第1話 白の少女①

「ア、アダマントだ!」

「捕まえろ!」


 焦燥に任せた研究者の声が飛び交う中、白い影が敏速に駆ける。

 本来の用途とは異なり、メスをナイフのように持ち振り被る研究者の手首を、細い指の伸びる小さな手が弾き、軌道をずらす。

 流れるままに研究者の腹へ膝を突き上げ、呻き声を漏らし倒れ込んだその手からメスを奪い取り、次に向かって来た者の刃を受け止めた。

 空いた手で手首を押さえることで自分の体重を支え、顎に目掛けて足を振り上げると、痛々しい鈍い音が響く。

 声も出せず倒れる体を飛び越え、一人、また一人と迎え撃つ。


「亡霊め!」


 吐き捨てられた言葉と耳をつんざく銃声に、白い影が焦る素振りなく振り返ると、顔の高さで不自然に静止している銃弾の輪郭を、ぐるりぐるりと纏わり付くように風が撫でていた。

 白い影へ銃口を向け、あんぐりと口を開け硬直している研究者へ向けて、そっと指先を伸ばせば、銃弾は風に弾き出され発砲した当人の衣服を掠め、壁にめり込んだ。


「ひぃ!」


 それは恐怖心を煽るのには充分で、彼は蒼褪め、腰から崩れ落ちる。

 一歩一歩、着実に距離を詰めてくる白い影から距離を取ろうと、座り込んだまま床を蹴って後ずさるが、すぐ後ろの壁が後退を許してはくれなかった。


「ぁ、あ……ば、ば」


 呂律が回らず、声がうまく言葉にならない。

 うわ言のように零れ落ち、ようやく形になったのは……。


「化け物……っ」


 分かりやすい、拒絶の言葉。

 言うだけ言って彼は意識を失い、研究者で意識のある者はいなくなった。

 白い影は研究者の最後の言葉など聞こえていないかのように無反応で、あっさりと彼から視線を逸らし周囲を見回す。

 モニターやメーターを初めとした様々な精密機器と、複数の手術台。そして、そこに寝かされているのは拘束具で四肢を縛り付けられた子供だった。


「あ、あの……」


 困惑の声が上がった方へ視線を固定すると、手術台に縛り付けられたままの少年が、なんとか顔だけをこちらに向けていた。

 彼へ歩みを進めた白い影は、拘束バンドを外し上体を起き上がらせると、頭のてっぺんから爪先まで視線を滑らせ、おもむろに服の上から腹や背をそっと撫でていく。

 そして少年が痛みに呻くと、その箇所から手を離し、代わりに頭を撫でた。


「大丈夫」


 抑揚のない声で一言そう呟き、ボサボサになった少年の癖のある黒髪を梳かすように撫でていく。

 頭を行き来する手の感触に少年が惚けた顔をしていると、白い影はもう一度「大丈夫」と零して、別の子供の元へと向かってしまっていた。


「……あれ?」


 自分がされたように別の子供達が撫でられ、「大丈夫」と声を掛けられているのを眺めていた少年は、自分の体に違和感を覚えた。


「痛くない」


 今の今まで腹に痛みがあったはずなのに、それがなくなっているのだ。

 服を捲ってみると、そこにあるはずの傷が……研究者に“切り裂かれた”傷がなくなっていた。


「……もしかして」


 まさか。という可能性が脳裏に浮かぶが、それを確かめようという気持ちの余裕は、今の彼にはまだなかった。

 今理解できるのは、意識を失い倒れている研究者の存在と、一人一人に掛けられる「大丈夫」という言葉で得られる現実だけ。

 自分達は助けられたのだと。少年は慌てて仲間の拘束を解き始める。


「ね、ねぇ。私達……」

「うん。そうだよ。助かったんだ、僕達。……助けて、もらえたんだ」


 目に涙を浮かべ、震える声で現状を問う少女の声に答えようとして、少年は自分の声も、拘束を解こうとする手も震えていることに気が付いた。

 自分も、涙を流していることに。


「こんなの……夢みたいだ」


 嗚咽を漏らしながら、ようやく一人の拘束を解き終わる頃には、白い影が全ての子供達の拘束を解き終えていた。

 情けないなんて思いは、少年が拘束を解いた少女を白い影が撫でた後、褒めるように少年の頭を撫でてくれたことで霧散した。


「あり、がとう。おねえさん」


 弱々しい声で礼を告げる少年に、白い影……白の少女は、一枚の紙を握らせた。


「大丈夫」


 そして今一度、そう呟くのだ。

 二つ折りにされた紙を見ると、それはある場所へ向かうことのみを目的とされた地図で、白の少女は一点を指先で示す。

 おそらく、研究所を出てそこへ向かえということなのだろうと、確証を得るために少年は彼女を見遣る。


「ごめんなさい」

「……え?」


 彼に向けられたのは、求めていた確証である相槌に加え、矛先の分からない謝罪だった。

 思わず漏れた声に疑問が乗るが、白の少女がそれに答えることはなかった。

 上がりも、下がりもしない口角は、感情を読み取らせてはくれない。


「おねえさん……?」


 少年は咄嗟に白の少女の腕を掴んだ。それは直感だった。

 研究者から解放し、逃げ場所まで与えようとしてくれている、まるで神様のような彼女が、雪のように溶けていなくなってしまうのではと。

 そんな漠然とした不安に駆られた。


「……大丈夫」


 白の少女の返答が遅れたのは、少年の言葉に驚いたからか。さして意味なんてないのか。

 声色や仕草、どれをとっても彼女の本心が分かるような機微はなく。そっと頭を撫でてくれた手に、少年は答えを見つけることができなかった。

 白の少女が少年の手を取り、立ち上がらせると、それを真似て子供達が立ち上がる。

 彼等をぐるりと見回してから、ゆっくりと歩みを進める白の少女の後ろ姿は、まるで着いておいでとでも言っているようで、子供達は直感に従い彼女の後に続いた。

 道中、子供達は幾つもの質問を彼女に投げ掛けた。

 どうして助けてくれたの?

 どこから来たの?

 一人で危ないところに来て恐くない?

 これからどこに行くの?

 一緒に来てくれる?

 おねえさんの名前は?


「…………」


 どんな問い掛けをしようと、白の少女の結ばれた唇はついぞ開かれることはなかったが。


「行こう、みんな」


 白の少女には、子供達と行動を共にするつもりはない。

 彼女の態度からそう察していた癖毛の少年が、別れを名残惜しむ子供達を促すと、白の少女は「さようなら」と言うように手を振り、少年の行動が正しかったことを裏付けた。

 子供達は幼い。けれど、命を救われたという事の重大さを少なからず理解しているのだろう。

 納得はできなくとも、白の少女と離れることに、嫌だと我儘を口にする者はいなかった。


「大丈夫」


 不安は消えない。研究者への、非能力者への恐怖も消えない。けれど、何度も繰り返し送られるその言葉は、耳によく残った。

 これから向かう“先”のことを考え、不安が顔を覗かせたとき、きっと白の少女がくれた言葉が脳裏を過る。

 それは、必ず子供達の癒しとなり、力となるだろう。

 少年に促されるまま、子供達は全員が感謝を告げてから、白の少女に背を向け去り始めた。

 最後に少年が深々と頭を下げ、感謝を告げる。


「ありがとう。レグノのおねえさん」


 少し歪な、しかし綺麗な笑みを浮かべ、少年は子供達の輪の中に混ざって行った。

 顔を上げれば、空には暗闇が広がっている。

 地下の暗闇は子供達を苦しめるだけだったろうが、この暗闇は今は子供達の姿を隠し、散らばった小さな光は眼前をほのかに照らし、彼等を守り導いてくれるだろう。

 一人残った白の少女は、その光から目を逸らし、暗闇に身を投じた。

 誰も私を見つけてくれるなと。誰も、私を探してくれるなと言うように。

 その背を見送るのは、忘れられたように咲いた、一輪の真っ白なリコリスの花だけ。

 たとえば、大勢の中から一人の人間を区別しようとしたとき、人は何を見てその個人を見分けるだろうか。

 体格、顔立ち、性別、目の色、髪の長さ、等々。

 一人の人間を確立するのは、そういった肉体を構成するいくつもの要素や、口調、表情、眼差し、仕草など、生きていく中で養われる要素。

 そしてその個人は名前を得ることで、より確かな個人として存在することができる。

 もし、これらの多くを他者が認識できなかったとしたら、その個人はどんな人間として人々の記憶に残るのだろうか。

 髪が長い。細身。白い服を着ている。女性。

 それらは確かに誰かを示す特徴になり得るが、それら全てに当てはまる人は、たった一人というわけではない。

 世界に何百、何千といるかもしれない中の一人にすぎないのだ。

 個人を識別するのは、名前。

 それすら他者に認知されていなかったとしたら、その個人は人々の中に埋もれてしまうだろう。

 埋もれ、雪のように溶け、いつしか出会った人の記憶からも曖昧に消えていき、誰もその個人を見つけることはできないだろう。

 君は誰?

 その問いに答えない彼女は。

 一緒に行こう。

 その誘いに耳を塞ぐ彼女は。

 他者の目にどう写るだろう。

「ありがとう」という感謝にも、「化け物」という拒絶にも、等しく反応を示さない。

 笑顔もなければ、涙もない。

 ただ頭にインプットされた命令に従うように動く様は、冷たい人形のように見えるだろうか。

 死人のように、見えるだろうか。

 ある者達は、彼女は名前を忘れてしまったのだと話す。

 無念を晴らそうと彷徨う内、帰る場所も名前も忘れてしまった、哀れな亡霊だと。

 けれど、彼女に触れられた者、救われた者は知っている。

 彼女の手がどれほど優しく触れてくれるのかを。温かく小さな手は、とても悲しいことを知っている。

 その手を取ることが許される誰かが現れる日を、心から願う。

 もしも、そんな誰かが現れたなら。

 彼女は名前を思い出すことができるだろうか。

 笑うことが、涙を流すことができるだろうか。

 いつか。どうか。

 祈りは、彼女が誰かを救った数だけ、増えていく。







 この世界では、特殊な力を持つ者と持たざる者が存在し、前者はアダマントと呼ばれている。

 火を生み出す者、物を自在に操る者、肉体を変化させる者。

 物質に携わる能力や精神に携わる能力。創造、破壊、変化。能力に規則性はなく、その種類は数知れず。

 彼等の存在はこの世界の誕生と共に在ったのか、はたまた突然変異か。未だに判明していない。

 非能力者に比べて数が少ないアダマントは、いつの時代でも畏怖の存在として扱われていた。

 特異な者を恐れるのは、人の性なのだろう。研究者に実験対象として捕らえられることも裏の世では珍しくないことだ。

 だが、表の世で平穏に暮らす非能力者のほとんどは知らない。

 罪のないアダマントが受けた残虐な仕打ちを。

 捕まったが最後、死も同然だと言われるほど、彼等にとって生きづらい世界だということを。

 知らない者が多過ぎる。

 知ろうとしない者が多過ぎる。

 陽の光を浴びる。たったそれだけのことで喜び、涙する者だっていることを。

 明日の平穏を疑わず、当然のように柔らかなベットで眠る者は、明日を迎えられるのかと不安を抱きながら、硬い床で寒さに震える者の気持ちを知らない。

 何も、知らないのだ。

 彼等が忌み嫌うアダマントという存在が、蓋を開けてみれば如何に自分達と大差ない、ただの人間であるのかを。

 いつか、思い知るべきなのだ。

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