第10話 名前②

 寒い日に温かいものに触れれば、自分が如何に寒さに強いと思っていても、本当は寒かったのだと気付かされる。

 自分は我慢ができていただけ。強がっていただけなのだと。

 熱を持った指先が、触れたり離れたり。何度も繰り返されれば、嫌でも気付いてしまう。

 何てタチが悪いのだろうか。

 いつか手離さなければならないのなら、いっそ気付かない方が良かったろうに。


「……!」


 随分と黒陽と距離が近いことを白雪が自覚したのは、大きな歓声と陽気な音楽が聞こえてきたときだった。

 思わず一歩飛び退いてしまうと、黒陽は微笑ましそうに目尻を下げ、また白雪の手を取った。


「もう時間か……。白雪、こっちへ」


 手を引かれ、丘の下が見える位置まで誘導される。

 突然外に連れ出されたり、丘の上に連れて来られたり。手を引かれたり、身の上話を聞かされたり。

 今度は何だと、されるがまま従うと、黒陽は丘の下へ視線を落とした。


「この地区では、冬を迎える前に祭があるんだ」


 彼が視線の先。丘の下には、大きな広場があった。

 楽器を演奏する幾人かをぐるりと囲むように、この地区の住民が大勢集まり、音楽に合わせ思い思いに踊っている。

 友人と。家族と。恋人と。おそらく、初めて顔を合わせた他人とも。


「この祭には、寒さで気分が沈まないようにという意味があるそうだよ」

「…………」


 黒陽の説明を聞きながら、白雪は広場を眺め、瞠目した。

 性別も年齢問わず、誰もが笑顔を浮かべ踊る光景を、端から端まで食い入るようにゆっくりと見渡し、息を詰める。


「……多い」


 絞り出すように呟かれた一言に、黒陽も再度、広場を見渡し得心がいったとばかりに頷いた。


「こういった場では珍しいかもしれないな。こんなに……」


 アダマントが集まっているなんて。

 白雪は、広場に目を落としてすぐに、微かな違和感を覚えた。そして、その正体を悟った。

 この祭りには非能力者だけでなく、アダマントも大勢集まっている。

 この地区で生活しているアダマントだっているのだから、何を不思議がることがあろうか。そう思うのは、非能力者的思考だ。

 非能力者が大勢集まるような場はつまり、アダマントの足は遠退く場ということだ。

 祭なんて場はアダマントにとって、まさに危険そのものだ。

 華やかで、楽しげなそれに心惹かれようと、堂々と参加するような猛者は、そうそういるものではない。

 だというのに、この光景は一体どういうことなのか。


「……私が一人で行動するようになって、初めて研究所を回り始めたのが、東の地だった」


 おもむろに、白雪が重々しげに口を開く。


「東の地は、他の地に比べれば研究所の数は少なかったけど、まだ幼かった私が全ての研究所を回るには時間が掛かった……」


 ぽつり、ぽつりと、白雪の吐露は続く。


「どれだけ時間が掛かっても、研究所をなくしたかった。アダマントを自由にしたかった。……彼が、ずっと憂いていたことだったから。私にどれだけ時間が残されているのかも分からなかったけど、せめてその間は……私が……」


 白雪が言う彼とは、彼女にとって命の恩人であり、黒陽と母のように血の繋がりはないが家族に等しい存在である青年のことだろう。

 彼女の声から伝わるのは、切なさ。


「だけど、それがいつか無駄になると分かっていた。どんなに研究所からアダマントを逃がそうと、機械を壊そうと、研究者がいる限り……非能力がいる限り、また同じことが繰り返される。また新しい研究所ができて、新しいアダマントが捕らえられるだけ。この地も、いずれそうなると……思っていた、のに……」


 黒陽の手と繋がれた白雪の手は、次第に震え始めた声と同じく、微かに震えていた。

 そんな手を、黒陽は強く握り返す。


「……っ……調べて分かった。この地には研究所がほとんどない。あったとしても、つい最近できたばかりの、まだ誰も捕らえられていない研究所だけ。私がこの地を離れた後に作られ稼働していた研究所もあったけど、全て同じ時期に壊滅させられていた。一年前……貴方が、私を探し始めた時期に」


 探るような物言いは、しかしどこか確信めいていた。

 泣きそうな声は、悲しさからではない。


「……貴方、なの?」


 黒陽を見上げ、フードと前髪の隙間から覗く白雪の青い瞳が、彼の金の瞳と、まっすぐに交わる。


「いつか君と、この地に来たかった。その為に、君を悲しませる要因を消したかった。それだけだよ」


 随分と遠回しな確定だ。

 東の地を嫌いかどうかを気にしていた理由が分かった。

 黒陽の言葉に、白雪は広場へと視線を移し、目を伏せる。

 耳に入る楽しげな声は、非能力だけのものではない。それが彼女にとって、どれほど嬉しいことが。


「…………東の地は……私が、彼と過ごした土地」


 白雪の声に、緊張が宿る。

 それもそのはずだ。彼女が口にしたのは、彼女の個人情報に深く関わる情報であったから。

 黒陽を守る為には側にいなければならない。

 しかし、やはり離れた方が守れると判断したとき、白雪は迷わず離れるだろう。

 そんな日が来たとき、自分に関する情報を知られ過ぎれば、離れることの妨げになる。

 黒陽は、白雪を追うだろう。手掛かりを見逃さず、また一から探すだろうから。

 それでも、そんなリスクを理解していても、彼がしてくれたことが自分にとってどれほど価値あることだったかを、伝えずにはいられない。


「ありがとう……っ」


 大切な人と過ごした土地を、守ってくれて。

 アダマントが研究所に捕らえられていないということは、自由なアダマントが多いということ。

 大勢の人々の中で胸を張っていられるのは、恐怖に立ち向かう勇気を持っているということ。

 東の地へ来てからというもの、白雪は気落ちしていた。

 大切な人がいた土地が、また薄暗い悲しみに包まれている様を見るのが恐くて。外へ出ることを嫌がったのも、それが理由だった。

 しかし、一歩外に出てみれば、この土地の何と明るいこと。


「知らなかっただけで、俺達はこんなに近くにいたんだね」


 もっと早く。研究所で出会ったあの日よりも早く、どこかで出会えていたなら。

 白雪が大切な人を失わずに済んだ未来が、もしかしたらあったかもしれない。

 ……なんて、そんなもしもは考えるだけ後の祭だ。

 もっと早く会いたかったなんて、口にはしない。

 今得られている財産を、否定したくはないから。


「白雪」


 今は、彼女が目の前にいる。その事実が黒陽の全てだ。

 呼び掛ければ、顔を向けてくれる。

 たったそれだけのことが、黒陽にとっては、かけがえのない奇跡であるから。


「白雪……白雪」


 何度も、呼び掛ける。

 彼女の意識を自分に向けさせようとする意味だけでは収まらないくらいに、何度も、何度も。

 黒陽自身が与えたその名前を呼ぶ行為に、別の意味でもあるかのように。


「白雪……」


 俺を見て。そう言うように、黒陽は白雪の頸に手を添わせ、握ったままの手を引いた。

 身を屈め、互いの呼吸の音が聞こえるほどの近距離。フード越しに耳元で囁く。

 その懇願は、広場から聞こえてくるどんな音よりも、白雪の耳に響いた。


「……それ、は」


 身を起こした黒陽は、満足そうな笑みを浮かべていた。


「俺のもう一つの名前」


 囁かれた言葉の意味を、確認の意を込め問おうとすると、黒陽が先回りして答えを差し出してきた。

 白雪に付けられた名前の他にもう一つ。彼が元々持つ、生まれたときに付けられた名前。

 通常であれば、出会った初対面のときに名乗るべき、いわゆる真名と呼ばれるものだと。


「その名前は誰にも教えず、君の胸の中にしまっておいてほしい。忘れてしまっても構わない。君に伝えられたことに意味があるから」


 名前を伏せる必要のない人間が特定の人間にのみ明かし、秘密にさせる理由とは何なのか。

 胸の中にしまっておいてと言っておきながら、忘れてもいいとはどういうことなのか。

 名前というものを、黒陽は特別視している節があるが。

 それは、何故か。


「…………」


 問うべきか、問わざるべきか。

 静かに答えを待つ黒陽に、白雪は一つ頷き……。


「黒陽」


 何も聞かず、自分が付けた仮の名前を呼んだ。

 分かったという了承と、これからも真名ではなく、こちらの名前で呼ぶという決意表明なのだろう。

 それ以外に、どんな意味があると言えるだろう。

 しかし、白雪が名前を呼んだ瞬間、黒陽の瞳が明らかに揺れた。


「今、呼ぶか……」


 彼は、白雪が初めて彼を“黒陽”と呼んだときと、同じ顔をしていた。

 不満を訴えるような口振りでありながら、黒陽の表情には不快さの欠片もない。

 あのときと同じ。

 泣きそうな、けれど悲しみ故ではない、そんな表情。


「ははっ。あぁ……全く。せっかく我慢しているのに、できなくなりそうだ」


 短く声を出して笑った黒陽は、できないと言いつつ両手を挙げて首を振る。

 両手を挙げたのは、我慢を続けようとしているからなのだろうが、何を我慢しているのやら、白雪には見当もつかなかった。


「……変なの」


 いつもこちらのペースを乱してくる黒陽がペースを乱されているのは、少し愉快かもしれないと、白雪の声が心なしか弾んだ。

 彼女は今、確かに平穏な時間の中にいる。

 誰かと目を合わせ、言葉を交わし、名前を呼び合う。

 何の変哲もない有り触れた行為も、彼女にしてみれば長年避けてきた勇気のいる行為。

 それを引き出させたのは、他の誰でもなく黒陽だ。


「本当に……変なの」


 小さな呟きは、今度も黒陽に向けられたものだったのか。

 彼に聞かせようとしたものだとするなら、あまりにも小さすぎる。

 発した自分しか聞き取れないような。自分自身に向けたような、呟きだった。


「……ねぇ」


 貴方はどんな気持ちで、私の名前を呼ぶの?


 白雪は、知りたいと思った。

 そう問い掛けたとして、答えを得たなら、自分の答えも見つかる気がしたのだ。

 自分は何故、自分が送った彼の名前を呼びたいと思ったのかを。

 ……しかし、それは叶わなかった。


「……!?」

「……!」


 突如、二人の足元から木の根が地面を突き破り、蛇のように自在に動き彼等の体に巻き付いた。

 前触れもなく起こったその現象と共に、複数のラクリマの気配を感知し、二人はそちらへ顔を向ける。


「動くなよ? 痛い思いすんのは嫌だろ?」


 まず一人。木の根を操ったと思われる男が、地面に両手を付いて地中にラクリマを巡らせていた。


「じっとしてれば乱暴にはしないからよ」

「悪いようにはしない」

「大人しくしてなさいね」


 男の仲間と思わしき、何とも胡散臭い男が二人と、女が一人。

 それから、もう一人。


「…………」


 彼だけはラクリマを極限まで抑え、一言も発せず、男達より一歩下がった位置にいた。

 背丈は青年というに値するだろうが、まだ少年だろうと思われる体格の彼は、フードを目深に被っていて顔が見えなかった。


「……お前達」


 黒陽の声から、つい今しがたまではあった穏やかさの一切が削げ落ちる。

 それを目に止めた白雪は、何とか動く手で木の根に触れた。

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