第6話 抱くもの①
人間として生まれようと、それ以外の生き物として生まれようと。
自分と自分以外の誰かに違いがあることは、おかしなことではない。
外見、思考、価値観、生まれ持った何か、欠けている何か……。
他者と同じものもあれば、似ているもの、全く異なるものもあるだろう。
髪の色、肌の色、顔立ち、体型、性別。
好き嫌いや、得意不得意。例を挙げればキリがないくらいに。
“違う”ということは、他者と“同じ”であることと同等の重みがある。
違いを共有することができなくても、違いを恐れても。
戸惑っても、拒絶したいと思っても。それで構わない。
違うということを、否定さえしなければ。
否定することは即ち、生ける全ての命の中に含まれる、自分自身を否定することと同義である。
青年は心を持たず生まれた。
少女は二つの能力を持って生まれた。
白の少女は。黒の青年は。互いを否定しない。
「貴方は、私がレグノだと知っていた。それでも貴方は貴方のままだった。それは、私の貴方への答えと同じ」
彼女は彼女。彼は彼。ただ、それだけなのだ。
彼等にとっては目の前にある存在が、彼という、彼女という、一つの命の全て。
「あぁ。でもね……」
自嘲の消えた美しい笑みで、黒の青年は言う。
「順序が逆なんだ。それは元々、君が俺に向けてくれたものだった。だから俺は俺を受け入れられた。失くしても構わないと思っていた命を今日まで生かしてくれたのは……俺を人間にし、人間でいさせてくれるのは、君なんだ」
黒の青年の目には、言葉通り、人間らしい熱が宿っていた。
世界とは何か。
青年は幼少の頃、そんな漠然とした疑問を持っていた。
例えば空は青、火は赤、葉は緑というふうに、色の付いた景色を。人間を初めとするあらゆる動植物を、世界と呼ぶのだろうか。
言葉を交わし、触れ合い、それにより生じた感情の一つ一つが築く、他者との関わりを世界と呼ぶのだろうか。
そのどれかが、世界なら。もしくはその全てが世界なのだとしたら、自分には世界などないのだと思った。
空がどんな色をしていようと、人がどんな表情をしようと、何を話そうと、彼はそれ等に対して関心を示すことができなかったから。
美しい景色を見たとき、野良猫の死体を見たとき、母親に褒められたとき、理不尽に殴られたとき。本来どんな感情を抱くべきなのか、理解はしていた。
けれど、彼は自分の感情として持つことはできなかった。
まるで、世界というものから拒絶されているかのように。
自分はこの世界では異物である。
それが彼の出した結論だった。
物心ついた頃には芽生えていた正体不明の違和感は、自分が本来この世界で生まれるべきではない存在であるからだ、と。
彼は父を知らなかった。もう死んでいるのかも、どこかで生きているのかも、どんな顔で、どんな人物なのか。知ろうとする気さえ起きなかった。
彼にとって、家族という枠組みに当てはまるのは母だけである。
亜麻色の髪と、線の細い体。柔らかく浮かべられた微笑が、母の特徴。
それともう一つ、口を利けないこと。
生まれつきのものなのか、病気によるものなのか、彼には知る由もない。それでも、母が言いたいことは不思議と分かった。
母の手料理を口にしているときは、不味くはないか問いたそうにしている。
彼は自分がどう感じているのか分からなかったが、食べられるということは、少なくとも不味いとは感じていないのだと思うことにした。
母は、食事を続ける彼を見つめ微笑んでいた。
母と二人、彼にとって何も変わらない日々が続いたある日のこと。
いつもの夕暮れ時、荒々しく戸を叩く音がした。
「……た、助けてくれ!」
母が慌てて戸を開けると、一人の男が身を滑り込ませてきた。
よほど慌てているのか、額には大粒の汗が光り、息は乱れ、呼吸音は渇いていた。
歪められた眉、落ち着きなく揺れる目と、震える唇。
戸惑う母に男は視線を向け、目を見開いた。
「ちくしょう! 同胞の気配がすると思ったのに、袋の鼠じゃねえか!」
血走った目は、憎々しげに母を捉えた。
まだ状況把握に努めている彼は、男の言った言葉の意味も、母へ向ける視線の意味も分かりはしなかったが、母は違った。
首を横に振り、“違う”と訴え始めた。
何を否定しているのか、それも分からぬ彼と、通じた男。
しかし男は、母の訴えを信じようとはしなかった。
「そうやってお前等は俺達を騙すんだ! 俺達を蔑んで、あいつらに引き渡すんだ!」
もうお終いだ。男がそう叫んだときだ。
テーブルに置かれていたコップの水が、何十倍にも体積を増やし、空中へと勢い良く飛び出した。
「……もう、駄目だっ」
男は頭を抱え、膝を付く。
空中へと飛び出た水は勢いを増し、母へと向かっていった。
まともにその身に受ければ、か弱い母の体は簡単に弾き飛ばされてしまうだろう。
こんな場合、どうすればいいのか。
実の母にさえ助けたいという気持ちは湧かなかったが、息子である自分は母を助けなければいけないという使命感が、彼を動かそうとする。
だが、彼の小さな体では母を庇うことなどできはしない。
どうすれば母を救えるのか。そうを考えたとき、彼は悟った。
「……そうか」
母を救う方法も、自分が取るべき行動も。それを成し得る自分が、“どちらなのか”も。
「ぐあっ!」
彼は男の首を鷲掴み、仰向けに床に押し倒し馬乗りになった。
男の右腕は空いている手で押さえ、左腕は足で踏み付けて封じる。
「俺は、“こちら側”だったのか」
母へと向かった水流の間に、床から影のような物が浮き上がり、割り込んだ。
それは一滴残さず喰らうように水流を飲み込むと、瞬く間に消えていった。
「化け物と呼ばれる、生き物」
不確かでしかなかった自分正体が、初めて垣間見えた気がした瞬間であった。
それでも、彼の声に感動はない。
肩に手を置かれ、振り向くと、母が身振り手振りで奥の部屋と男を交互に指さしていた。
彼は茫然自失の男から下り、胸倉を掴んで引きずると、奥の部屋へ押し込んだ。
「助かりたければ黙れ」
早口にそう告げ、有無を言わせぬ彼に引き攣った声を上げた男を放置し、彼自身は部屋を出る。
母の元へ視線を投げれば、戸の向こう側に見知らぬ男の顔が見えた。
聞きたいことがある、と切り出した男を、母は申し訳なさそうに眉を下げ、掌を男へ向けることで続きを止めさせた。
自身の口を指差し、口を数回、開閉させて閉じ、首を振ることで喋ることができないと伝える。
男は至極面倒そうに息を吐くと、ならば首を振れ、と傲慢な態度で母に命じた。
「ここへ妙な男が逃げ込んで来なかったか? それか、外が騒がしかったとかなかったか」
首を振れと言ったにも関わらず、それだけでは答え辛い質問を並べる男に、気遣いは微塵もないのだと窺える。
母は迷わず首を横に振って見せた。
その反応に、男は見当違いにも母へ舌打ちをすると、不躾な訪問への詫び一つなく足早に去って行ってしまった。
小さく頭を下げ、不自然にならないよう急がず戸を閉めた母は、そこで漸く、ほっと安堵の息を零した。
振り向き、すぐ傍に立つ彼に気付くと、僅かに強張りの残っていた顔を緩め、嬉しげに微笑んで彼の頭を撫でた。
心配してくれてありがとう。
そう言いたいのだと、彼は直感した。
自分の取った行動には、決して母の身を案じる感情など伴っていなかったのに。
と、こんなときに感じるだろう罪悪感すら、彼は感じることができなかった。
母は少年の頭から手を離すと、テーブルの端に置いてあったスケッチブックとペンを取り、彼が男を押し込めた部屋へ移動した。
部屋へ入ると、戸惑った目が母を捕らえる。
不自然に力が入っている体は、警戒と不安を感じさせた。
今の彼なら、男のその反応の意味を理解することができた。
アダマントである男が非能力者である母を警戒するのは、不思議なことではないのだと。
母がスケッチブックを使い、男を無事逃がしてやりたいという思いを何とか伝え、最後まで半信半疑だった男が裏口からそそくさと逃げて行くのを眺め、彼は思い付く。
男を追っていたのは、おそらく研究所に関係する者だ。アダマントを調べ、実験モルモットとして扱う研究所。
そこに行けば、自分について新たな発見が得られるかもしれないと。
思い立つや否や、彼は母に何も告げることなく、散歩にでも行くかのように身一つで研究所へと向かった。
捕まることへの恐怖も、その先にあるかもしれない死への恐怖も、彼にはなかったから。
その日は、酷い雨だった。
研究所へ足を踏み入れた彼を待っていたのは、自分に敵意を持った研究者ではなく、安堵や歓喜に溢れたアダマントだった。
蜘蛛の子を散らすように外へと一目散に駆けて行く彼等を視界に捉えながら、誰かが彼等を解放したのだろうと予想する。
けれど、その何者かへの興味が湧くわけでもなく。
目的を持ってここへ来たにも関わらず、期待感も持ち得ない彼は、悠然と内部へ踏み込んで行った。
「君は……」
ようやく研究者に遭遇した。と思いきや、彼を待っていたのは研究者の捕縛の手ではなく、意識を失い伏した研究者だった。
その中で、あまりにも場違いな少女が一人、研究者の中で佇んでいる。
白い服は研究者の白衣と同じ色のはずなのに、不思議と違う色に見えた。
彼の声に少女は肩を震わせ、振り返る。
振り返ったとき、被っていたフードが外れてしまったことを気に止めることも忘れて、少女は素顔を晒したまま、彼を見つめていた。
そして彼もまた、少女を見つめていた。
泣きそうな顔をして、こちらへ目を向ける彼女を。
頬を伝い落ちた一雫は、雨の雫か。涙の雫か……。
「君は、誰だ」
そう尋ねた彼に、少女は息を呑んだ。
けれど、一度顔を伏せ、次に顔を上げたときには、もう泣きそうな顔なんてしてはいなかった。
「……貴方に、家族はいる?」
この場において不似合いな穏やかな声で、少女は問うた。
「母がいる」
何故だか彼の口は自然と動き、問われるままに答えていた。
その後のいくつかの問いにも、彼の口はすらすらと答えていく。
「大切?」
滑らかに回っていた口が途端に回らなくなったのは、そう問われたときだった。
大切だと思う心を、彼は持っていない。かといって、大切ではないと思う心さえ、彼にはない。
言い倦む彼に、少女は分かっていたように静かに微笑んだ。
「それが貴方なら、それでいい」
彼は彼女の微笑みに、ただただ、魅入っていた。
当時、本人にその自覚はなかったが、のちに彼は自覚する。
ずっと自分の中にあった、あの違和感がなくなっている……と。
思えば、少女と目を合わせたそのときから。
少女が彼の前から去り、随分と月日が流れてから。
彼はようやく思い出したのだ。
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