第10話 名前①
もう間もなく冬を迎えようという北の地の冷たい空気が、同じく冬に向かう東の地に風に乗って運ばれてくる。
北の地に近い地区は、真冬ともなれば東の地といえど寒さは厳しい。
寒い日は、息が白くなる。
寒い日は、手がかじかむ。
寒い日は、体が縮こまる。
寒い日は……寒い日は……。
天候によって左右されていた肌寒さは、今や毎日居座るようになった。
あとひと月もすれば、防寒具なくしての外出は辛くなるだろう。
東の地へ足を踏み入れた白黒の二人は、冬という寂しげな季節などものともしない活気に溢れる人混みを抜け、階段も道もない丘を登っていた。
目まぐるしく各地を回る生活を続けてきた白雪は、早朝か夜に研究所を訪れることが多く、日中は体を休めるか情報収集に努めるのが大半だ。
今日もその流れを踏んでいた彼女だったのだが、部屋を訪ねてきた黒陽により、半ば強引に外へ連れ出されてしまった。
出掛けようと誘われたとき、即答で断るくらいには気乗りしていなかった白雪の足取りは重い。
それは、彼女の歩行速度に合わせる黒陽も感じていた。
「東の地は、嫌いかい?」
何の気なしに。そんな雰囲気の声で、彼は尋ねた。
問いを投げ掛けられた白雪は、長年の癖で首を振ることで意思を伝えようとするが、自分の足取りが遅いがために、微妙に彼と視線が合わないことに気が付いた。
それから、いつもの彼なら彼女に顔を向けて視線を寄越すのだが、今は正面を向いたままだということに。
「……いいえ」
腕でも掴み視線を向けさせようかと思案するが、白雪は言葉を以って彼の問いに答える。
「そうか……」
互いに、三音でのやり取り。
黒陽の声は柔らかい。いつもの彼と変わらない……ように見せかけた声。
少なくとも、白雪はそう感じていた。
たった三音の中、彼女からの答えを受け得た安堵の他に、緊張が感じ取れた。
東の地は嫌いかと尋ねた声も、同様に。
フードを被っているせいで彼の表情が見辛く、煩わしい。
そんな自分の心境を諌め、白雪はフードに伸びかけた手を下ろし、ほんの僅か。指先にほんの僅かばかりの力を込めて、彼の袖を掴んだ。
「嫌いでは、ない……」
「…………」
「本当に……」
おそらく、先程の答えだけでは不十分だったのだろうと、白雪は更に明確に答えてみせた。
その行動は、紛れもなく黒陽を気遣ったものに他ならない。
唐突に、彼は歩みを止めた。
「……っ……」
突然だったため、白雪は踏み出した足の着地点を追突を避ける為にずらし、ふらついてしまう。
体勢を整え転倒を回避することは彼女一人でもできたが、それより先に彼の手が彼女を支え、転倒を防いだ。
「はぁ……」
「……ごめんなさい」
「いや、違う。君は悪くない」
零された黒陽の溜息を、白雪は自分が転倒しかけたことへの呆れと取り、すぐに謝罪し距離を取った。
そんな彼女の行動を前に、彼は自嘲するようにもう一つ溜息を零すと……。
「やめだ。らしくない」
何やら吹っ切れた様子で独りごち、白雪の手を掴んだ。
「……な……え……」
黒陽の切り替わりに、白雪は戸惑った声を上げる。
振り向いた黒陽はいつもの彼らしい笑みを浮かべているが、逆に白雪は何故いつもの彼に戻ったのかと、安堵しつつも困惑していた。
「ごめん、不安にさせたね。行こうか」
そう言って白雪の手を取り、歩みを再開させた黒陽の声や表情には、もう先程までの陰りはなかった。
あれよあれよという間にペースを奪われ、手を引かれる。
目的地はどこなのだろうと今更ながら疑問を浮かべるが、尋ねるか否かを思案する間もなく、あまり高くはなかったらしい丘の頂上へ到着してしまった。
「着いたよ」
黒陽が足を止めたことで、白雪も足を止める。
丘の頂上には東屋はおろか、ベンチの一つもない平地が広がっていた。
すぐ奥には一本の大樹がそびえ立ち、人の手が全く加えられていない自然のままの草花が生えている。
各方位で最も都心とされ、中央二十地区とも呼ばれる一から五の一桁地区である、ここ東の五地区にしては珍しい。
都心ではあまり見かけないが絶景でもない、少し視界に捉えれば踵を返してしまうような。田舎では敢えて足を止める意味もないような。
そんな何の変哲もない場所だった。
「…………」
面白みもないだろうこの光景に白雪は釘付けになり、黒陽の手と繋がったままであることを忘れたように歩き出した。
まるで、今度は白雪が黒陽の手を引くような形で大樹の前まで歩みを進めると、空いた手で大樹に触れようとし……。触れることなく、下ろす。
大樹を見つめたまま口を閉ざした白雪の傍らで、黒陽も沈黙を保つ。
数十分にも感じられる、数十秒。
「……どうして、私をここへ?」
黒陽へ向き直り、何故自分をここへ導いたのかを問う。
力を込めて握られていなかったようで、黒陽の手から白雪の手が抜け落ちる。
ぴくりと震えた彼の指先は、彼女を追い掛けたい気持ちを堪えるように、ゆっくりと地面へ下ろされた。
「好きだろうと思ったから。それから、ある人に会わせたかったから……」
黒陽は大樹を一瞥すると、大樹から少し離れた斜面に近い、位置にある随分と形の良い石に目を向けた。
ここには何もないし、誰もいない。
あるのは大樹と草花くらい。
周囲には人の手が加わっていないものしかないからこそ、よく分かる。
その石は、人の手が加えられていると。
ある人……と言って視線を注ぐ先には、その形の良い石だけだ。
白雪は、思う。これではまるで……。
「そこで眠っている、俺の母親に当たる人に」
墓石のようではないか。
予想は、的中した。
「母親……」
復唱し、黒陽の発言の意味、彼の母が故人であるという事実を飲み込む。
母親という単語で、白雪には思い浮かべる相手はいない。
思い浮かべるべき相手を認識し、おそらく脳裏にその姿を浮かべているであろう黒陽の眼差しは、熱が宿っていない。
彼にとっての正常で、当然の、無感情。
「よく笑う穏やかな人だった。異常に見えるはずの俺を普通に受け入れている、優しくて、温和で、良い人だった」
黒陽が自分に関わること、ひいては他者に関することを、ここまで雄弁に語るのは初めてだ。
彼の口から語られる母という人は、温もりに溢れた、素晴らしい人だということが良く分かる。
もっとも、その言葉の全てが、客観的に見た感想のように語られているが。
実の母にさえ、彼はそうなのだ。それが彼なのだ。
自分を生み育てた女性を、母と感じているわけでもなければ、赤の他人だとも感じていない。
母と子。その関係性に当てはまるという、事実を認識しているに過ぎない。
「母が死んだのは一年前。俺は母の死にさえ、何も感じなかった。生前、息子である俺が母にしてきた気遣いは、息子なら本来そうするものだという一般論を知識として持っていたからで、そこには感情なんてなかった。俺は、良い息子ではなかったよ」
本当に、今日は一段と饒舌だ。
視線を寄越さず、独り言のように語る黒陽に、それでも……と、白雪は口を開いた。
「それが貴方なら、それでいい」
黒陽はまだ全てを語り終えてはいないだろう。
ただ、自分は可愛くない息子だったと話したいだけなら、わざわざここへ足を運ぶ必要はないはずだ。
彼の故郷である東の地を嫌いかと問う必要も。ましてや、それを問うことに緊張する必要も。
今日、ここへ来なければならない理由があったのだろうと、白雪には容易に推測できた。
だからこそ、これから彼が続きを語る前に、先に伝えておきたいことがあった。
「どんな貴方でも、それが貴方で、貴方の普通。貴方が何を感じられなくても、ここに眠っている人は貴方にとって確かに家族だったのだと、私は思う」
大樹の周りに咲くオキザリスに視線を落とし、膝を折った。
指先で小さな花弁に触れ、続ける。
「貴方のお母さんにとっても」
白雪の声は微笑んでいるかのように穏やかで、可能性を口にしているだけにしては、確証を得ているかのように自信ありげだった。
「俺が君と出会ったのは、五年前だ。けど、君を探し始めたのは一年前。……一年前の今日、母が死んでからだ」
彼女の言葉を聞き、黒陽は言いながら母の墓前に歩み寄る。
「母が死ぬまで、俺は君を探しに行きたいという気持ちを自覚していなかった。俺はきっと、心のどこかで母が長くないことを悟っていたんだ。だから、母を置いて君を探しに行ってはいけないと、無意識に自制していたんだろうね」
母の墓前を膝をつき、墓石を撫でる……なんて、そんな情に溢れた行動を、黒陽は取らない。
墓石の前で立ち、いつも通りの彼で、言うのだ。
懺悔でもなく、言い訳でもなく、偽らざる本心を。
「最期まで母に対して何も感じられなかった。悲しいとも、これで君を探しに行けると喜ぶこともなかった。けど、今になって思うと、俺はあのとき安堵したんだと思うよ」
今日、彼がここへ足を運んだのは、母の一周忌の為。そして白雪と、母の前に立つ為。
母が死んだ後、彼女が使っていたスケッチブックには、遺言のようにこう書いてあった。
一緒にいてくれてありがとう。貴方の大切な人を、早く見つけてあげてね。
母とは、本当に子供のことをよく見ている生き物だ。
「俺は、人として不出来だ。そんな俺でも、人としての道を外れずに済んだと思う。人でも化け物でも、どちらでも構わないのが本音だ。それでも、自分の命にさえ関心を持てず、あの研究所で死んでも構わないとさえ思っていた俺が、君と出会ったことで母の元へ帰る気になれた。最期まで母の側にいて、看取ることができた。……君を、裏切らずに済んだと思えた」
振り向いた黒陽は、とても優しい顔をしていた。
「俺を、俺でいいと言ってくれる、君に恥じない俺でいられたと」
母が願った通り。一年近く掛かってしまったが、黒陽は見つけた。
側にいたいと、心から感じた人を。
白雪の元へと戻り、もう一度、離れてしまった手を彼女へ向けて伸ばす。
立ち上がった彼女は伸びてきた手を目で追うけれど、逃げようとはしない。
指先が、フードの布の感触、髪の滑らかな感触を辿り、外気で冷えた頬に触れる。
雨が降っていたあの日。研究所で会ったときとは違い、彼女の頬は濡れてはいない。
「白雪」
名前を呼ぶその声に込められたものは、何なのだろう。
「ずっと、君の名前を呼びたかった」
黒陽が呼んだのは、彼女の本当の名前ではない。
彼が付けた、偽物でしかないはずの名前。
「……っ……」
見つめられ、名前を呼ばれ、白雪の中にある衝動が生まれる。
白雪という名前が本当の名前ではないように、黒陽という名前もまた、彼の本当の名前ではない。
そんな偽物の名前を呼びたい……と。胸がざわつく。
それは、あの感覚によく似ていた。
眠っている間の、“行かなければならない”という、強い衝動に。
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