三十五話 まどろみから目覚めた世界

「はっ……」


 激しい轟音と揺さぶられる感覚にアルはまどろみを解かれる。

 起きてすぐに吊り下げられた腕と足に目が行って、ピリッとした痛みが全身を駆け巡った。

 どうやら鎮痛剤が切れたらしい。

 直前まで覚えている悪夢はあの日、アルケーの工作員と思しき二人組を追いかけて聖地の地下に潜入した時の記憶。

 不気味過ぎる怪人物から命からがら従者と二人して逃げ出したが、腕と足はこの通り使い物にされなくされた。

 少なく見積もってもまともに動くようになるまで半年は掛かる大怪我で、聖地に立ち寄った当初の目的は予定を変更せざるを得なくなった。


 聖地に連換術協会を招致するというプルゥエル家の思惑だけが読めない。

 犬猿の仲である教会のお膝元に、なぜわざわざその象徴たる協会支部の建設をしたいなどと申し出て来たのか理由が未だ不明だった。


「それはともかく、なんだい? この不気味な地鳴りと絶え間なく降り注ぐ落雷のような音は?」


 療養中の宿の一室の窓は締め切られていて、外の様子を伺い知ることは出来ない。

 しかし、それでも骨の髄にまで届く金属音と巨大な獣が暴れているような地響きだけは、ベッドの上でも如実に感じられた。

 明らかに異様な事が起こっている。

 これは誰かさんの厄介事体質を茶化せないなと、自嘲している最中、バンとドアが乱暴に開かれて明らかに慌てた様子のジャイルが飛び込んできた。


「若! ……良かった。お目覚めでしたか」

「おはよう、ジャイル君。何が起きてるんだい?」

「——敵襲です。聖地内で異様な空気を纏う人形の大群により民間人に犠牲者が出ています。……あの口にするのも悍ましい、ガラス菅の中に入れられていた人の成れ果てによって」

「そうか。つくづく用意周到だね。アルケーの連中は」


 アルは己の見通しの甘さに、唇を噛み切った。

 あの場の出来事の他言無用を従者に命じたのは自分の判断だ。実験施設の規模から考察して、相当前からアルケーが聖地でことを企んでいたのは間違いない。

 だからこそ、次期教皇を決めるという大切な儀の妨げにならないよう、調査を秘密裏に行うつもりだった。

 今や精霊教会は存亡の瀬戸際にあると、アルは考えていた。

 一部の信徒からは疎まれようとも、クロイツ教皇猊下ほど教会の行く末を案じている者はいないと断言できる。堕落しきった己の利益しか考えていない枢機卿達が連なる「失楽園」から距離を取り、教会の在り方を清く正しい存在に立ち直らせようと尽力していたことを知っているのは、どれだけの人がいるだろうか。

 だからこそ、アルは疑いながらもレイ枢機卿からの護衛要請を受け入れたのだ。

 教会を裏で牛耳る「失楽園」に属する枢機卿達の中にも、次期教皇を巡って亀裂が走り始めていた。保守派と革新派の対立に加えて、皇都でも見かけた草の根のようにじわりと侵食を開始したイデア派の台頭など、もはや一つに纏まることは不可能だとレイ枢機卿は胸の内を零していた。

 これまで信仰という名の鎖で人心を一つに纏め上げていた巨大宗教が瓦解した後、引き起こされるのは新たな信仰の芽生えか。……それとも、本来の教義を失った哀れな人間達に精霊達が下す裁定は人心の崩壊か。

 最悪の想定で後者が起こった場合。間違いなく皇帝不在で混迷を極めている帝国に対してもその衝撃は、濁流で決壊する岸壁の如く押し寄せることだろう。

 ————それだけは絶対に防がなければならない。

 それが彼を護衛役として聖地に派遣することにしたアルの真意だった。


 それがまさかこんなことになろうなんて、運命の皮肉を呪った。


「とにかくここは危険です。今すぐ聖地を離れましょう。こんなこともあろうかと、いつでも脱出できるよう手筈だけは準備しておきましたので」

「流石、抜け目の無いジャイル君だ。……そうだね。皇都の異変に匹敵する非常事態だが、あの時と違ってこの状況をひっくり返すのは、例え教会から全面的な約束を取り付けても困難を極めるだろう。やれやれプルゥエルのおばば様の思惑がやっと理解できたよ。あのご老体、ここまでの事態を見越していたとするなら、舌を巻くね」


 従者の用意した車椅子に乗せられて、アルは嘆息した。

 皇都の異変の時は、少なくとも首都を守ろうという多くの人々の意思の結束があった。

 マグノリアの危機を救った連換術師と聖女の行いが英雄行為であるとするなら、皇都を救えた要因はそれこそ日頃から危機に備えていた準備の賜物だろう。

 しかし、信徒達の中に、自分たちの信仰の拠り所を守りたいと願う気骨を持つ者達が果たしてどれだけいることだろうか。

 弾圧に抗していた時代なら、話は違ったかもしれないが今の祈りを捧げるだけが信仰だと勘違いしている信徒達にそれが出来るのか? 答えは火の精霊の息吹を見るまでも無いだろう。


「それで気になってたけど、この地響きの正体はなんだい?」

「冬の小川の近くで春雷卿とアルケーの使徒らしき男が戦っている余波としか! 聖十字騎士達も手出しが出来ぬほど、両者の実力は拮抗していると話していたのを盗み聞きました」

「マジかい。あの春雷卿すらも苦戦を強いられるほどの相手とはね……」


 風雲急を告げる事態でもアルの思考は極めて冷静だった。

 それは皇都で巻き込まれたあの時の経験が身に染みて、妙な余裕を持つに至ったか。

 ——それとも。


「……十一年前の紛争。————あそこで地獄を見たから。……かな」

「若?」

「なんでもない。それじゃ、急いで脱出するとしようか。頼んだよ我が友よ」

「は。我が命に代えましても若をお守りいたします」


 逃げ惑う信徒達の合間を縫い、車椅子を押す従者は遥か東に生息するという象のように、確かな足取りで聖地の出口へ急いだ。

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