幕間 内緒のお話
とても綺麗で可愛くて、けれどその翡翠の双眸はどこか寂しさを訴えていて、とにかく不思議な女の子だ————。それが、遥か西の皇都からやってきた今代の聖女様の姿を初めて拝んだノルカの印象だった。
その日は朝から宿も忙しくて、誰か特別なお客様をお迎えすること意外、彼女の祖母からは何も聞かされていなかった。例年なら聖地へ巡礼に向かう信徒達で溢れ返っている宿の中も、文字通りお客は誰もいない。
いつもは宿泊予約の客の名前がびっしり埋まっている台帳が、この日だけは白紙で誰も予約を取っていなかったことを、急かされながらかき込む朝餉の最中に思い出した。
一体……どんな人が泊まりに来るのだろう? と前日からワクワクし過ぎて寝不足気味なのは内緒だ。他の従業員の皆も気を張り詰めてお客様のお出迎え準備をしているのに、欠伸なんてしようものなら祖母から確実に拳骨が落とされる。
眠気を堪えて身嗜みを整え、予め割り当てられた持ち場についた。聞き耳を立てていると、他の従業員達のひそひそ話から今日お泊まりになられる方達は、精霊教会の中でも権力を持っている枢機卿お墨付きのやんごとなきお方と、その侍従達の一団であるらしいことが分かった。
そういえば、何日か前に宿泊していた信徒達がこんなことを言っていたな、とノルカは思い返す。なんでも、あわや皇都壊滅の危機を皇族の方と一緒に救ったという、今代の聖女様が近く聖地にお戻りになられる————と、興奮気味に話していたことを。
つまり……今日、宿にお客を一人も入れていないのはひょっとして……と、物思いに耽っていると、従業員が飛び込んできてお客様御一行が到着された! と大きな声で叫んだ。
★ ★ ★
道も何も舗装されていない荒野の移動手段は馬である。古来より人の足として重宝されてきたこの動物達を宿の裏手に繋ぐよう言われたノルカは、先程ちらりと覗き見たやんごとなきお方の神聖で神々しいお姿を思い出し、ほう……と吐息を漏らす。
荒野には珍しい純白の見事な毛並みを持つ馬の背から颯爽と降りたのは、ノルカと背丈は幾分かも変わらない華奢な少女。教会の高位の聖職者だけが纏うことを許される絹で織られた白のダルマティカ、その上にポンチョのような形をしているカズラを重ねて、薄い紗の被りもので顔を隠していた。
けれど、薄布越しからでも分かる常人とは違うその堂々たる佇まいに、ノルカはこの上なく圧倒された。
目の前の少女は自分と生きている世界が違い過ぎると一瞬で思い知らされた。まともに直視することすら躊躇われる
大切なお客様の前で失礼を働いた罰として、夕食の準備が出来るまで馬の世話をすることになった。一行を運んできた馬は全部で13頭。岩屋の脇にある馬小屋に一頭ずつ連れて行き、荒野の砂塵で汚れた体を拭いてやり、藁とたっぷりの水を与え終わった頃には、夕日が西に沈みかけていた。
他のお客の予約を断ってまで迎えた大切なお客様の前で、あろうことか失礼を働いた。その事実が酷く憂鬱な気にさせる。今日の夕餉はきっと抜きに違いないとしょんぼりしていると「あのー……」と遠慮がちな声が掛けられた。
誰だろうと顔を上げたノルカの目の前にいたのは、夕日に映える見事な銀髪を風に
「大丈夫ですか? いくら声を掛けても返事がなくて具合が悪いのかと」
「いっ!? いいえ! 大丈夫です! 身体は見ての通り健康そのものですから!」
普段の自分からは考えられない程、朗々と響く大声が夕暮れの荒野の風に押し流されていく。無理も無い。ノルカを興味深げに眺めているのは、あのやんごとなきお方だ。
緊張するなというのが土台無理なことであった。そんな、ガチガチに固まっているノルカの様子をさして気にすることも無く、銀髪の少女はくすりと淡く微笑んだ。
「あ。申し訳ございません……。私、何かおかしなことでも口走ってしまいましたか?」
「あ……いえ、ただ……その一所懸命でひたむきなところ。なんだか、昔の私を思い出してしまいまして」
そう言って、銀髪の少女は何かを思い出すように遠くの空に目を向ける。星辰の瞬きが静かに灯り始めた東の空。郷愁を誘う夕日に想いを馳せるように。
「あのーお客様? 外へは何しに?」
「気分転換です。ずっとお部屋にいたら、なんだか落ち着かなくて。……この動きにくい服装もそうですけど」
少女は大胆にもその場でダルマティカの裾をたくしあげた。まさか人目が無いとはいえ、この場で脱ぐつもりか!? と驚愕したノルカが慌てて手を伸ばす。
「はー。やっぱりこの格好が落ち着くなー」
暑苦しそうな聖職服の下に着込んでいたのは、たまに買い出しで赴く町の女の子達が着ているような動きやすそうなものだった。上等なもののようで、確か帝国各地で幅広く商いをしているレンブラント商会が扱っている服のはず……だ。
少ないお小遣いをコツコツ貯めていつか買いたいと思っていたノルカは、チラリと覗き見したカタログで特に印象に残っているその服に目星をつけていた。
まさか、町から遠く離れた荒野のど真ん中で目にするとは思いもしなかったが。
「えーと……随分と素敵なお召し物ですね」
「ふふ、ありがとうございます。お気に入りの服なんです。師匠から初めて買ってもらったものなので」
嬉しそうにくるりとその場で回転する少女の姿に同性ながら見惚れる。が、一つだけ気になったことがあった。
師匠とは誰のことだろう……と。その言葉は教会に属する少女が口にするにはなんとも異質な響きである。
けれど、会って間もないましてやお客様に尋ねることでも無いだろう、と胸に秘めた。代わりにこの可憐で不思議な空気を纏う少女に、思い切って聞いてみることにした。
「あのー……ところでお客様のお名前は?」
「あ、そういえば自己紹介まだでしたよね。私はシ……」
「シ?」
「えーと……アルクス。アルクスと呼んでください!」
何かを誤魔化すようにそう言い切るアルクスに、これ以上を根掘り葉掘り聞くのは失礼だと思いノルカも名乗り返した。
これが、ノルカと不思議な少女アルクスとの最初の出会いだった。
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