七十三話 凍てつく大河
帝城から出立し大河の中流域へと向かう俺を阻んだのは皇都をぐるりと囲む、透明な硝子のような壁……ではなく高密度に圧縮されたエーテルで満たされた透き通る空気の層だった。
人の生命活動を維持するのに欠かせない体内を巡る生命エーテルの濃度は人によって違う。
生まれつきなのか、後天的に変化するかどうかは研究されている最中ではあるが、空気中に介在するエーテルを人体に取り込む際に、肺が自らの身体に合わせたエーテル濃度に調節する機能を持つことが最近の研究で判明した事実だ。
だが、余りにも濃度の高いエーテルはやはり人体には害となる。
皇都を覆う透明なエーテルの層は、一息吸い込んだが最後、肺がまずその濃度に対処出来ないので窒息死しかねない。
「くそ……。これじゃ皇都から出られないじゃないか————」
焦りを感じつつ少しでもエーテルの濃度が薄い地点を、開眼した超感覚で探る。
南、東、西地区は特にエーテルの濃度が濃く強引に突破を試みようものなら、まず間違いなく命を落とすだろう。それにこのエーテルの層がいつ皇都内に侵食してくるかも分からない。
そうなったが最後、皇都に閉じ込められた人々は残らず全滅だ。
一刻も早く元凶かどうかを確かめないといけないのに、こうしている時間が勿体ない……。
「結局、ここまでまた戻ってきちゃったか」
少しでもエーテルの層が薄いところを探しているうちに、北地区の異国通りに足を踏み入れていた。昨夜間にアクエスの実家を飛び出したのが、随分昔のことのように思える。
無理もない。たった半日でここまで事態が変化することに備えることなんて、預言者でもいない限り不可能だ。
数日前は賑やかだった異国通りに人の姿は無く、皆何処かに避難したようだ。
この地区にも数カ所の地点から、淀んだエーテルを内包した巨大化した生物と思しき気配を感じる。
時折鳴り響く地響きはそれらの生物達が無人の家屋を押し潰している音だろう。
まるで御伽話に出てくる魔獣のようだ。人以上に環境に順応する動植物であれば、急激に濃度が濃くなったエーテルに晒され続ければこのように変異することだって、あり得なくは無い。既に地下遺構で討伐した巨大カエルのように、異常な変異を遂げた生物を目の当たりにしてる以上、疑いようが無い事実だった。
建物の影に身を隠しながら異国通りを慎重に進む。何度か巨大化した生物と鉢合わせしそうになったが、気配で察知出来る以上、安全なルートを選んで確実に回避することに徹する。
民家程の大きさに巨大化したネズミが飲食店の窓に鼻先ごと突っ込んで、食料を漁っている様は現実の光景と思えなかった。
マグノリアでも皇都でも異変の元になったのはエーテルとしか思えない。
生物の生命活動に酸素と同様に必要なこの生命エネルギーには、解明されていないことが多すぎる。生物は自然によって生かされていると言われればそれまでだが、どうにも腑に落ちない。当たり前のように人体に取り込んでいるエーテルの正体とは一体何なのか?
何故、連換術師は連換術を発動する際にエーテルを必要とするのか————。
今、考えるべきことでは無いかもしれないが、決して無視できない疑問であることも確か。
事態を上手く収拾することが出来たら、調べることが山のようにあるなと思いつつ足早に駆けていると、四日前にも訪れたラスルカン教のモスクが建物の向こうに見えてきた。
ラスルカン教と言えば、帝国では精霊教会から迫害を受け続けてきた異国の宗教。
……もしかしたら、皇都の外へと繋がる秘密の通路を知っていてもおかしく無い。
一縷の望みを抱いて、封鎖されているモスクの入り口に立つと、なるべく音が響かないように木製の扉をノックする。「……どなたかな」と聞き覚えのある声が向こうから聞こえてきた。
「その声は祈祷師様か? 四日前にお祓いでこちらに立ち寄った連換術師だ。実は……」
手短にこちらの事情を説明するが、扉の向こうの祈祷師は黙ったままだ。
やはり部外者の俺じゃ信用は無いか? せめてこの場にアクエスが居れば話は違ったのだろう。……無いものねだりをしても仕方が無いけど。
「……事情は了解したよ。都の外に繋がる通路なら確かに知っている」
「本当か!? 一体何処に!?」
「お入り。ただし、今この中には行き場の無い信者達も匿っている。帝国人をよく思っていない者もいる。このボロ切れで顔を隠してから入って来てもらえるかい?」
「そういうことなら、おあつらえ向きの服装だから大丈夫だ。……ちょっとばかし場違いな格好なんだけど」
「……随分と真っ黒なコートだね。それくらい怪しいなら逆に詮索しようとする信者もいないだろう」
帝城から出発する時に、奴らに無理やり着せられていた
現在、皇都では第一から第七までの親衛隊と、連換術協会本部に所属する連換術師達が異変に対処するため各地に散らばっている。そんな中、一人でも動ける連換術師が皇都から秘密裏に離れていたということが知れたら、後々問題になるであろうことは想像に難く無い。
奴らから無理やり着せられていたこのコートは隠密性に優れているようで、ここに来るまでの間も一切人に見つからなかったくらいである。
フードも被れば聖葬人と見分けも付かない。敵を欺くには味方から、という言葉の通り奴らの振りをして行動するには持ってこいの代物だ。
祈祷師のおばさんの後に続き、モスクの中にお邪魔する。
当然、視線が俺に集中するが極力無関心を装おう。殺気だった信者に殴られることも覚悟していたが、皆ここに逃げ込むのが精一杯だったようで陰鬱な空気がモスクに充満しているようだった。
恐怖と不安が入り乱れる視線を耐えつつ案内されたのは、四日前にもお祓いで通された『四柱の間』だ。祈祷師様は扉を締めて鍵を掛けると、部屋の中央のクッションと絨毯を退かし、壁の一角を軽く押した。すると、床板が軋み段々状の階段が現れた。
「こんなところに隠し階段が……?」
「有事の際に皇都から脱出出来るように、同士達が時間をかけて掘り進めたんだよ。……お行き、階段を降った先に大河の向こう岸に出る空洞が続いている。出口付近の大河から枝分かれして、ラサスムの方へと流れていくセルボルン川の流域に秘密裏に作った船着場もある。小舟を使えば中流域にも行けるだろうさ」
「——助かるよ祈祷師様。この礼は今度必ず……」
「何、困ったときはお互い様さ。……風のジンの加護があるように祈らせてもらうよ」
俺はフードを脱いで祈祷師様に深々と頭を下げる。
確かにラスルカン教徒、特に狂信者には思うところもある。
けれど、価値観や考えの違いによる啀み合いの結果が、十一年前の宗教紛争だ。
この非常事態に祈祷師様は帝国人である俺のことを信用してくれた。
それだけで、心がとても暖かくなる。——この人達を守る為にも必ず異変の元凶を突き止めなければ……。
俺は滑るように階段を降りて長い空洞を走破する。
連換術も使って最高速で。密度の濃いエーテルの層も地下までは届かないようだ。
————これなら地下遺構が避難場所として活用できるかも知れない。
出口に辿り着いた時、夏の季節にはあり得ないサクッ……という地面を踏む感触に思わず驚いた。
「寒っ……霜かこれ?? どうなってるんだ??」
外の空気は吐く息が白くなるほど気温が低い。
季節がいつの間にか様変わりしているような、あり得ない感覚に身体が熱を求めて小刻みに震え出す。大河に目を向ければ更にあり得ない光景が目の前に広がっていた。
「……大河が凍ってる??」
激しい水のうねりがそのまま凍てついたような、雪解け前の氷河。
夏の暑い日差しが照りつく中、不可思議な冷気で決して解けない氷の塊と化した大河に目を奪われる。————冷気の発生源は超感覚で探る限り、大河の中流域『ローレライの巨岩』が在る地点らしい。それと……。
マグノリアの聖女の丘、その地下に張り巡らされた通路で捉えたエリル師匠のエーテルの残り香と同じものが、南の方から流れて来ていた————。
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