第1話 白の少女②

 白の少女が単独でアダマント解放活動を始めたのは、五年近く前のこと。

 皮肉を込め亡霊と呼ぶ者や、その行いから解放者と呼ぶ者もいる。

 常時フードを被っているために顔を知る者はほとんどおらず、口を利くことさえ極端に少ないため、声すら知らない者も多い。

 名前を明かされた者などいるはずもなく、白の少女の正体は謎に包まれている。

 太陽が雨雲の後ろに昇った明朝、彼女は宿泊していた街外れの宿を出た。

 あがりかけの、純氷を細かく削ったような霧雨が、フードで隠されていない白の少女の頬をしっとりと濡らす。

 本格的な冬を迎えるにはまだ早いが、このところ肌寒い日が増えてきていた。

 天気の影響もあり、この日は外気がやけに冷たい。

 衣服に覆われていない脚や手は、色白を通り越し青白く、寒々しさに拍車を掛けていた。

 地区同士を繋ぐ舗装された道を行き、辿り着いたのは西の四十七地区。

 道に直結している街へ足を踏み入れると、街は僅かな雨音を除き、閑散としていた。

 こんなに朝早く外出する者は少ないのだろう。彼女の他に、道を歩く人の姿はない。

 東西南北、各々五十ずつある地区の中、数字が若くなるほど都心とされているため、四十七地区といえば文句なしに田舎と言える。

 都心と比べ、人々があまり慌ただしく行動しないからというのも、人の姿がないことの理由の一つだろう。

 表通りから外れ裏道を入っていくと、生気の宿る民家や商店はなくなり、廃屋が目立つようになる。


「おはよう」


 白の少女の目的地である研究所の前で、彼女に声を掛ける者が一人。


「今日は冷えるね。体調はどうだい?」


 気安く、優しく。

 彼女に声を掛けたのは、二十歳前後と思われる青年だった。

 壁に凭れていた体を起こし、彼女の傍へ歩み寄る。

 隣に立つと、男女であることを抜きにしても体格の違いをまざまざと感じさせられた。

 百八十センチメートルはあろうかというスラリとした長身であるが、筋肉はバランス良く付いているらしく、華奢ではないことが服の上からでも分かる。

 黒で統一された服は白の少女とは対照的で、同じといえば黒髪であるという点のみ。


「……着いて来ないでほしいと、言った」


 そう零す白の少女の声に抑揚はなかったが、言葉の意味からして、黒の青年がこの場にいることは彼女にとって不本意なことらしい。


「だから、“先に”来ることにした」


 しかし、黒の青年は素知らぬ顔で揚げ足を取り、当然のように白の少女の横に立つ。

 整った顔立ちをしていながらも近寄り難い印象を受ける切れ長の目は、それにしては威圧的な気配を感じさせない穏やかな笑みを作った。

 白の少女はフードを深く被り直し、改めて顔を隠す。

 引き結ばれた唇にほんの僅かに力が入ったものの、不満な顔をするでも、困った顔をするでもなく。

 彼女の心情はにわかには読み取れない。

 そもそもフードを目深に被った彼女の顔は、鼻先から下半分程度しか晒されておらず、黒の青年からは表情が確認できないのだが。

 それから白の少女は口を開くことなく、黒の青年の横をさっさと抜け出し、研究所内へ足を踏み入れた。

 たった数歩で距離を埋め、再び隣を陣取ってきた彼に、彼女は何も言わなかった。

 白の少女が黒の青年と出会ったのは、いつぞやに訪れた研究所。

 アダマントを解放する為に研究所に侵入し、研究者や警備員との交戦中に現れたのが、この全身黒一色の青年だった。

 銃口を向けられたとき、放たれるであろう銃弾を能力で弾こうと判断した白の少女が、まさに能力を使おうとした瞬間。

 彼女に銃口を向けていた男は、突如として現れた青年に殴り飛ばされたのだ。

 まず認識できたのは、“黒”。そしてその黒が鮮明になり、金の瞳を認識し、そこから感じたのは“怒り”だった。

 矛先を向けられているのは研究者であったが、背中をぞわりと寒気が走るような怒気に、白の少女は思わず身構えていた。

 研究者は彼女にとって敵と言うべき対象であるが、だからと言って命を奪うつもりはなかった。万が一にも彼が研究者の命を奪いかねない場合、仲裁に入るつもりでいた。

 けれど、黒の青年が三人目の研究者を昏倒させた頃には、その体勢を崩していた。

 黒の青年は、研究者を一撃で意識を奪った後はいたずらに甚振るようなことはせず、次の研究者に目標を移している。

 この時点で、白の少女は彼の目的がただの暴行ではないのだと判断した。

 元より、意識のある研究者は片手で足りる程しかいなかったこともあり、黒の青年の鮮やかな大立ち回りは、あっという間に終息を迎えた。

 白の少女にとって、彼の登場はイレギュラーである。

 彼は何者なのか。こんな場所に現れた目的とは何か。

 探る視線を送れば、彼は応えるように振り向いた。

 あの威圧的な鋭い目を向けられる。白の少女は、そう気を引き締めていた。

 つい今しがたまでは研究者に向けられていた、身がすくむような眼光を向けられるのだと。

 しかし、現実はそんな予測を大きく裏切った。


『俺の、名前は?』


 初めまして。とは、彼は言わなかった。

 振り向いた黒の青年は、別人かと見紛う程、穏やかに目元を緩め、口元に微笑を湛えていた。

 人格が入れ替わったとさえ思える、そのあまりの変わりようと唐突な問い掛けに、少なからず呆気に取られたのだろう白の少女は、ぎこちなく首を横に振った。

 彼女からすれば黒の青年は見覚えのない男であり、つまりは名前なんて分かるはずもなかったのだ。

 身振りで否と示した白の少女に、黒の青年は僅かに不思議そうに目を見張ったが、直後には落ち着いた微笑を浮かべ、「昔、君に助けてもらったんだ」と自ら彼女との繋がりを明かした。

 彼女にとっては覚えのない繋がりが、彼が名前は分かるかと尋ねた理由であったらしい。

 そして……。


『君の手助けをさせてほしい』


 そう続けた望みこそ、彼が今も彼女の前に現れる理由である。

 勿論、白の少女はそれを良しとしていない。黒の青年の申し出を、まず首を横に振ることで拒否したが、彼は取り合う気を見せなかった。

 助けはいらないと声に出して拒否するも、彼の反応は彼女が望むものにはならず……。

 行く先々に着いて来られては堪らないと、着いて来ないでほしいと先手を打ってもみたが、しかしながら彼のとった行動はご覧の通り。

 手助けがしたいと言うだけあって、白の少女が研究所に乗り込もうというとき、黒の青年は必ず現れた。

 今日のように、呆れてしまうような屁理屈を並べてでも。

 今日も今日とて、白と黒は隣り合っている。


「出迎えだ」


 白の少女へ向けていた穏やかな横顔が、第三者の訪れにより途端に変化を見せる。

 区別化するなら、白の少女へ向けられる表情と眼差しは温かく、第三者……研究所に属する者に向けられる眼差しは、温かくも冷たくもないというのが彼女の見解だった。

 第三者を見る黒の青年の目は、嫌いなものを見る目でも、憎しみを向ける目でもない。興味がないと、何の熱も宿っていないのだ。

 そんな眼差しを、彼は眼前の男達へ注いでいた。

 研究所内へ侵入した二人の前に立ちはだかったのは、研究者に雇われている警備の男達。

 白の少女が黒の青年と出会ったときに見た、あの苛烈な怒りも、同胞を捕らえている者達への憎しみも、彼の目には何一つ宿っていない。

 ただ、「どうでもいい」と。不気味なほどに、彼の目にあるのはそれだけだ。

 襲いかかられようと、それを蹴散らそうと、彼は無感動だ。

 その姿は、心を持たないアンドロイドか、人への情を持たない鬼か。


「な、何だこいつ!」


 黒の青年は男達を昏倒させはするが、それ以上の危害を加えないことから、少なくとも殺意はないと分かる。

 とはいえ、彼は過剰ではないにしろ容赦もなく、振り下ろされる脚にも、突き入れられる拳にも、躊躇いなどありはしないのだ。

 怯みきった男達に、殺意の有無に気付く余裕があるはずもなく。

 気付いているとすれば、戦闘中の黒の青年に背を向け、自分に襲いかかってくる男の相手をする白の少女くらいだ。


「ちっ、男の方は後だ! そっちの化け物を先にやれ!」


 白の少女と黒の青年により警備の男達の大半が倒され、焦りを見せた男達の一人は、残った仲間の二人に声を上げた。

 一人で駄目なら数で。実に稚拙な発想で、男達は白の少女へ向かっていく。

 長身で力の強い黒の青年より、少女であることから男達よりも背が低く、体格も華奢な彼女が先に狙われるのは必然。

 さて。これまで男達に興味を示さなかった黒の青年が、ある種の関心を向けるきっかけがあるとすれば、何か。


「化け物?」


 男達と白の少女の間に割り込んだ黒の青年は、掠れる程に低い声で男の言葉を反復する。

 男の一人の顔を大きな手で鷲掴むと、綿の詰まった人形のように軽々と持ち上げてしまった。

 持ち上げた男の頭を、手近な男の側頭部に勢い良く打ち付ける。

 残された一人はその光景に堪らず悲鳴を上げ後退ったが……。


「ぐ……あ、れ?」


 まっすぐ黒の青年を見ていたはずなのに、視線がいつの間にか下がっていた。

 下がった視線の先。黒の青年の代わりに自身の腹にめり込んでいる拳が、目に飛び込んでくる。

 じわりと感じる熱と共に痛みが広がり、堰を切ったように噎せ返った。

 力が入らず、立っているのもままならなくなり跪く。

 何とか顔だけを動かし彼を見上げ、男は薄れる視界と意識の中、見なければ良かったと後悔した。

 金色の目は今しがたとは違い無を表してはおらず、嫌悪と憎悪を滲ませ、自分を見下ろしていたのだ。

 足元から押し寄せる震えが全身を揺さぶり、唇が震え、歯が小刻みに合わさってガチガチと音が鳴る。

 彼が自分に向けているのは、明らかな敵意。怒りだった。


「化け者っていうのは、俺みたいな奴のことを言うんだよ」


 そう言い放つ黒の青年の声には、眼差しと同様の感情がありありと乗っている。

 あぁ、自分は何も分かっていなかった。……と、男は味わったことのない恐怖に、呆気なく意識を飛ばしてしまった。


「……じゃあ、先へ進もうか」


 白の少女へ顔を向けた黒の青年の目は、何事もなかったかのように、穏やかなものへと戻っていた。

 無関心かと思えば激情をちらつかせ。かと思いきや、さながら好青年のように微笑む黒の青年は、白の少女にとって未だに謎ばかりの人間である。

 けれど、一つだけ。

 白の少女は、通路の先へ足を進めようとする黒の青年の服を不意に掴み、引き止める。

 振り向いた彼に何か言いたげに唇を震わせたが、結局、声にすることはなかった。

 服から手を離し、ゆっくり、はっきりと頭を振るだけ。

 顔が見えてしまわないようフードを抑えながら、少しだけ黒の青年を見上げた白の少女の唇は、何かを訴えるように薄っすらと開き、閉じた。


「ありがとう」


 黒の青年は、そんな白の少女に柔らかく微笑んだ。

 金色の目にあるのは、無でも、怒りでもなかった。

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