崖の下から激しい上昇気流が渦を巻きながら空に向かって吹いている。

 連換術さえ使えれば、気流を操作して引き上げることは容易だけど、今の俺は術を使えない。

 連換玉を持たない術師の無力さを噛みしめている余裕は無い。

 みしみしと右肩と右腕が嫌な音を立てる。

 咄嗟に利き腕では無い右腕を伸ばしたのが、運の尽き。

 毎日の鍛錬で確かに筋力は付いてるはずだが、断崖から宙づりになった人間の体重を腕一本で支えるように人体は出来ていない。

 このまま手をこまねいていれば、二人揃って空の底に飲まれるのは必然。

 歯を食いしばって、あらん限りの握力で一気に引き上げようとした時————。


「え————」


 崖の先端に押しつけられていた腹部の圧迫を急に感じなくなった。

 視点がさっきよりも下に傾いている。

 ————落ちていると、気づいた時には手遅れだった。


「こん……ちくしょうぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」


 一瞬の浮遊感の後、重力に逆らわず俺とカインは地上に向かって真っ逆さまに落ちる。

 雲海が直ぐそこに見えるほどの高さからだ、

 急激な気圧の変化に両耳に激痛が走り、思わずカインの手を離しかけた。


 激しく荒れ狂う風が冷たい鋭利な刃となって、身を刻む。

 凍えて離さないように握りしめた右手もこわばるほど。

 落ちる、落ちる、どこまでも、落ちてゆく————。


 地面に落下して潰れるのが先か。

 それとも岩肌に叩きつけられてくたばるのが先か。


 どちらにしろ、ろくな死に様じゃないだろう。

 

「グラナ……、もういいよ。手を離して」

「何馬鹿言ってんだ!? こんな乱気流の中で手を離したら、どこにすっ飛ばされるか——」

「いいんだ。僕なんかに最初から次の教皇になる資格なんて無かった。これはシナイ山が与えた天罰だよ」

「おま……こんな時に何を言い出し……痛っ!?」

「早く右手を離すんだ! 僕の体を腕一本で支えたことで脱臼しかけてるんだよ!」

「こんな身動きも取れない空中で、手を離したくらいで助かるもんかよ!? 諦めんな!! 連換術が使えなくても何か方法が————」


 気が動転して口走るのは有りもしない助かる手段。

 そんなもの、もうとっくに無いというのに。


「……ここまで強情とはね。しょうがない、僕の死出の旅のお供に任命してあげるよ。グラナと一緒に天に召されるなら悪い気はしないし」

「縁起でも無いこと言うな!? くそっ……もうどうにもならないのか」


 短い空の旅の終着点がすぐ真下に見えてきた。

 槍のように鋭い天嶮の岩肌。鳥よりも早い速度で落下しているんだ。

 あれに叩きつけられたら、五体満足でいることなんてとてもじゃないが不可能だ。

 だから俺は、カインを抱き寄せて自らは背を下にした。


「な……なにしてるのさ!?」

「賭けだよ。これで二人とも死ぬのか、それか一人は助かるのか。もうこんなことしか出来ないけど、それでもお前にだけは死んでもらっちゃ困るんだ」

「————馬鹿だな、グラナは。なんで僕なんかの為に?」

「さあ? なんでかな……」


 なんでだろう。なんでかは知らないけど、カインだけは助けないとと、どうしてか駆り立てられた。それは、自らの死期を悟った今も変わらない。

 

 あの子が無事に元に戻れた時に、守れるのは彼しかいないと、後を託せるのはカインだけだと薄々気づいていたから————。なのかもだ。


 カインの体重が加重になったせいか落下速度が更に上がる。

 身を切る旋風からはもう何も感じない。

 元素の気配も、エーテルの流れも、まるで元から何も感じなかったのように。


「わりいな。皆、俺はここまで……だ」


 ここにはいない、大切な繋がりを得た人々の顔が浮かんでは消える。

 

 荒野の宿で知り合ったおどおどとしたノルカ。

 気難しい顔を浮かべたフレイメルと心配そうな表情のアルクス。

 

 俺のことを認めてくれたアレンさんに、柔和な笑みを浮かべるフューリーさん。

 皇都に残った親衛隊姿のクラネスに、凜々しい面立ちのセシル皇太女殿下。


 マグノリアの雑貨屋で頬杖突きながら店番をするルーゼと、紅茶を嗜むソシエの穏やかな午後の一時。


 今は清栄にいる大師匠と翠さん、その背中合わせに立つエリル師匠。

 ——そして、片時も忘れたことの無い愛弟子の人懐っこい笑顔。


 未練が無いと言えば嘘になるが、それでも精一杯生き抜いたはず……だ。

 だから。


「……俺の命でもなんでも持っていきやがれ。その代わり、応えろ!! 精霊!! シナイ山に棲まう聖獣!! 次の教皇になるカインの命だけは、助けてやってくれ!!」


 風圧をいつの間にか感じなくなった。

 岩肌がもうすぐそこまで迫っているのだろう。

 いよいよ、今生の別れを告げる時が……きた。


 覚悟を決めて瞳を閉じた時———。

 風の声が聞こえた。


『————よかろう。その願い、聞き届けよう』

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