第4話 灰色の残像①


 それは、幸せの始まりだった。


『どうした?』


 はらはらと雪が舞い降る中。

 幼い少女に向けて、捨て猫にでも話しかけるように声をかけたのは、灰色の目を持つ青年だった。

 春であれば、色鮮やかな花が楽しめただろう花壇が見える位置の木の下で、少女は力なく座り込んでいた。

 静かに、終わりを待つかのように。


『死にそうな顔だな』


 灰色の青年の歳は二十歳に到達するかどうか、といったところだろうか。

 世の苦渋を知るのは、まだまだこれからと言ってもいい若さだというのに、やけに成熟した大人の雰囲気があった。


『死にたいのか?』


 できる限り少女と視線を合わせようと、膝を折って顔を覗き込む。

 少女は考えるように数拍置き、一度だけ左右に首を揺らした。


『生きているのが辛いのか?』


 二度目の問いに、少女はまたも首を左右に揺らす。


『……生きたいと思えないのか』


 確信めいた三度目の問いに、やっと縦に首が揺れた。

 生きているのが辛いことと、生きたいと思えないことは、どう違うのか。

 彼自身、分かっていて聞いたわけではないのかもしれない。


『……そりゃ残念だったな』


 場にそぐわない、軽薄な声は陽気で。

 ニッと口端を吊り上げた笑みを浮かべ、少女の頭に手を乗せる。


『力尽きてるとこ悪いが、俺がお前を見つけたから、このまま死なせてはやれねぇよ』


 撫でるわけでもなく乗せられただけの手から、灰色の青年の体温が少女に伝わっていく。


『生きたいとも死にたいとも思えないなら、俺が生きたいと思わせてやる。美味いもん食って楽しいことして、死ぬなんて勿体ねぇって思わせてやるよ。……だから』


 少女はされるがまま灰色の青年の手を甘受し、彼を見据える。

 目を細めた彼は、彼女を腕の中に引き寄せた。


『同じ一人ぼっちの俺に付き合えよ。雪ん子』


 陽気な声は、同じくらい寂しげな色を孕んでいるように、少女には……白の少女には思えた。







 それが懐かしい夢だと白の少女が認識するのに、しばらく時間を要した。

 ぼんやりする意識が覚醒し、瞼を開け眩しさを覚えてようやく、自分が眠っていたと自覚する。

 よほど熟睡していたのか、寝起きに感じる気怠さはなく、陽の光が心地良いくらいだ。

 常人なら、さぞ清々しい気分で一日を始めるだろうその感覚に、白の少女は喫驚し飛び起きた。


「私、眠って……?」


 狼狽しつつ、現状把握に努めようと、視界に映るものの確認を始める。

 ブランコやら滑り台といった遊具と、砂場に花壇。追いかけっこをする数人の子供達と、それを見守る大人。軽食を売る移動販売車。

 どうやら場所は公園らしいが、白の少女には自分でここへ足を運んだ記憶はない。

 彼女の最後の記憶は、黒の青年に手を取られ、いくつか言葉を交わしたところで止まっている。

 そこまで頭の中を整理し、白の少女は疑問に思う。

 そういえば、黒の青年はどこにいるのかと。そして、そう思った彼女は気付いてしまう。

 背後から、彼のラクリマが感じられることに。


「気分はどうだい?」

「……!?」


 いる……と気付いた瞬間、見計らっていたかのように声を掛けられ、白の少女の身体は振り向くと同時に後退しようとしていた。

 そうしてしまうのは、もはや条件反射としか言いようがなく、彼女が意識的に取った行動ではない。

 故に、自分が今どんな体勢でいるのかも分からないまま、白の少女は動いてしまった。

 自分は今の今までベンチに横たわっていたこと。今は上半身のみを起こしている状態であることを。

 足場の確認もせずに振り向こうとし、あまつさえ後退りしようと足を動かせば、ベンチの狭い座面など容易に踏み外すであろうことも。

 落ちる。……と、地面に身体を打ち付けることを覚悟し、目を瞑る。


「大丈夫かい?」


 けれど、予想していた痛みに襲われることはなく、代わりに降ってきたのは落ち着いた低音。

 目を開き、黒色の袖に覆われた腕一本で支えられていることを視認した白の少女はぎこちなく、頷いて前のめりになってしまった上半身の重心を後ろに移す。

 浮いてしまった腰を下ろそうとするその一連の動作さえ補助してくる殊勝な腕に、複雑そうに眉が寄る。


「後ろから声を掛けたのが悪かったね。気を付けるよ」

「……あり、がとう」


 温和な謝罪に首を振り、支えてくれたことに素直に感謝を告げる。


「どういたしまして。急に倒れたから心配した。気分は?」

「大丈夫……」

「それは何より」


 一言、二言。今までであれば相槌なり身振り手振りで済ませていたところを、スムーズとは言い難いが、会話らしい会話を白の少女がしている。

 その変化について言及してきても良さそうなものだが、黒の青年は特に触れることなく。

 あえて言うなら、常に釣り上がり気味の目尻が多少下がったくらいだ。


「こんなところで寝かせて、ごめん。俺の部屋に運んでも良かったけど……」


 恐がらせたくなかったから。

 そう、何とも紳士的に気を利かせてくれた黒の青年に、白の少女は何と返せばいいか悩んだが、彼のように気の利いた返答は浮かばず。


「驚く……。けど……恐くはない」


 取り繕うことなく、正直な感想をそのまま述べることしかできなかった。

 それだけで黒の青年は柔らかな微笑を浮かべるものだから、どうにもこうにも落ち着かない。


「座ってて」


 一言いい置いて、白の少女の隣に腰掛けていた黒の青年はベンチから立ち上がり、身を屈めた。

 白の少女は何かを拾おうとするような動作をする彼の手を目で追い、唖然とする。


「君はこのままで」

「……え……」


 黒の青年が拾ったのは黒い布……ではなく彼のコート。

 彼はそれの砂埃を払い、白の少女の膝に掛けると、どこかへ向かい歩き出してしまった。


「…………」


 膝を温める黒い布地に、白の少女は絶句してしまう。

 黒の青年は、異性の部屋で目覚めて恐がらせないようにと彼女を公園のベンチに運び、身体を冷やさないようにと自分のコートを掛け。

 あまつさえ、おそらく座っていた位置的に膝を枕代わりに貸してくれていたと思われる。

 あまりの尽くしっぷりに言葉が出なかった。


「眠いなら、もう少し横になるかい?」


 戻って来た黒の青年に気遣われるまで茫然としていた白の少女は、何度も首を横に振る。


「眠く、ない」


 黒の青年の表情は大きく変わらないが、声の調子や眼差しは雄弁で、隠すそぶりなく心情を伝えてくる。

 彼の目に心配の色を見付けた白の少女は、すぐに大丈夫だと主張し、コートを返した。


「気分は……」

「わ、悪くない」

「…………」

「本当、だから」


 実際、白の少女は眠気も感じていなければ体調も悪くない。

 あるとすれば、杞憂でいつまでも心配をかける罪悪感のみ。

 じっ……と見据えてくる金の目を見つめ返し、嘘ではないと念を送れば、黒の青年の指が目元に伸びてくる。


「そうみたいだね。顔色も良くなってる」

「…………」


 目頭から目尻にかけて目元をなぞり安堵の息をつく黒の青年に、白の少女は何度目か分からない動揺を味わい、ハッとする。

 彼が彼女の目元に易々と触れることができたのは、目元を視認できているから。

 それに、いつもは目深に被っているせいで視界に映っているフードの端が、今は見えない。


「……っ……」


 白の少女は素早く片手を頭に。もう一方の手は自身の顔の前で広げ、心許ない壁を作り顔を隠した。

 黒の青年には顔を見られてしまっただろうが、フードはズレていただけで外れてはいない。

 それだけでも幸いかと、フードを被り直し強張った肩から力を抜いた。


「隠さなくてもいいのに」

「これは、駄目……」


 分かっているくせに。と恨みがましく思ったとしても、白の少女は悪くはないだろう。

 彼女がフードを被り顔を隠すのは、他者の記憶に残りたくない、顔を覚えられたくないという思いがあるからだ。

 こんなに人がいる屋外で外すなど、彼女にとってはあり得ないことだ。

 とはいえ、そんな事情を黒の青年も理解しているからこそ、白の少女を休ませている間もフードを被せたままにしたのだろうが。


「なら、俺しかいないときくらいは外すといい。楽だろう?」

「どうしてそんな……」


 一度も黒の青年の前で外したことなどないのに、と不満が声に滲む。

 自分の前では外せるだろうと確定したように言う、その自信は何なのか。

 疑問を向けるが、言い終えるより早く無駄な問いだったと自覚し言葉が途切れた。


「……ずるい人」


 黒の青年は分かっている。

 今の白の少女は、自分から彼の側を離れる選択肢を失っていることを。

 今思えば、白の少女を一人ベンチに残したまま側を離れたのも、その隙に姿を眩まされる心配はないと踏んでいたからなのだろう。

 今の彼女にできるのは、彼を自分から遠ざけるのではなく、命を奪いに現れる存在から守る為に側にいること。

 目が覚めてから、白の少女が少なからず口を利くようになったのも、黒の青年と関わらざるを得ないと諦観したためだ。

 彼の前で顔を隠すことも、会話という意思疎通を避けることも。既に意味はない。

 心底不本意だろうと、その現実を受け入れるより他に、彼女に残された選択肢はない。

 どんなに受け入れ難くとも。

 黒の青年がそうなるよう仕向けたのだとしても。

 白の少女は、無遠慮に首を突っ込んできた黒の青年を声を荒げて責め立てたりはしなかった。

 責めるべきは、彼ではないと思っているから。


「あぁ。ずるい男だよ、俺は」


 だから黒の青年は、白の少女が少しでも彼に向け不満を零すなら、それを肯定するのだろう。

 恨み言にしては可愛らしい白の少女の言葉を肯定し、微笑一つで受け止める。

 全ては自分の我を通した結果であり、責められるべきは自分なのだと。

 白の少女が、自分で自分を傷付けてしまわないように。

 その為には、そんな内情を気取られるわけにはいかなかった。


「君は綺麗だ。ずっと隠しているのは勿体ない」


 黒の青年にとっては嘘などない本心でも、わざと軽口を叩くように言ったのは、それを隠れ蓑にしたからだろう。

 どちらにせよ、白の少女には戯れにしか聞こえない言葉だろうが。


「さて。言いたいことも、聞きたいこともあると思うけど……」


 黒の青年は、白の少女の隣に間隔を空けて腰を下ろし、いつから持っていたのか、空いたスペースに膨れた茶色の紙袋を置いた。


「君は、体が弱かったりするかい?」

「え?」


 唐突に降ってきた脈略のない質問に、白の少女は疑問符を浮かべる。


「そのせいで胃が固形物を受け付けないとか。水分量が多くて柔らかいものしか食べられないとか」

「……ない、けど」


 研究所での立ち振る舞いを何度も見ていながら、病弱な印象を持つものだろうか?質問の真意は分からないまま、白の少女は戸惑いながらも否と答える。

 すると、黒の青年は目に見えて胸を撫で下ろし「良かった」と微笑んだ。


「なら話の前に、まずは君の栄養補給が先だ」


 そう言って彼が取り出したものに、白の少女は目を丸めた。

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