第6話 抱くもの②
白の少女が灰色の青年と出会ったのは六年前。
彼女は自分の名前以外、何も持っていなかった。
帰る家も、家族も、彼女にはない。
そもそも、彼女は親の顔も、故郷も知らなかった。
記憶、思い出すら、彼女にはなかったのだ。
眠っているときの真っ暗な視界。
どこかへ行きたい、行かなければならないという強い感情。
死んでいるかのように動かない体。
ときおり意識が浮上し、薄ぼんやりとした視界で何とか人の形を認識し、ほんの僅かな解放の安らぎの後、暗転。
あえて自分の中にある記憶というものを語るなら、それが彼女にとっての一番古い記憶だった。
物心つく以前のその記憶はあまりにも朧げで、赤ん坊だった彼女を育ててくれたのだと思われるその人が、親だったのかさえ分からなかった。
育ててくれた人。育てられた場所。知らぬ間に失っていたそれらを確かめる術は、ない。
「……さてと。まずは風呂だな。で、そのあとは飯だ」
雪が降る中、帰る場所もなく座り込んでいた彼女へ声をかけたのは、灰色の青年。
短い人生の中で目にした大人に分類される人間の中で、彼は最も強そうに見えた。
身長や体型から受ける印象だけではなく、言葉に形容し難い、雰囲気のようなものが、彼女にそう思わせた。
穏やかで、気安い。本当の妹にでも接するような態度の灰色の青年に誘導され、彼女は生まれて初めて湯に浸かるということを体験した。
肩まで浸かって温まるまで出るんじゃないぞ。
そう言われ、温まるまでとはどのくらいなのかと首を傾げる。
結果的にタイミングを見誤り、のぼせてしまった彼女だが、無事に灰色の青年に発見され大事には至らなかった。
「……すみま、せん」
ソファへ運ばれる間も、介抱されている間も。彼女の口から出るのは、謝罪の言葉だけだった。
初めて彼女の声を聞けたというのに、子供らしくない謝罪ばかり。
灰色の青年はその凛々しい相貌を歪め、彼女の頭を撫でた。
「俺が勝手にお前を連れて来て、勝手に風呂に入れて、勝手に介抱してるだけだ。謝るな」
一人では風呂にも満足に入れなかった彼女を哀れんでいるのか、幼い彼女が大人びた謝罪ばかり口にすることを悲しんでか。
灰色の青年は悲痛な面持ちで彼女の小さな手を握った。
「……俺が恐いか?」
彼女には、圧倒的に知識が足りない。知らないこと、分からないことが多い。けれど、彼女は聡明だった。
たった一つの問いで、灰色の青年が何を聞きたいのかを、正確に読み取った。
「いいえ」
彼の手を握り返し、何の飾りも纏わない端的な否定を返す。
言葉通り、恐れの欠片も宿らない、澄んだ空のような美しい瞳で見つめてくる彼女に、灰色の青年の表情が和らいだ。
「そうか」
拾われ、助けられたのは彼女の方だ。
それなのに、まるで助けられたのは自分であるかのように、彼の表情には安堵が浮かんでいた。
灰色の青年が、自分は彼女に恐れられているのではと思うのは、一般論的に考えて当然の心理と言えた。
何故なら、彼女はアダマントであるが、彼は非能力者だったからだ。
非能力者がアダマントを恐れるように、アダマントも非能力者を恐れている。
たとえ優しくされようと、無害そうな笑顔を向けられようと、アダマントは非能力者を警戒するものだ。
裏切られ、どんな目に遭わされるか分かったものではないから。
「俺は誓って、お前を傷付けない。信じろなんて押し付けがましいことは言えねぇから、お前が勝手に判断して、信じてもいいと思ったとき信じてくれ」
灰色の青年は憂いているのだろう。非能力者とアダマントの対立を。
彼女からすれば、決して当然ではない選択の自由を与え、穏やかに微笑む彼は、こんなにも対等に接してくれるのに。
世間からは、その思考は受け入れてはもらえなかったのだろう。
「俺は
「……それ、何?」
「ん? あぁ。呼び方のことか?」
それ、と指摘されたものが何であるのか、見当がつくものといえば“雪ん子”という呼び方くらいで、間違っていないかと問えば彼女は頷いた。
「雪の日に出会った子、ってな。単に雪が似合うと思ったってのもある。まぁ、嫌じゃなきゃそれで返事してくれ」
灰色の青年、煌也は彼女の頭を撫で、歯を見せてからりと笑った。
「よろしく。……コウ」
少しでも、彼の憂いを消してあげられたなら。
その一心で、彼……非能力者と共に過ごす意志を、言葉で示す。
そんな彼女に、煌也の瞳がほんの僅かに揺れた。
誤魔化すように一つ咳払いし、彼は茶化すように言うのだ。
「あー。あとな、謝るにしたって、あんな謝り方すんな。丁寧に謝るなら、ごめんなさいくらいにしとけ。その方が固くなくていい」
頭を行き交う煌也の手の感触を、この静かな時間を、彼女は一生忘れないだろう。
煌也は、彼女に多くのものを与えた。
知識を得る為の本を。身を守る為の手段を。食べたことのない甘い菓子を。柔らかなベッドを。苦痛のない時間を。
惜しげもない慈愛を。
数えればきりがないほど、彼女は煌也から与えられた愛で満たされ、生かされていた。
気付かされることも多かった。
一緒に食事を摂れば、子供であることを抜きにしても随分と食が細いこと。腕力は弱いが、以外と体力があり運動神経がいいこと。
花屋を営む煌也の仕事を手伝えば、植物や花が好きだと気付いた。
自分のいいところを見付ければ向上させようとすることもできたし、悪いところを見付けたなら、時間が掛かろうとも改善に努めようとすることを応援された。
彼女が一人の人間として成長することを許されているのだと感じれば感じる程、大人に守られているのだという実感を彼女に与えた。
親と子。兄と妹。はたまた男女の壁を越えた友人。
どの関係に当てはまるかも分からない二人だが、そこには無償の愛があった。
それは奇跡のように尊いものだとに知りつつも、この時間は永遠に続くのかもしれない。
煌也は、そう思わせてくれる程の加護を与えてくれた。
…………それでも。
「はじめまして」
幸せな時間は、唐突に終わりを迎えた。
煌也と彼女の住処に、一人の来訪者が現れた。
彼よりも若い……いや、幼い少年だった。
煌也は来訪者を部屋に招き入れもせず、何故かそのまま玄関で話を初めた。
部屋の中にいた彼女には少年の姿は見えなかったが、人当たりの良さそうな話し声を聞き、同胞である証拠のラクリマを感じ取り、煌也に害を与えるような相手ではないだろう。
……そう、安堵できると思った。
しかし、実際にはそんな安堵感は微塵も湧いてこず、言いようのない不安感が彼女の背にのしかかる。
煌也が話をしているのは誰なのか。自分は、煌也にとって少年が危険だと感じているのだろうか?
聞こえてくる声だけでは何の確証も得られず、彼女は意を決して部屋から出て少年の姿を確認することにした。
「はじめまして」
彼女に向けられた挨拶は、まるで彼女の行動を読んでいたかのように、スムーズに少年の口から発せられた。
少年の姿を目にした彼女が感じたものを、彼女自身すら正確に表現するのは困難であった。
恐怖のような荒波とも言えたし、諦観するように凪いでいるとも言えた。
少年の笑顔は美しかった。
咄嗟に取り繕ったような歪さはなく、目元や口角はお手本のように笑顔の型にはまっているし、眉の角度から声のトーンに至るまで、全てが完璧だった。
そう。完璧に作られた笑顔だ。と、彼女は感じた。
そして感じた直後、少年の笑顔に微かに深みが増した。その深みは、彼女には歪みに見えた。
抑えきれなかった何らかの感情が、表情に滲み出たような……そんな何かを、見てしまったのだ。
思考が沈んでいく。体が震えだす。視界が霞む。
理性が、ほつれる。
「雪ん子!」
彼女は少年に背を向け、驚く煌也の声も振り切り、部屋に駆け込んだ。
「おはよう」
少年の声は大きくはなかったのに、彼女にはやけによく聞こえた。
部屋に閉じ籠り、内側から沸き立つエネルギーに理性を断ち切られ、押し流される。
彼女のラクリマは、暴走した。
逃げたい。隠れたい。消えてしまいたい。
突然そんな感情が暴れ出し、彼女を支配した。
「……大丈夫だ。雪ん子、大丈夫だ」
部屋に残る風の刃の傷跡は、おぞましい数だ。
ボロボロになりながらも、震える彼女を抱き締め、大丈夫だと何度も唱えてくれた煌也がいなければ、ラクリマの暴走は収まらず家そのものを壊していただろう。
何度も大丈夫だと囁かれ、ようやく落ち着けば、彼女はごめんなさいと何度も頭を下げた。
二つの能力を持つ彼女だが、当時は巻き戻しの能力を自分が受けた傷にしか使えず、他者の傷を自分に移し治すことができなかった。
傷付けてしまった。癒してあげられない。
離れなければ、と。
ここにいてはいけないと。彼女はそう思った。
後悔に苛まれる彼女に、煌也は大らかに笑う。
「大丈夫だ。お前は俺が守ってやる」
俺がずっと、側にいる。
煌也はいつだって、頼もしく、優しく、嘘をつかない人だった。
不安は拭えなくても、彼女が彼を疑ったことはなかった。
しかし、それから一ヶ月もしない雨の日。
煌也は少年に……巧馬に殺害された。
『君と関わったからだよ』
煌也を殺害した巧馬は、そう言って平然と笑っていた。
正直者だった煌也の言葉が、二つだけ嘘になった。
ずっと側にいると言ったこと。それから、今際の際に残した言葉。
『また会えるさ』
死んだ人間に会う方法など、あるはずがないというのに。
「あの人の目的は今でも分からない。コウを殺した理由も……。私が理由になったのは何故なのか……分からない。唯一分かるのは、いずれあの人と再会することになるだろう未来だけ。私が十六歳を終える頃……迎えに来ると言っていたから」
葛藤や、苦悩。そういった感情を見せてくれた方が、黒の青年からすれば寧ろ安心できたのだが、白の少女が自分について語る様は、存外落ち着いて見えた。
白の少女と黒の青年が関わってしまった事実を覆すことは、もはや不可能で、今から側を離れようと彼は狙われるだろう。
故に白の少女は、黒の青年を狙う脅威と、かつてその脅威に狙われたのがどんな人だったのかを、打ち明けることに決めたのだ。
「私は自分の年齢を知らない。でも、あれからもう五年経った。多分、十六歳なんてとっくになってる……。だから、きっと……」
徐々に細くなる声には、強い自責の念が込められている。
最も最悪な時期に、最も最悪な形で、黒の青年を巻き込んでしまったと。
「ごめんなさい……。巻き込んで、ごめんなさい……」
自分の痛みはそっちのけで、他者ばかりを気遣う白の少女が、黒の青年は気掛かりでならない。
彼がどんなに、巻き込まれたのではなく自分から首を突っ込んだにすぎないと考えていようと、彼女は納得しないだろう。
黒の青年は「いいや」と簡単な否定をするに留め、白の少女の頬に指先で触れた。
まだまだ繊細な繋がりを、壊さないように。
そっと目元に向けて指先を這わせる。
指先を揺らす雫は、そこにはなかった。
「……泣いてない」
「そうだね」
いっそ、泣いて縋ってくれたなら。
そんな怒りを買いかねないことを考えながら。
黒の青年は思うのだ。
白の少女が他者の為に胸を痛めるのなら、自分は彼女の痛みに寄り添おう……と。
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