七十四話 師匠の残り香

 凍りついた大河の上を風の連換術で脚力を強化して、最高速度で中流域まで向かう。

 自然現象とは思えない真夏に突如現れた銀幕の光景。

 これが空想元素の仕業であるとするなら、恐らく『氷星』が該当するのだろう。


 エリル師匠から教わった聖女が解放し、自然界に散らばったと伝えられる空想元素は全部で七つ。その中でも更に名称が残されているのは四つのみ。


 全てを溶かす灼熱の溶岩を形成する空想元素『焦熱姫』。

 全てを凍える極寒に誘う空想元素『氷星』。

 天より疾る紫電の空想元素『雷霆』。

 星に存在するあらゆる鉱石を連換可能にする『万金剛』。


 いずれも星が形作られる為に必要な元素と教わったが、無論これは仮説上のものであり、実在するかどうかも分からないものであったはずだ。


 だが、シエラから聞かされた聖女と聖人に秘められた真実は、確かにその存在を示唆するものだった。

 

 七つの空想元素は自然界に散らばったのでは無く、七人の聖人がそれぞれ空想元素をその身に宿し、自らの命と引き換えに封じたものである、と。


 氷点下の世界を思わせるような凍てついた大河は幻想的で美しかった。

 絶えず水飛沫を上げながら流れる様が凍りついた一瞬を、そのまま芸術品に仕立てあげたかのようだ。


 エルボルン大河中流域、当時の水の精霊の巫女が悲劇を引き起こしたと伝えられる『ローレライの巨岩』は岩肌全てが凍り付いており、その内部から強烈な冷気が吹き出し続けているのを感知する。


 氷山と化した巨岩の天辺に、腰まで伸びる鮮やかな緑の髪と漆黒のコート越しでも分かるほどの情欲を誘う肢体を持ち、目元を覆う仮面アイマスクを付けた女が俺を見下ろしていた。


「お前は……」


「————あの方の読み通り、ですか。あの状況の皇都から如何にして抜け出したかは知りませんが。昨夜の盗み聞きといい、邪魔ばかりしてくれますね? 『マグノリアの英雄』」


 漆黒のコートをはためかせ、大河に音もなく着地した女からは剥き出しの殺意のようなものをひしひしと感じる……。


「その英雄っての止めてくれないか? 呼ばれ慣れて無いし、あの時だって一人でなんとかしたわけじゃ無いからな」


「……おかしな人ですね。自らの行いがどうであれ、人々からそう讃えられる存在であるのは事実のはず。賞賛されているのに、そう呼ばないで欲しいというのは意味が分かりません」


「しっくりこないんだよ。……俺自身、英雄なんて呼ばれる柄じゃ無い。まだ、何も成し遂げちゃいないからな」


「———小都市とはいえ、聖女が生まれた街を危機から救ったのは、充分過ぎる程の英雄行為です。顔や名を知らぬ者がいても、あの一件で連換術師の存在を強く意識するようになった民衆も多いのでは?」


「……何だか懐かしい問答だ。————あの日、ジュデールの所まで俺を導いたのはあんただな?」


「——————」


 確信がある訳でも無い。別に揺さぶりをかけるわけでも無い。

 ただ、今まで遭遇したあり得ない事態がその可能性を示唆している。

 深層領域で遭遇し、記憶をいじられたか封じられたシエラ、ペリド、そしてヴィルム。

 原理なんて相変わらず分からない。けれど、もし……あの日、聖葬人に破れた師匠が奴らに連れ去られて、彼ら彼女らのように記憶を封じられ、仮初の人格を与えられ奴らの一員として暗躍していたとしたら……。


 そして目の前にいる、師匠の雰囲気とよく似たエーテルの残り香を漂わす女が師匠の変わり果てた姿なのだとしたら——。


「何のことでしょう? そして何を根拠に?」


「地下礼拝堂に向かう途中、はっきりと感じたんだよ。あんたと同じエーテルの残り香をな。それも、師匠が連換したような懐かしい風と一緒に……だ」


 あの時は聖葬人を追い詰めるのに精一杯で、何故そのように感じたかまでは、気付かなかった。ようやく、一歩前へと踏み出した俺に師匠が姿を見せないながらも、導いてくれた——。

 ……そう楽観的に捉えていた。


「深層領域でシエラと再会した時、あいつは俺とは初対面のように振る舞ってた。根元原理主義派アルケーには人の記憶、人格を意のままに操る技術があるとしか思えない。——あんたもそうなんだろ?」


「…………フフッ」


 極寒の冷気の中、女は妖艶に口角を吊り上げる。

 周囲の氷点下にも迫ろうかと思われる冷気よりも、更に冷たい悪寒が俺の背を這いずり回る。


「見事です。これも弟子が師を思うがゆえに辿り着いた結末であるとすれば、何と美しい師弟愛でしょうか」


「……あんた、本当に師匠……なのか?」


「この宿主の自我を消滅させるには、貴方の存在が邪魔であることがはっきりと認識出来ました。————悪く思わないでくださいね? 『マグノリアの英雄』」


 問答はこれまでと言わんばかりに、漆黒のコートをはだけた女が足に装着したホルスターから、宵闇よりも更に暗い、闇色の可動式籠手を取り出し右腕に装着する。

 かちゃりかちゃりと、感触を確かめるように籠手の可動域を手を広げて握って確かめる女からは、凍てつく闘気が渦巻いていた。


「その癖……師匠もよくやってた仕草だ。やっぱりあんたは————」


「我が名は『ヴェンテッラ』。英雄……いえ、B級連換術師グラナ・ヴィエンデ。私がお前の師であると思うなら、その身で持って私を組み伏せるがいいでしょう。————そんなことが出来ればの話ですが」

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