第8話 雪と太陽①
「天使さん! 天使さんのお名前は? ねぇねぇ、天使さん!」
白の少女の手を握り、小気味良く揺らす無垢な瞳の女の子。
「……………………」
何故こんなことになったのか……。
白の少女は重い肩を落とす。
あのとき、その日の目的を済ませた二人は宿に向かう途中だった。
白の少女が一人で活動していた頃は、一日で数カ所の研究所に足を運ぶこともあったが、今では黒の青年のストップがかかるため、緊急を要する場合でもなければ一日に一ヶ所までとなっている。
目的としていた研究所に捕らわれているアダマントを解放し終えれば、白の少女は宿に戻り部屋からほとんど出て来ようとしない。
黒の青年が彼女の部屋を訪ねようとしたとき、戸を叩くまでもなく彼女から出てきたこともあるため、彼の行動を注視しているようではあるし、彼と同じ時間を共有することを嫌っているわけでもなさそうだが。
今日も今日とて、そうなるはずだったのだが、宿に戻る途中で、白の少女は思いもよらぬ者に、思いもよらぬ呼び止められ方をされる。
「天使さん! マユのお母さんを助けて!」
つい最近にも聞いたような……聞き間違いだと思い聞き流していた呼び方で白の少女を呼び止めたのは、非能力者の幼い女の子だった。
自らをマユと名乗り、母を助けてほしいと用件を表明してきた彼女に白の少女は見覚えがなかったが、こちらが敢えて問わずとも子供であるマユの口はよく回り、大体の情報を得ることができた。
「お姉さん、天使さんでしょ? お母さんがくれた絵本に出てきたから、マユ知ってるの。白いお洋服を着てるから、すぐに分かったよ。お願い! マユのお母さんを助けて!」
マユは白の少女を知っていたわけではなく、絵本で見た天使と良く似た彼女なら、助けてくれると思い接触してきたにすぎなかった。
人目の多い公道で、子供特有のよく耳に入る声で「お母さんを助けて!」と何度も叫ばれては、注目の的になってしまうのは火を見るよりも明らか。
黒の青年は白の少女に目配せをし、宿へ向かう足を進めた。
ひとまず宿の中へ入り、詳しい用件は部屋で聞こうという算段だろう。
白の少女へマユの対応を任せたのは、下手に自分が口を挟み、万が一にもマユを泣かせてしまうようなことがあれば、一気に周囲の目を集めてしまうと危惧したからだと思われる。
目論見通り、白の少女に諭されたマユは、喋ってしまわないよう自分の口を両手で塞ぐという、見て分かり易く「喋らないよ!」とアピールする。
その手に、いくつかの擦過傷があった。
マユの目線に合わせ膝をついていた白の少女は、手だけではなく足にも、同じような真新しい傷を見付ける。
白の少女は部屋に入ると、さっそく口を開こうとするマユを有無を言わせずソファに座らせた。
今一度マユが「お母さんを助けて」と懇願し、その懇願をするに至る経緯を必死に伝えようとするあまり無意識に身振り手振りを交えようとするのを、やんわり諌め器用に手当てを進めた。
能力を使ってしまえば一瞬で済むのにと思わないでもないが、それを黒の青年が黙認するとは思えず、大人しく常識的な手当てをするに留めた。
マユの説明は、話す順番や稚拙な言葉選びのせいで、常人であれば理解に苦しむ内容だったと言える。
だが、白の少女、そして黒の青年はその常人とはやや異なり、寧ろ慣れている類いの人間で、幼い言葉を要約し足りない部分を推測で補えば、自ずと理解できた。
簡潔に結論を述べてしまえば、何者かに連れ去られた母を助けてほしい。ということで、その何者かは研究所に関する者達だと、白黒の二人は察することができた。
非能力者であるマユから、微かにだがラクリマの名残が感知できた。
とすれば、マユの母はアダマントである可能性が濃厚で、アダマントを連れ去るような者といえば、答えは言うまでもない。
マユが連れ去られなかったのは、彼女が非能力者だから、ではない。
非能力者である研究者等は、自分達とアダマントを区別する術を持たない。
これもマユの言葉から読み取るに、母がマユだけは逃がそうと、クローゼットの中に押し込み衣類で覆い隠したことで難を逃れたそうだ。
マユの怪我は、母を助けてくれる人を探している内に何度も転んだためにできたものだった。
事情を把握した白の少女が、聞かなかったことにできるはずもない。
マユの懇願を聞き入れ、母を助けに向かう意向を示せば、マユは安堵した笑顔を浮かべ、白の少女に抱き付いた。
ここで、一つの問題が生まれた。
母の救出に向かうのはいいが、マユをどうするか。
白の少女は母の容姿を知らない。かと言って、マユを研究所に連れて行くのも気が引ける。
黒の青年と部屋で待機してもらうという案は、浮かんだ瞬間に黙殺した。
どうするかと思案する白の少女だったが、その時間はマユの「マユも行く! 絶対行く!」という強い意思表示により、無意味と化した。
説得する時間も惜しく、致し方ない。絶対に側を離れないことを条件に、マユを連れて研究所に向かうことに決定した。
白の少女は、一抹の不安を感じていた。
言葉を取っても、行動をとっても、マユはとても純粋だ。彼女の言葉に、偽りが紛れる余地はない。
だからこそ、天使が登場する絵本についてマユが「お母さんが読んでくれた絵本」ではなく「お母さんがくれた絵本」と言った、そんな些細なことが、やけに気になってしまった。
この歳の子供になら、本をあげて終わりではなく、読み聞かせたりするものではないのか。
決め付ける気はなくとも、気付いてしまった今、違和感を持たずにはいられなかった。
今はただ、母の無事を願う優しい子供の思いが報われるよう祈るだけだ。最悪のもしもがあるかもしれないことを念頭に置きながら。
そして、マユの母が捕らわれていると思われる研究所へ向かおうという道中。
マユは白の少女の名前をしきりに聞きたがった。
返答をしない、という対策は、同じアダマントであり、研究所から救い出した聡い子供達には有効だったが、そんな裏の世界に縁のないマユには通用しない。
今の状況を見ても分かる通り、教えて? 教えて? と子供らしさ溢れる好奇心に正直だ。
とはいえ、言えないのだときっぱり拒否して、何で? としつこく問われても返答に困ってしまう。黒の青年に言ったように「私と関わったら死ぬから」などと答えられるはずもない。
だが、このまま天使さんと呼ばれ続けるのも抵抗があるのだろう。何か解決策はないかと、白の少女の脳内では自問自答が繰り返されていた。
長年での慣れか、元々の性格なのか、他者から悟られるような反応はほとんどしないまでも、白の少女もさすがに苦慮していた。
そんなときだ。
「
不意に、落とされた音。あるいは文字の羅列。
それはどんな大声よりもはっきりと、どんな美しい音色よりも心地良く、白の少女の鼓膜を揺らした。
「しら、ゆき? それが天使さんのお名前?」
「あぁ」
「綺麗なお名前! 白雪お姉ちゃん!」
無邪気に喜ぶマユの声と、黒の青年の短い返答の声が、遠い。
白の少女は、繋いでいたマユの手を無意識に離し、口元を手で覆っていた。
しらゆき。白雪。その音が頭の中で浮かんでは、体に馴染むように溶けていく。
黒の青年が、白の少女の名前だと言ったその音は、彼女の名前ではなかった。
それなのに、白の少女は何の疑問も抱かず黒の青年に顔を向けたとき、愕然とした。
自分の名前ではないそれを、自分の名前だと、瞬時に認識していたことに。
「どうしたの?」
異変を敏感に感じ取ったマユが、白の少女を仰ぎ見て首を傾げる。
じっと見上げてくる幼顔を見下ろしながら、雲隠れしていた理性に顔を見られてはいけないと諌められ、徐々に冷静さを取り戻した白の少女は何とか首を振り、何でもないと伝えた。
黒の青年は助け舟を出してくれたのだろう。偽名があれば今後同じようなことがあっても対処し易いだろうから。
そうとしか思えない理屈に一人納得し、白の少女は黒の青年へ視線を注ぐ。
「…………」
彼は、何も言わない。ただ、笑みを浮かべているだけだった。
とても優しい……。優しい、微笑みを。
「泣いてるの?」
マユからの問い掛けの意味を、一瞬飲み込めなかった白の少女だが、自分の目から零れるものはないと、また首を振る。
涙は出ていない。それなのに腑に落ちてしまうのは、何故なのだろう。
「俺にも……」
隣立った黒の青年が、白の少女にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
名前をちょうだい。
「何か、いるな」
研究所へ辿り着くと、眼前には正面入口……だった空洞が、大口を開けて三人を待ち構えていた。
目を細め、強引に破壊された扉の残骸を横目に見た黒の青年は、特別な緊張感もなく率直な意見を述べる。
その隣で、白の少女は幼いマユに気取られない程度に警戒を強め、彼女の肩を抱き寄せた。
「私から離れないで」
白の少女の強い口調に驚いたらしいマユだが、幼いながらに言うことを聞かなければいけない、煩くしてはいけないと感じたのか、言われるまま白の少女の腕にしがみ付いた。
その行動を褒めるように、空いた手で軽くマユの頭を撫でた白の少女はまた沈黙し、研究所へ歩を進めた。
地下へ続く扉……こちらも例外なく破壊され、その向こうから、地鳴りのような不気味な音が聞こえてきた。
恐ろしいのだろう。マユはしがみ付く力を強めた。
「何なのよ、あの人!」
「なぁ、あれヤバイんじゃないか? 下手したら殺しちまうんじゃ……」
「知らないよそんなこと! それより今は逃げるのが先!」
近付いてくる音が大きくなると、そんな切迫したやり取りが聞こえてきた。
白の少女等の進行方向から、こちらへ向かって走って来る集団。地鳴りを思わせたのは、彼等の足音だったようだ。
性別、年齢と違いはあれど、共通しているのはアダマントだということ。
走り去ろうとする彼等にわざわざ確かめずとも、彼等が逃げ出すチャンスを得て必死に脱走を試みている最中であると分かる。
問題はそんなことではない。
問題なのは、そのチャンスは何故生まれたのか。もしかしなくとも、それは彼等が口にした、「殺しちまう」ようなことをする誰かが生んだ転機だろう。
彼等の様子を見る限り、ただの聖人ではないようだが。
必死の形相で通り過ぎて行ったアダマント達を素通りし、地下に到達すると、嵐でも起きたかのように荒れた室内で、震える一人の女性を見つけた。
「お母さん!」
女性の正体がマユの母であることは、彼女の呼び掛けにより判明。
マユの登場に、母は目を見開き驚いたが、両手を伸ばし駆け寄って来る娘を、咄嗟に抱きとめようと両腕を広げた。
あのとき、白の少女はマユへこう言った。
私から離れないで……と。
一瞬の轟音が、空を切る。
「……無理か」
黒の青年は独り言ち、床を蹴った。
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