第7話 優しい出会い②
サユリは昔から臆病な性格だった。
周囲と違う意見を持っていても、嫌われること、怒られること、馬鹿にされること。傷付けてしまうことを恐れ、言いたいことを声にする勇気も、行動に起こす勇気も持てずにいた。
『アダマントは化け物なのよ』
幼い頃から呪文のように何度も聞かされた母の言葉は、実体験からの結論ではなく、世間の常識を丸呑みにしただけの、中身のない安っぽい器だったが、幼い彼女には酷く恐ろしい言葉に思えた。
アダマントという個性を持つ人間。その命を簡単に否定する、形のない凶器に。
サユリには歳の離れた兄がいた。
物静かで、頭が良くて、表情はあまり動かず、笑顔など数える程度しか見たことがなかったが、いじめに遭いやすいサユリをいつも助けてくれる優しい兄だった。
その日の出来事を話さなくても、実際に見ていたかのように全ての事情を把握し、解決してくれる。
サユリにとってヒーローのような存在だった。
そんな兄は、いつも空を眺めていた。
悠々と雲が浮き、たまに鳥が横切っていく静かな空を。
当時のサユリには、兄がどんなことを思っていたのかは分からなかったが、今は少しだけ分かるようになった。
無表情な兄の目にあったのは、怒りや悲しみではなく、虚しさだ。
母にお決まりの言葉を言われた後は、必ず空を見上げていた。
兄の心情など知り得ないサユリであったが、そんな兄の姿を見ると何故か悲しい気持ちになった。
けれど、だからと言って兄にかけてやれる励ましの言葉など浮かばず、浮かんだとしても言う勇気もなく。子供らしく、考えなしに抱き付いて「大丈夫だよ」などと根拠のない励ましを言うこともできず、側で木のように立っていることしかできなかった。
『お前はそのままでいろ』
兄はそう言って、家を出て行った。
幼かったが故に、顔は朧げにしか覚えていないサユリだったが、彼の声の優しさと声の真摯さは、忘れることはなかった。
分かっていたことだった。自分は兄の支えになるには力不足で、何の取り柄もない弱虫な子供だと。
分かっていても、サユリはそんな自分が情けなくて堪らなかった。
優しくて、大好きな……アダマントの兄。
行かないでと彼の手を掴めば、何かが違っていたのだろうかと、後悔していた。
非能力者の自分が、アダマントの兄を求めていれば……と。
もっと行動で示していれば。きちんと言葉にしていれば。兄の虚しさを少しは埋められたのではと。
悔やんで、悔やんで、サユリは人生で初めて、思い切った行動を取った。
兄のように、家を出る。
母の呪文の言葉を聞いては、兄への後悔の念を強く刺激され、サユリの心は限界だったのだ。
「や、め……て」
家を出たのは、勇気か、愚行か。
今、動くことができるなら、どちらでも良かった。
暴力を振るわれているヨシヤを、助けに行けるなら……。
「動いて……動いてよ」
自分の意思を示し、立ち向かっていったヨシヤが殴られているというのに、自分は弱虫で体が震えて動かない。
制止しようにも蚊の鳴くような声しか出せず、悲鳴を上げて助けを呼ぶこともできない。
「やめ、て。やめて……ヨシヤ君っ」
心の中では自分の気持ちを叫べるのに、いざ声に出そうとすると頭の中が真っ白になり、陳腐な言葉しか浮かばない。
届かない制止の声が、若者等の笑い声にかき消されるだけ。
ヨシヤが助けようとしたアダマントの少年は、とっくに逃げてしまっている。
「やめて……っ」
自分の不甲斐なさに零れそうになる涙を堪え、漏れた嗚咽と共に吐き出された制止の声は、少しだけ大きな声になった。
それでも、若者等に届くことはなく……。
耐えきれず涙が零れた、そのとき……。
「……え?」
見知らぬ黒尽くめの青年が現れ、ヨシヤを囲む若者等をいとも簡単に引き剥がしてしまった。
「何すんだてめぇ!」
二度目の乱入者に苛立った若者は、苛立ちに任せ黒の青年に殴りかかるが、黒の青年は半身を翻して避けると、腕を捻り上げ地面に投げ倒した。
平静としているのは黒の青年ばかりで、彼以外の者は唖然と固まってしまった。
黒の青年は、残りの若者等に振り返り、言い放つ。
「失せろ」
黒の青年の一言で、若者等は本当に化け物でも見たかのように悲鳴を上げ、倒された若者を連れ逃げ出した。
逃げる若者の一人にぶつかったサユリの手から、風船が離れ、ケーキ箱が落ちてしまう。
「……あ!……え?」
しかし、ケーキ箱は傾いて落ちる前に宙で静止。
サユリは目を丸くして口を開け固まってしまった。
それもそのはず。今、彼女の前では、ケーキ箱の下でのみ発生した風が小さな渦を作り、傾きと落下を防いでいるのだから。
浮遊するケーキ箱を茫然と眺めていると、白く華奢な手が伸びてきて、ケーキ箱の下に潜り込んだ。
その手がケーキ箱を支えると、風は溶けるように止み、サユリはようやく我に返った。
手が伸びてきた先に、ブリキの人形のようにぎこちなく視線を動かせば、フードを目深に被った、真っ白な少女が佇んでいる。
幽霊? と一瞬でも思わなかったわけではない。しかし、それよりも強く結び付いたものがあった。
「天使、さん?」
いい意味で純粋、悪い意味で幼稚な、第一印象だった。
僅かに首を傾げた、かもしれない。サユリにケーキ箱を差し出す動作以外、白の少女の機微はそれくらい微かなものだった。
サユリよりもやや背が高い少女は、顔を隠していることの他に、特別変わったところはないが……。
白の少女の纏う雰囲気が、常人のそれとは違うのか。不思議な存在だと、サユリは目の前の少女に魅入っていた。
「いつまで呆けているつもりだ」
「……!」
その時間は、長くは続かなかった。
聞こえてきた威圧的な声に、サユリの体は大きく震える。
「早く取れ」
「ひ、ひゃい!」
黒の青年にとっては“ほんの少し”圧をかけただけのつもりでも、サユリにしてみれば腰が抜けてもおかしくはない圧力だ。
悲鳴と返事が混じった声を上げ、サユリはすぐさま白の少女の手からケーキ箱を受け取った。
「あぁ、あ、の……」
礼を言わなければと自分を急かすサユリだが、焦りから呂律が回らず、声は言葉の形を得ない。
礼の一つも言えないことに顔を青くするサユリをよそに、白の少女はそっと空に指先を伸ばした。
柔らかな風が吹き、背後からサユリの頬を撫で、癖のあるショートカットの髪を揺らす。
「……え」
何度目か分からない驚きだった。
風が、まるで母の元に帰ってきたかのように白の少女の手に集まり、ある物を運んできたのだ。
白の少女の指先は、飛んでいってしまった花の形をした風船の紐を掴んでいた。
もう、驚くだけ無駄だ。ケーキ箱を受け止めた風も、風船を手元に運んだ風も、全ては白の少女の能力が起こしたもの。
サユリは、目の前にいる少女がアダマントなのだと、理解した。
ケーキ箱と同様に差し出された風船を、今度はきちんと受け取り、絶句する。
アダマントである白の少女は、サユリが非能力者であると分かっているはずだ。にも関わらず、能力を使った。
それがどれほど危険なことか、サユリにも分かる。
ケーキ箱が落ちないように。飛んでいった風船を取り戻す為に。
そんな些細なことの為に……非能力者であるサユリの為に、自らの身を危険に晒すなんて。
白の少女も理解しているのか、ケーキ箱と風船をサユリの手に戻すと、用は済んだとばかりに足早に立ち去ろうとした。
最後に、茫然とこちらを見つめるヨシヤを一瞥してから。
「……っあ、あの!」
その一瞥の意味を自分なりに読み取ったサユリは、堪らず声を上げていた。
サユリにしては、ここ最近、下手をすればここ数年で一番大きな声で、立ち去ろうとする白の少女を呼び止めた。
言わなければ、絶対に兄のときのように後悔すると思い。
必死さを感じたのか、白の少女は歩みを進めようとした状態ではあるが足を止め、顔だけでサユリを振り返った。
白の少女に続こうとしていた黒の青年も、サユリへ視線を向ける。
「……あ、のっ……あ、あり……あり、が……」
黒の青年の視線は重く、声が思うように出なかった。
彼の視線の意味を、サユリはこう考えた。非能力者であるサユリが、アダマントである白の少女を傷付けようとしないか、言動に注意を払っているのだと。
去り際に「早く彼の手当てをしてあげて」と訴えるようにヨシヤを一瞥した、そんな優しい少女が悲しむことがないように。
全て推測の域を出ていないが、サユリにはそう思えたのだ。
黒の青年の目にはどうしても怯えてしまうが、彼はヨシヤを助けてくれたのだ。彼だって、恐い人間ではないはずだと。
「ありが、とう……ございましたっ」
やっとのことで絞り出した声は、見事にひっくり返ってしまった。
ケーキ箱で片手が塞がっている状況では深々と頭を下げることはできず、白黒の二人に視線を固定したままの感謝となった。
白の少女は返事をしない。黒の青年も沈黙を保っている。
フードを被っているため顔は見えず、表情を窺うことはできなかったが、見られている、見定められていると、サユリは固唾を飲んで白の少女を見つめ返した。
「…………」
黙したまま、白の少女はサユリに向き直る。
口唇は動かない。表情も分からない。何を考えているのか、まるで読み取れない白の少女が取った行動に、サユリとヨシヤは言葉を失った。
先程、サユリができなかったこと。ありがとう、という言葉と共に、頭を下げること。
白の少女は、まるでサユリがしようとしていたように、深々と頭を下げたのだ。
白の少女から言葉はない。サユリとヨシヤは、彼女の行動から心情を読み取らなければならないが、それが正解であるかは、彼女本人にしか分からないこと。
しかし、サユリとヨシヤにはそうとしか思えなかった。
ありがとう……と。
白の少女に、言われたような気がしたのだ。
「……ヨシヤ君」
「何……? サユリ姉」
白黒の二人が立ち去った後、ベンチでヨシヤの手当てをしながら口火を切ったサユリの目からは、涙が溢れていた。落ち着いた調子で返事をするヨシヤの目にも、涙が光る。
「私、非能力者とか、アダマントとか、そんなので否定されるの……否定するの、嫌で……」
「うん」
「でも、それを言ってどう思われるか恐くて……。信じてもらえなかったらって、恐くて……」
「うん……」
非能力者はアダマントを忌み嫌い、故にアダマントは簡単に非能力者を信じない。敵ではないと、言葉にされたとしても。
「信じてもらえたなら……嬉しいなぁ」
サユリの泣き笑いに、ヨシヤも同じ面持ちで頷く。
「帰ろう。俺達を信じてくれた、みんなのところに」
荷物と花束を抱えたヨシヤに、サユリは涙を拭って笑うのだった。
二人の帰る場所は、アダマントを保護する為の施設。
差別を嫌う非能力者が立ち上げた、本日一周年を迎える秘密の隠れ家だ。
「いいのかい? 下見に行かなくて」
「えぇ」
もう、必要なくなったから。
黒の青年に答える白の少女の声は、心なしか嬉しげだった。
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