第8話 雪と太陽②

 瞬時に動いた黒の青年は、しかし、ほぼ同時に足を止めていた。

 彼のよく知るラクリマ、白の少女のラクリマが、黒の青年が床を蹴った瞬間……いや、それよりも早く、一瞬にして膨れ上がったのだ。

 黒の青年の行動は、全て白の少女の心の安寧の為。

 自分が動けば邪魔になると判断し、彼は引いた。所詮、人間の範囲の身体能力で動くことしかできない自分と違い、風はその何倍も早いのだから。

 マユの真横に飛んできた何かを、白の少女の風が速度を殺し、風刃が斬り裂く。

 パラパラと床に落ちたのは、元は礫ほどの大きさはあったであろう小石だった。


「……マ、マユ!」


 悲鳴のように娘の名前を呼ぶ母の声には、娘の安否を確かようとする悲痛さがあった。

 白の少女はその一声に、自分の中にあった危惧を消した。


「怪我してるの!? どうしてこんな危ないところに!」


 混乱した母の声に、批難の色はない。あるのは母が子を案じる、親としての心配だったから。


「だって! お母さんが悪い人達に連れて行かれちゃったから、マユ……お母さんを助けたかったんだもん!」


 だから天使さんに一緒に来てもらったの。

 真剣な顔で母に訴えるマユの気持ちに、母は目に涙を滲ませ口籠もってしまう。


「お母さん、ほら! 天使さんだよ! お母さんを助けに来てくれたんだよ!」


 嬉々とした笑顔で、マユは自慢するように白の少女を振り返る。

 母もそちらに目をやれば、そこには独特な雰囲気を発するフードを被った白い少女が佇んでいた。


「早く外へ」


 アダマントである彼女が何故、非能力者である娘の力になってくれたのか。

そう問いたげな視線を母に向けられた白の少女だが、それに答えることはせず、真っ先に脱出を促した。


「うん! お母さん、行こ!」


 蹲っていた母の手を取り、引くマユに、躊躇する素振りを見せた母だったが、渋ることはせず立ち上がった。

 その間、マユに向け礫が飛んできた方向、明かりの消えた別室の入り口を恐る恐る一瞥して。


「白雪お姉ちゃん、離れちゃ駄目って言われたのに、離れてごめんなさい」


 母の手をぐいぐい引き、白の少女の元まで戻って来て謝罪するマユに、白の少女は「分かっているならいい」と言うように首を振った。

 床に膝をつき、顔は見せないまでも目線を合わせる。


「お母さん、好き?」

「うん! 大好き!」


 迷いなく即答したマユに、白の少女は再度、外へ逃げるように指示を出す。

 今度は言われたことを守ろうと、母の手をしっかりと握り外に向かおうとするマユだが、何故かその場から動こうとしない白の少女が気になり、立ち止まりそうになるが……。


「止まらないで」


 私から離れないで、と言ったときと同じ語気で嗜められ、マユは白の少女が一緒に外へ向かわない理由を問うことなく外へ向かう足を動かした。


「お母さんを助けてくれて、ありがとう! 白雪お姉ちゃん!」


 白の少女が止まらないでと、早く外へ向かうようにと言ったのだ。彼女が言うのだから、そうしなければならないと、マユはこの短時間で学習していた。

 マユと彼女の母の姿がこの場から消えると、白の少女はマユの母が一瞥した別室、そして黒の青年が睥睨するそこへ、視線を投げた。

 いつもなら、必要に迫られなければ口を開くことのない白の少女が、今回はよく喋った理由。

 それは、マユをいち早くこの場から退場させ、“彼”から引き離さなければならないと判断したから。

 何かを引きずる音と、断続的に聞こえる微かな呻き声が、暗い別室から聞こえ、近付いて来る。


「まだ非能力者に情けをかけているようだな。白の解放者」


 現れたのは、三十代半ほどの屈強な男。ほとんど意識を失った研究者を片手で引きずり、冷めた目で白の少女を見据えた。


「非能力者は俺達アダマントの敵だ。研究者であろうと、なかろうと。子供であろうとな。そんな奴等との平等を望むなど、綺麗事に過ぎない。前に一度言ったはずだが?」


 言葉を続けながら、研究者をゴミのように放り投げ、拳を振りかぶる。


「それは偽善者のすることだと」


 振り上げた拳には、男のラクリマが集中し、高濃度のエネルギーが宿った。

 そしてその拳は、研究者へと振り下ろされ……。


「偽善者で構いません」


 白の少女の風により、阻まれた。

 彼女の声がいつもの声と比べ、微かに低い。

 黒の青年はその変化に少なからず驚き、しかし納得した。

 目の前の男が“アドウェルサス”なら、彼女のこの反応は当然だろう、と。

 アドウェルサス。

 それは目の前のこの男により結成された、反非能力者を掲げた組織の名称。非能力者へ強い敵対心を持つ、アダマントの集団である。

 結成されてまだ半年と経っておらず、人員も十数人と少数ではあるが、彼等に壊滅させられた研究所は数知れず。自由を取り戻したアダマントも多い。

 だが、彼等のやり方はどうも過激で、非能力者とみれば過剰な攻撃を仕掛けている。

 先程、逃げて行ったアダマントの様子と会話を思い返せば、認識を改める必要はないだろう。


「私と貴方では、守りたいものが違います」


 白の少女の声には、怒りが秘められていた。








「……マユ、ごめんね」


 白の少女の指示通り外へ逃げ出したマユと母。逃げる足を止めることなく進みながら、母は気落ちした声で謝罪を口にした。


「何でごめんねなの?」


 マユは全く分からないという顔で首を傾げ、母は泣きそうな顔で苦笑を浮かべた。


「何て言ったらいいのか……。あのね、お母さんはね、マユのお母さんになる前……今のお母さんとは違う人だったことがあってね、その頃とても酷い人だったの」

「お母さんとは、違う人?」

「そう。その頃のお母さんは、今のお母さんみたいに不思議なことができない方の人でね……不思議なことができる人達に、酷いことをたくさん言ってしまったの……」


 母の話に、マユは首を傾げたままだが、母は「分からなくてもいいのよ」と話を続けた。


「不思議なことができる方の人達と同じになって初めて、前の自分がどんなに酷い人だったのかに気付いたの。だから、昔の自分と同じ方の人に……。マユに嫌いって言われたらって……気持ち悪いって言われたらって……そう思うと恐くて、だから……マユのこと避けてたの。ごめんね、マユ。ごめんね」


 ついに涙を流してしまった母の言葉を、幼いマユが理解することは難しかった。

 母と同じくらいの大人であったとしても、母が語った話は俄かに信じ難い内容ではあったが。

 理解できずとも、マユは、母に泣いてほしくないと思った。泣き止んでほしいと、小さな手で涙を拭った。


「マユ、前のお母さんは知らないけど、今のお母さんが優しいって知ってるよ。不思議なことができるお母さん凄いなって、にこにこしちゃうの。だから、もっと一緒にいたい。一緒に色んなことしたいの」


 抱き締めるように母に抱き付き、名一杯の大きな声で思いを張り上げる。


「マユは、お母さんが大好き!」


 堪らず、母もその小さな体を抱き締めた。


「……っ……うん。うんっ。お母さんも、マユが大好きよ……っ」


 アダマントになって初めて、非能力者が恐いと思った。

 かつて非能力者だったことを知られれば、どんな目で見られるかと、同胞にも気を許せなかった。

 けれど今は、大好きだと言って手を伸ばしてくれる人がいる。彼女はようやく、かつての自分と今の自分を受け入れられたと感じた。


 彼女の身に起きたのは、誰もが経験する現象であり、誰もが認識していない事実である。

 自覚のある者は稀。日常の中で不意に自覚する者は、更に稀。

 該当する者達には、今の自分に繋げたい強い想いがあったからだろうと、ある者は語り、書物に残していた。

 誰にも見向きもされなかったとしても、いつか誰かの助けになるように。

世界調整ワールドアジャスト”というタイトルをつけて。







 彼は存外、分かりやすい。

 苛立ちを隠しきれず眉間に皺を寄せる黒の青年を眺めながら、白の少女は冷静にそう思った。

 マユと母が十分に研究所から離れられる時間を稼ぐ為か、白の少女はアドウェルサスの男が立ち去るまで、言葉の応酬に付き合っていた。


『邪魔をするなら、お前は同胞ではない。敵だ』


 そう言い捨て去って行く男の背を、黒の青年がどれほどの憤りを噛み殺して見送ったことか。

 去り際に男と目が合ったとき、男が気丈な態度を崩さないながらも冷や汗を抑えることができないくらいには、黒の青年の目には強い怒りが渦巻いて見えたのだろう。

 引き結ばれた口唇の奥で、黒の青年が歯を噛み締めながらも自分を抑えたのは、白の少女が彼を制したからだ。

 白の少女は、男からの評価に悲しんではいない。寧ろ、事実として受け止めてすらいる。

 だから、そのことで黒の青年に心を乱してほしくはないと思っていた。こんないざこざに巻き込みたくない、とも。

 とはいえ、気にするなと言われて知らん顔してくれるような黒の青年ではないのも確か。


『優しいことの、何が悪い』


 男が去った後、黒の青年は男にこそ言いたかったであろう言葉を吐き出した。

 彼は、白の少女が傷付くことがないよう。悲しむことがないよう。気遣い、労わり、怒る。

 盲目的すぎだと言えばそうだが、今ばかりは、白の少女はそう呆れる気にはなれなかった。


(……温かい人)


 目がくらむ程の強烈なまばゆさではなく、大樹の木陰で浴びる木漏れ日のような、光。

 そんな光を、黒の青年の広い背中に、手に、眼差しに、感じていた。

 思えば、ずっと。彼に見つめられる度。彼の優しさに触れる度。あの日から。


「……くろ


 口から溢れた自分の声に、白の少女は気付いていない。それほど無意識に、彼女の自我を振り切って出てきた言葉は、誰に名乗られたわけでもない、誰のものでもない“名前”だった。

 驚きを露わに振り向いた黒の青年の、極限まで見開かれた金の鋭利な目を「太陽みたい」などと思うことを、年相応の少女めいた思考だと気恥ずかしさを覚えるくらいには、上の空だった。


「……それが、俺の名前?」


 黒の青年に尋ねられ、そこでようやく白の少女は自分が何を言ったのかに気付いた。

 彼女の頬に、黒の青年が両手を添える。

 咄嗟に首を振り、誤魔化すことができないように。

 気のせいでなければ、彼の声は少し震えていたかもしれない。


「字は、どう書く?」


 目には涙なんて浮かんでいないのに、今にも泣いてしまいそうに見えた。

 泣いてほしくないという焦りが、白の少女の口を動かす。


「……黒と、太陽」


 自分でも知らなかったはずの答えを、容易に口にしてしまっていることに驚きながら。

 答えを得た黒の青年……黒陽くろやは、今しがたの彼女のように眩しそうに目を細め、頬を緩ませた。


「俺に太陽を当てはめるなんて……君くらいだよ」


 彼の声は、やはり少し震えていた。


(……そうか)


 白の少女の脳裏に、マユから言われた言葉が蘇る。


(私も、こんな顔を……)


 泣きそうな……しかし、流す涙は悲しみ故ではない。

 そんな、顔を。

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