幕間 陰る銀玲
「……つ」
「アルクス……様。ご気分が優れませんか?」
赤地の絨毯が敷き詰められ、次期教皇候補としてあてがわれた小洒落た内装の部屋で、教会の正装である真っ白なダルマティカを身に纏う者は頭痛に顔を歪めていた。
従者が慌てて駆け寄るが、直に治ると手で振り払い退出を命じる。
無理も無い。次期教皇候補として慣れない聖地の慣習の数々を二月ばかり休む間も無く、覚えることに徹してきた。癒えない疲労により、心身が不調をきたし今にも倒れる寸前まで追い詰められていた。
次期教皇たる心構えに始まり、厳格で間違いなど許されない祈りの作法を頭に叩き込み、票を左右する信徒達への根回しも怠らず。頼れる者が誰一人としていないこの聖地で一人孤独な戦いを強いられていた。
「元素……」
本当に具合悪い時、疲労している時以外は使わないこと————。
もう一人の師匠、口数少ない連換術師から教わった連換術による、体内の血流操作を行おうとして……思いとどまった。
今、この部屋に居るのは一人。けれど、この大聖堂内に置いて聖女の子孫という威光も、現教皇の娘である事実も意味は無い。そんなものは、これから行おうとしていることの枷になりかねない。
実の父である、教皇猊下が表舞台に出て来なくなり随分と経つ。不治の病を患って以降、何度見舞いを申し入れても許可は降りず、ただただ容態が悪化していく様を何も出来ずに知らされるばかり。教皇就任式で放たれた凶弾によって母は息を引き取り、父は妻を失った喪失に打ちのめされながらも教皇としての務めを果たし続けていた。
いつからだろうか。父が笑顔を見せなくなったのは。
信徒の前で無理やり微笑む父はやがて「無貌の教皇」と恐れられていった。感情無き教皇の言葉は、人では無い人形が無理やり喜怒哀楽を真似ているようだと、信徒達の目に映らなくなるまでそう時間はかからず。
父が壊れるまでの時間もそう長くはかからなかった。
「……気持ち悪いのは取れたかな」
過労による、軽い貧血状態に陥っていたようだ。水とは人体に置いておよそ70%以上を占める生命活動には欠かせない構成要素。必然、水属性の連換術師は術を行使する際に体内エーテルと大気に含まれるエーテルを介して、体内の水分を術の行使に使用するサイクルが出来上がる。
つまり水の連換術を行使することによって、体内のエーテル
身体の不調を感じ始めたのは、聖地に戻ってきてから一週間が過ぎた頃。
精霊教会の文字通り総本山であるグリグエルに置いて、連換術とは唾棄すべき異端の術である。
古くは遠く東方より齎された元素を自在に扱う術を持つ者達によって、一度は聖地を奪われたこともあり、それが今日に至るまで精霊教会が連換術を異端の術と定め弾圧することになったきっかけであるとは、聖地に戻って来たことによって初めて知った歴史の真実であった。
故に……今は連換術の行使を自ら封じている。知らず知らずの内に体調が崩れていることに気づくことも無く、ふとしたはずみで意識を手放していた。
「失礼するよ、シ……コホン、アルクス。また、君が倒れたと聞いてね」
「————カイン様」
従者と共に部屋に飛び込んで来たのは同じ歳頃の少年?だった。白銀が舞うが如しと煌めく銀糸の長髪と、性別を見誤るような整った容貌。身に纏う
「呼び捨てで構わないよ。そんなことより額から凄い汗をかいてるじゃないか。————急ぎ神殿医を呼べ。このお方に、万が一のことはあっては教皇猊下に申し訳が立たぬ」
年上の従者にてきぱきと的確な指示を飛ばす姿は、生まれ持った高貴な血が成せるものなのだろうか。額に手を当てられ体温を測られて、ぼーっと眺めることしか出来なかった。
「……申し訳、ございません。私が至らぬばかりに」
「何を謝る必要があるのです。同じ次期教皇候補とはいえ、こちらが見習いたくなるほど努力を続けておられる。……根を詰め過ぎたのでしょう。しばらく静養なさるといい。コンクラーヴェ、そして大聖別の試練まではまだ一月ほどの猶予がございますゆえ」
ニコリと邪気の無い笑顔を向けられ、いくらか毒気が抜かれたようだ。
そのまま目を閉じ、すぅすぅと小さな寝息を立て始めた。
「眠ってしまわれたか————。無理も無い、聖地に戻ってこられてからは、何もかもが変わってしまったからな」
カインは銀髪に映える赤珊瑚の瞳を細め胸元で揺れるロザリオをみやる。
聖女に
「……皮肉なものだ。プロフィティスの家の子である僕ではなく、プルゥエルの家に生まれた君に聖女様の血筋が受け継がれていたとは。これも、精霊の思し召し————か」
カインはロザリオをその手に乗せた。象牙とよく似た色で七虹山の七色に光る大岩から切り出されたと伝承が伝える七色石の欠片。春の頃、聖女生誕の地マグノリアで起きたエーテルの災禍の報は聖地にも届いていた。荒れ狂う街全体を飲み込む赤黒いエーテルを鎮めたのは、聖女の子孫たる彼女と無名の連換術師だと聞き、驚愕に打ち震えたことを今でもよく覚えている。
○○○が突如聖地からいなくなり、遠く離れたマグノリアで保護されたと知らせを受けた時は心の底からカインは安堵した。それと同時に、厄介な競争相手が残ったことを、素直に喜べないでいたあさましい己に気づいたのだった。
「マグノリア、皇都、そして聖地……か。まるで、聖女様の東方巡礼を
カインは寝息を立て続ける……をじっと見つめる。幼き頃の面影とそれでも徐々に大人の輪郭らしきものが見え始めた……の寝顔を。
「だが……分からない。————次の教皇の座を継げないと知って何故、……勝ち目の無い勝負を続けるのです?」
問いとも呟きにも聞こえるカインの独言は、開け放たれた窓からそよぐ冷たい風に混じり、眠る……の耳に届いたかどうかも分からなかった。
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