第9話 不穏な声①
動けない。
眠りについた彼女は、決まってその感覚に支配された。
眠っているのだから体が動かないことは当然で、何も不思議がる必要はないだろう。だが、眠っている最中であれば本来、意識は沈んでいるのだから、この感覚を味わうことはないはずだ。
夢を見ているというには、あまりにもリアルで。体は眠り、意識だけ覚醒している状態……に近いが、的を射ているようには思えなかった。
死体のように動かない体は、生者としての熱を持っている。けれど、その熱は本当に生としての熱なのかと、彼女は違和感を覚えてしまう。
間違いなく自分の体で体験していること。そのはずなのに、まるで誰かの体で経験したことを疑似体験しているような、そんな違和感。
だからといって、その誰かとは誰なのだと問われたなら、彼女は熟考の末、“私”と答えるだろう。
私と、誰かの私。一つの命に体が二つ存在するわけでもあるまいに。
この体験をしている間、何故だか“行かなければならない”という使命感に駆られた。
それは疑似体験元の“私”から疑似体験先の“私”へ向けられているのでは……と考えるに至ったところで、彼女はそれ以上の考察をできずにいた。
憶測で不可解な感覚の正体を突き止めようとしても、手掛かり無くしてはこれ以上の発展は見込めず、混乱するだけだ。
それに何より、彼女には知ることへの躊躇いがあった。
眠り、動けなくなっている間、行かなければという衝動と共に、叫びたくなるほどの悲しさと、寂しさを感じるのだ。
感情さえ誰かのものを疑似体験しているとでも言うのだろうか。
だが、そうとはとても割り切れないほど、感情は強く、痛々しかった。
動けなくなることの理由、行かなければという使命感、感情の嵐。
『行きたい』
どこへ?
『行かせて』
どうして?
自分の声が願い、自分の声が問う。
答えがないまま、自問自答しているうちに目が覚め、私という自分に戻る。
それが数年前から……他者と関わることを避けるようになってからは、願う自分の声ではなく、問う自分の声が最後に決まった一言をいい、彼女は眠りから目覚めるようになった。
『知っては駄目』
知ることへの躊躇いを持ってしまうのは、行きたいと願う声の深い悲しみにも勝るほど、その声が切実だったからだ。
「…………」
彼女、白雪は目覚め、暗い室内の天井を見上げる。
この晩、眠り目覚めるという行為を繰り返すこと、四回。
眠りについて目覚めるまでの長さは、最長で三十分。行かなければという衝動が、眠り動けなくなることを拒否するのか、彼女が眠りにつける時間は物心ついた頃から極端に少なくなった。
幼児だった頃は、まるでまだこの世に誕生しきれていないかのように、目覚めてもまた抗いようのない眠りに落ちていたというのに。
睡眠を取るということが、こんなにも儘ならない自分に溜息を零した数は、両手の指の数をとうに越している。
時刻を確認し、白雪はベッドから抜け出した。
カーテンを開け、窓越しの夜空を見上げる。夜空に浮かぶ月の淡い光が室内に差し込み、晒された彼女の素顔を照らした。
艶やかな長い黒髪も、きめ細かな白い肌も。月明かりに照らされ、紺碧に煌めく青い目も。宝石のように美しく、花のように愛らしいその麗姿は、意識して隠さなければ必然的に人の目を集めてしまうだろう。
カーテンを開け広げたまま窓際を離れた白雪の足が向かうのは、ベッドでもソファーでもなく、壁際。
彼女が泊まっているのは一番奥の部屋で、この壁の向こうは隣室になっている。
今しがた眺めていた月ではなく、太陽のようだと感じた青年が休んでいる部屋だ。
床に直座りし、壁に寄りかかり額を付ける。
眠るという行為は、白雪にとってはとても難しく、疲れる行為だ。
今回も常の通りだった。……しかし、近頃はその常が覆されることが何度かあった。
『気分はどうだい?』
少し高めの体温と、穏やかな低い声。
『君が目を覚ます前に戻ろうとしていたから』
部屋中に満ちた、自分のものではない一つのラクリマと、人の気配。
初めてだったのだ。あんなにも眠ることが心地良いと感じたのは。
その眠りを与えてくれたものは、今はどれも白雪の側にはない。この部屋に、彼はいないから。
「黒陽……」
冷たい壁越しに、もうすっかり覚えてしまった……忘れようのないラクリマを微弱ながら感じ取り、白雪は細く息を吐き、ぽつりと零した。
次第に落ちてきた瞼を受け入れれば、眠気が顔を覗かせる。
眠ることへの緊張が輪郭を失い、ぼやけていく。
意識が溶け、沈んでいく最中。
微弱にしか感じられなかったラクリマを、さっきよりも強く感じられたような……。
それを確かめる間もなく、白雪は五回目の眠りに落ちていった。
「……おやすみ。白雪」
彼女の安らぎ。それは、彼にとっての安らぎ。
白雪が次に目を覚ますのは、陽の光が部屋に差し込んだ頃だろう。
「聞きました? 今日から新入りが三人も入るらしいですよ」
「あぁ、もう会った」
「え! そうなんですか。どんな奴等でした?」
愉快げに話しかけてきた若者に、男は落ち着いた調子で返答した。
ここは東の十八地区にある、とある研究所。
今は研究所としての機能を失い、アドウェルサスの本拠地として利用されている場所。
男は若者が興味を示す人物像を思い浮かべた。
「好青年と幽霊と野犬、だな」
男の答えに、若者は吹き出して大口で短く笑った。
「何すかその、ちぐはぐトリオ」
「お前が聞いたんだろ。どんな奴等かって……っと、ほら。噂をすれば何とやらだ」
男が、開け放してあったドア向こうの通路を示し、若者がそちらへ視線を移すと、丁度二人の少年が横切って行くところだった。
一人は黒の短髪で、どんよりとした目の少年。一人は所々跳ねた薄い茶髪で、目つきの悪い三白眼の少年。
若者は室内から通路に顔だけ出し、遠ざかって行く二人の後ろ姿に、得心がいったように頷いた。
「幽霊と、野犬っすか?」
「ご名答。歳は十五だそうだ。お前の四つ下だぞ。良かったな、後輩ができて」
「十五!? 餓鬼だなとは思いましたけど、ほんとにまだ餓鬼じゃないっすか」
二人の発達途中の背格好をしげしげと眺める若者に、男は内心「お前もな」と思いつつ。
若者が妙な先輩風を吹かせないよう注意しようと意気込んだ男だったが、若者の興味はあっさりと二人の新入りから外れ、新しい話題を男に振ってきた。
「そういやヒバシリさんが帰って来たみたいっすよ。そこでまた会ったんですって。ほら、あの、何でしたっけ?」
あけすけに物を言ったり、自分で振ってきた話を突然打ち切り、別の話題に切り替えたり……。
そんな若者に男は嫌な顔はしないが「やっぱり餓鬼だな」と肩を竦めた。
「お前は噂好きのくせに情報が遅いな。ヒバシリにはとっくに会ってる。それからいい加減覚えろ。白の解放者だ」
「そうそう! それだ! てか噂好きとかひでーっすよ、ヤシロさん」
苦言を零すが、さして気にしていない様子の若者に、男……ヤシロはついに溜息を零し彼の頭を小突いた。
「事実だろ。本当、いい加減覚えろよ。白の解放者は下手したらお前より年下の、あの新入りくらいの歳の女の子でありながら、何年も一人で同胞を救い続けている俺達の先輩だ。敬意を払え」
「えーー」
「何だ、えーって」
唇を尖らせ、あからさまに不服な顔をする若者を、ヤシロは半目で見遣り拳骨の準備をする。
「だって、ヒバシリさん言ってましたよ。白の解放者は甘いって。非能力に情けをかけてるって。それって結局、どっちにもいい顔してる八方美人っていうか、弱虫ってことじゃないっすか。俺そういう奴嫌いなんすよね」
「お前な……」
若さとは、良くも悪くも色々なものを吸収し易く、影響を受け易いものだが……。若者のこの言葉にヤシロは顔を曇らせた。
ヤシロはヒバシリと古くからの友人であり、その繋がりもあってアドウェルサスに入るのことになったが、彼のように白の解放者を毛嫌いしてなどいなかった。
寧ろ、毛嫌いしているどころか……。
「おい」
息子を正そうとする父親のように、厳しい声を上げようとしたヤシロだったが、それを遮り少年が声を上げた。
まだ変声期を終えて、そう経っていないような声は、怒りをふんだんに含んでいる。
その声は、もうだいぶ離れた位置まで歩き進めており、とても二人の会話など聞き取れるはずのない少年のものだった。
足を止め、振り向きこちらを睨んでいるのは、ヤシロが野犬と例えた三白眼の少年。
「さっきからうるせぇんだよ。次ごちゃごちゃ言ってみろ。てめぇの喉、噛みちぎるぞ!」
唸るような声で、三白眼の少年は犬歯とはいえ鋭すぎる歯を剥き出しにして吐き捨てた。
ラクリマが集中した、その歯……牙と、ゴキリと音を立ててた指から伸びる獣の様に鋭い爪で威嚇して。
「あ? てめぇ、誰に向かって言ってやが……っいて!」
誰に……とは、目上の者に対してという意味か、組織の先輩に対してという意味か。
どちらにせよ若者が少年に言えた台詞ではない。おそらく同じような気性の二人を放置すれば、口論では収まらないだろう。
ヤシロはすかさず若者の頭に拳骨を振り下ろした。
「何すんですか! ヤシロさん!」
「黙ってろ餓鬼。……悪かったな、新入り」
「何謝ってんすかヤシロさん!」
「だから、お前はちょっと黙ってろ」
「うげ!」
ヤシロは声を荒げる若者をいなして首に腕を回し言動を制御すると、こちらを睨む少年に穏やかに謝罪する。
眉間に皺を寄せ敵意を剥き出しにしたままの三白眼の少年は、数秒の間ヤシロを睨んでいたが、舌打ちをし彼等に背を向け歩みを再開させた。
怒りは収まりきらないのか、肩を怒らせ、足音を立てて歩いて行く。
「…………」
感情の動きが読めない無表情でヤシロと若者を見ていた黒の短髪の少年も、静かに歩みを再開させた。
通路の角を曲がり、二人の姿が見えなくなった頃にヤシロから解放された若者が案の定、抗議の声を上げると、ヤシロは溜息をつき二度目の拳骨を振り下ろした。
「いっでぇ!」
「ラク、色眼鏡で人のことを見ている内は、いつまでも餓鬼のままだぞ」
「いてて……。え? 色眼鏡……?」
疑問符を浮かべ、叱られた意味を理解できていない様子の若者……ラクに、ヤシロは続ける。
「お前はもっと考えて人を見ろ。噂ばかりを鵜呑みにするな。ちゃんとお前の目で見て、その人を知れ」
いいな。と念を押し、腑に落ちていない様子ながらも頷いたラクの背中を、軽く叩くことで話を打ち切る。
ラクは若い。知らないことが多いだけで、気付けさえすれば、きっと考え方の幅を広げられるだろう。
彼のことより、ヤシロが最も心配しているのは、古い友のことだった。
ヤシロは友を思いながら、記憶の中の小さな白いシルエットを思い浮かべた。
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