第11話 喪失②
「……俺のこと、分かる?」
黒陽といた丘の上とはまるで違う光景を目にした白雪は、ある意味では見慣れた光景に、ここがどこかの研究所なのだと理解した。
彼女をこの場に移動させた張本人に、弱い力で抱き締められる。
「怒ってる……?」
恐る恐るといったふうな遠慮がちな力の込め方は、抱き付いている、と表した方がしっくりくるかもしれない。
少年の声は抑揚がないように聞こえるが、聞く人が聞けば、今の声には緊張が滲んでいると分かる。
「……大きく、なったわね」
白雪は、それが分かる人であった。
「姉さん……っ」
少年は、落ち着きの中に紛れもない感嘆が宿る声で、白雪をそう呼んだ。
彼の腕を数回タップし離れるように促すと、拒むように腕に力が篭る。
「大丈夫」
一言添え、もう一度同じ動作を行う。
「ね……?」
頭を軽く撫で促していれば、少年は徐々に腕の力を抜き、惜しみつつも身を離した。
「……会いたかった。生きてるって、信じてた」
フードを外し、素顔を見せる。
黒の短髪に、初対面ではどんよりと暗い印象を受けるであろう目を強張らせ、涙を堪える彼の名前は、チハヤ。
背丈は随分と変わったが、白雪の記憶の中の幼い姿と重なった。
かつて姉と慕ってくれた、弟のような少年と。
「どうして、貴方が……?」
今にも涙が滲み出しそうなチハヤの目元を白雪が撫でてやれば、彼は吸い寄せられるようにその手に擦り寄った。
「姉さんを迎えに」
それは、彼女が亡霊とも、解放者とも、ましてや白雪とも呼ばれていなかった頃の話。
個体識別ナンバー、0番と研究者に呼ばれていた頃。
六年前。北の地の、研究所の話である。
「ちっ……また不発か」
「次は濃度を倍にしてみるとしよう」
「だが、すぐに使い物にならなくなるかもしれないぞ?」
「構わないだろう。まだまだ替えはいる。それに、こいつは特に頑丈だ。どうってことないだろう」
頭上で飛び交う声は、酷く耳障りだ。
手術台に拘束された少女に不躾な視線を注ぐ研究者の目は、自分と同じ生き物を見る目ではなかった。
「しばらく放っておけば、綺麗さっぱり治っちまってるからな。気味の悪い化け者だぜ」
「全くだ」
「じゃあ、こいつはそれまで部屋に戻しておくか」
軽侮する笑みを浮かべている研究者の顔が歪に捻れて見えるのは、彼女の目には彼等こそが人の皮を被ったナニカに見えているからか。
拘束具が外されると、ボタン一つない簡易的な服を鷲掴みにして引っ張られ、無理矢理に起こされた。
引きずり落とすように手術台から降ろされ、歩けとばかりに大きな手で背中を押される。
力が入らず、踏ん張りがきかない足では上手くバランスを取れず、勢いのままに転倒してしまいそうだ。
にやけた研究者はそれを期待しているのだろうが、彼女は残っている体力を全て足に集中し、どうにか転倒を免れた。
不服そうな舌打ちが耳を掠める。
さっさと行け、と肩を叩かれるが、少女は気丈にも声一つ漏らさず、自らの力で足を進めた。
「……化け者め」
嫌悪の視線を背に感じながら。
研究者が言う部屋とは、言わば監禁部屋。
アダマント達にとって、牢獄に等しい場所だ。
そこにはベッドも椅子も机もなく、トイレと水道が一つずつあるだけで、唯一の明かりは小さな豆電球のみ。
捕らえられているアダマント達が、冷たい床に直接座り込んでいた。
この研究所では子供ばかりが捕らわれており、皆が皆、十歳に届くかどうかといったところだ。
北の地の、暖房も毛布もない地下研究所の寒さは、幼い体には拷問に等しかった。
憔悴した表情で身を寄せ合う子供達より離れた位置で、少女は腰を下ろす。
子供達は、あくまでも控えめに、気付かれないように彼女を見遣った。
子供達が少女に向けているのは、子が母へ向けるような。はたまた弟や妹が姉へ向けるような好意に近かい。
実験体に指名されていなければ、皆がこの部屋で休む。
一人のときもあれば、二人のときもあるし、五人のときもある。
今日、指名されたのは少女だけだった。
そして、生きて戻って来てくれた。
だからといって、今の地獄が終わるわけでも、明日が天国になるわけでもない。
けれど彼女の存在は、子供達にとって何よりの救いだったのだ。
たとえば、在りし日。
一日のサイクルが終わった、束の間の安息である時間。皆が寝静まった頃。
実験による痛みに眠れない子供がいた。
「……痛い……痛いよ……」
大きな声で泣きじゃくりたくても、それでは皆の眠りを妨げてしまうと、出来うる限り声を殺しながら、横たえた体を丸め啜り泣いていた。
冷たく固い床に投げ出された子供の頭を、誰かの手が掬い上げる。
驚いた子供が目にしたのは、自分を見下ろす青の双眼。
細く、肉付きが悪い、それでも床よりは断然柔らかい太腿に、子供の頭は乗せられた。
少女の行動に、本来なら目を見開き驚くところだが、今は激しい痛みに苛まれている最中。
くしゃりと顔が顰められ、強張り、目は半分ほどしか開けない。
見つめ合っていると、少女はおもむろに子供の頭へ手を置いた。
何も言わず、ただ、優しく撫でていく。
何度も、何度も。小さな手で何度も。
「……ふっ……う……」
子供の目に涙が滲む。
嗚咽を漏らし、痛みに震える手で、少女の腰にしがみ付いた。
「……痛いよ……うぅ……痛いよぉ」
太腿に顔を埋め、次々と弱音が溢れ、崩壊したように涙が流れて彼女の服に染みを作る。
転んで膝を擦りむいた子供が、母親に縋るように。なり振り構わずしがみ付く。
少女はそんな子供を慰め、あやす母のように、全てを受け止めた。
この子供にだけではない。捕らわれている全ての子供達に、同じように接していた。
子供達にとって、彼女は唯一、安らぎを与えてくれる存在だった。
研究者に手酷く扱われ、肉体は傷付こうと、少女がいれば心は守られていた。
彼女さえ、いれば……。
「……この糞餓鬼!」
振りかぶった拳が、少女の頬を打つ。
加減のない大人の拳を受け止めることなどできず、彼女の体は勢い良く倒れた。
「ふざけたことしやがって!」
研究者の足が、拳が、彼女の体に打ち込められる度、くぐもった重低音が響く。
痛みに悲鳴を上げることさえしない少女に、更に苛立つ研究者の暴行は、止む気配がない。
いくつもの実験が行われる研究所。結果が伴わないことはよくあることで、立て続くことも、しばしば。
そうなれば、研究者のフラストレーションは着実に蓄積される。
その憂さ晴らしに使われるのが子供達だ。
鬱憤を発散しようと、ついに研究者が子供達へ手を上げようとしたそのとき、少女が動いた。
それとなく実験中に採血した血液が入った試験管にぶつかり、床に落としたのだ。
「まだ解析も済んでないんだぞ!」
少女しか見えていないかのように、研究者は執拗に彼女への暴行を続けた。
それが、彼女の思惑だった。
自分に怒りが向くように仕向け、子供達に危害が及ばないようにする。
子供達を庇う為にわざと、と知れたら、研究者は少女を精神的にいたぶろうとし、わざと子供達を痛め付けるかもしれない。
それ故、彼女は悟られないように自分に怒りが向くような行動を取った。
少女の傷は、一晩も経てば跡形もなく消えた。
研究者はそれが彼女の能力なのだと思っていた。彼女がアダマントだと知られたのも、それを見られたためである。
今は自分の傷を癒すか否かを自分の意思で決めることができるが、今以上に幼かった頃の少女の体は、本人の意思に関係なく傷を消してしまったから。
少女が二つの能力を持つことを未だに知られてはいないことは、不幸中の幸いと言うべきかもしれない。
子供達は、自分達のせいで受けなくても済む暴力を受け傷付く彼女に、何もすることができなかった。
少女のように他の子供を守ろうとすることも、自分を守ってくれた彼女を助けようと研究者に立ち向かうことも。
「ごめんなさい……っ」
情けなくて、恥ずかしくて。謝ることしかできなかった。
……それでも。
人買いに連れられ研究所を去った少女に、置いていかないでと言わなかったのは、子供達にできた唯一の意地だった。
外に出れさえすれば、彼女ならきっと上手く逃げおおせるだろうと思っていた。そしてきっと、どこかで幸せになってほしいと。
少女がいない。そんな本当の地獄に落とされても、彼女の幸せを喜べたことが嬉しかった。
「…………なん、で」
夢を見ているのかと、誰もが我が目を疑った。
心の支えを失い、まだ三日と経っていないというのに、少女がこの地獄に舞い戻って来たのである。
「何で……! 何で戻って来たんですか!」
悲鳴を上げるように問い詰めたのは、おそらく少女よりも歳が上で、彼女がいなくなった今、自分が子供達を守らなければと懸命に恐怖と戦っていた少年だった。
彼だけでなく他の子供達も、どうしてと問う。涙が溢れた。
やっと、貴女が幸せになれると思ったのに……と。
少女は、震える手で肩を掴んで声を荒げた少年の手を撫でると、彼の背に腕を回した。
「置いていけない」
そう言って、少年を強く抱き締めた。
「うっ……うあああん!」
子供達は、一斉に少女に縋り付いた。
後悔も躊躇いもなく言い切られては、もう、無理だったのだ。
罪悪感よりも、少女が側にいるという安堵を感じずにはいられなかった。
本当は彼女が恋しくて堪らなかった。会いたくて、頭を撫でてほしくて、抱き締めてほしくて。
当然だ。彼等は子供なのだから。
「ごめんっ。ごめん、姉ちゃん!」
「ごめんなさい……姉さん、ごめんなさい」
子供達は、愛しい気持ちと尊敬を込めて、少女を姉と呼んだ。
母のように慕う気持ちはあるが、そう呼んでしまえば少女に何もかもを背負わせてしまいそうで、何より同年代の彼女を母と呼ぶのは違和感が付きまとう。
だが兄弟であれば、自分だって大好きな姉を支えなければという気持ちを強く持てたし、寄り掛かってもらえることもできるだろうと。
それに何より、子供達は少女をそう呼ぶ以外の術を持っていなかった。
番号で呼ばれることを嫌う子供達が互いに名前を教え合ったとき、少女だけは誰にも明かそうとしなかったのだ。
子供達の名前を呼ぶときでさえ、縮めたり愛称で呼んだりと、曖昧な呼び方をしていた。
だからと言って、子供達はそれを嫌だと思ったことはなかった。
少女だけが呼んでくれる曖昧な呼び方は、ある意味、特別なものに感じられたから。
もしかすると、実の親に与えられた名前よりも、ずっと。
少女が戻って来て、それから。以前と何の変化もなく、実験と暴力の日々は続いた。
そんな、ある日のこと。
少女の傷が完全に癒えなくなるようになった。
どれだけ早く傷が癒えようと、体に蓄積された疲労は着々と彼女の生命力を食らっていく。
少女が戻って来て、どれくらい経ったのか。
ついにその日は訪れた。
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