第11話 曇り空の約束
月は見えない。星も疎らだ。この島の夜に珍しく、薄い雲が星月夜を霞ませていた。キサラは明かりを消して床に座り、じっと空を眺める。隣のアレキサンドラも珍しく静かだ。あまりもののクレープを頬張ってはいたが。
いつだったかも、こうして曇った夜空を見た。熱心に星を探す横顔をキサラは覚えている。明希良きらの横顔を。
「いい奴だったんだよ。本当に。研修旅行でさ。同じ班になって以来の友達だった」
ちゃんと話したのは、最終日の前夜だった。交流会と称した宴会に嫌気がさし、ホテルの庭で涼んでいた時だ。生温い夜風を払う、朝の小鳥の声で話しかけられた。
『如月くん、隣いいかな?』
あまり話したことがない上に、異性だ。周りにいらない噂を立てられるから断りたかったが、人なつこい笑顔になにも言えなかった。明希良きらはニコニコと取り留めない話をした。適当に相槌を打つ内に、こちらも楽しくなる。身体中から生きる歓びが溢れて眩しい、本当に胸に小鳥を飼っているんじゃないだろうか?明希良きらはそんな人だった。
『ヒバリんとは絶対友達になろうって決めてた!ほら、お互い変な名前!』
『失礼だな。俺は別に変だと思ってねえよ。……ちょっと性別間違えたかなとは思うけど』
『わかる。私もお婆ちゃんがつけてくれたから嫌いじゃないけど……明希良きら!まさにキラキラネームとか言われて虐められるしさあ!まあ全員ぶっ飛ばしたけど』
派遣される地域も同じだったので、他の同期や友人知人も交えてよく遊んだ。仕事の悩みも喜びも、明希良きらと共有して支え合って……。
「アキラキラさん、好きだったんですか?」
「どうかな……わからない」
ただひたすら、あの小鳥の声と笑顔が胸に沁みて、消えてくれない。
「素敵な方だったんですね。彼女」
アレキサンドラは慎重に言葉を紡ぐ。ただでさえ、キサラは打ちのめされていた。マーギが渡した資料によって。
長い間、マーギは自分を召喚した男について調べ続けていた。しかし、それらしい魔法使いは見つからなかった。恐らくエルフかハーフエルフ。髪の色はエルフの間では忌み嫌われ、また稀少である紫紺。そして召喚術を使えるだけの魔力と技術を持つ。これだけの特徴があるにもかかわらずだ。糸車になってからも、銅の糸紡ぎらに頼んで調べたがらちが明かなかった。だが、気になって仕方ない。五十年ほど前、思い余ってミストラに相談した。自分が異世界人だと打ち明けた上でだ。薄々察していたのか、ミストラは驚かずに受け入れ、マーギの記憶を垣間見た。そして、堕ちた戦友の顔を見たのだった。
ブーカドゥーカの情報、その姿と存在は忌避された。二十八魔法使いや死霊呪術に関する書籍からも抹消されていたので、マーギがどれだけ資料を漁っても分からなかったのだ。が、ミストラはマーギに口止めをした。確信が得られるまで沈黙しろと。
(ミストラ。君は彼を庇うのか?)
アレキサンドラの脳裏にかつての仲間たちが浮かぶ。皆、復讐や怒りや恐怖に突き動かされていたが……それだけではなかった。
「どうした?」
「いえ、僕もお会いしたかったなー。なんて」
「うん。……お前、口説いたろうなあ」
キサラは少しだけ笑い、横を向いた。一瞬だけ潤んだ瞳が目に入ったが、アレキサンドラは何も言わなかった。しばし、潮騒と風の音に浸る。
「アレキサンドラ、頼みがある。本当に召喚されているなら助けてやりたい」
口にしてキサラは改めて自覚した。ずっと後悔している。あの会社に入ったことじゃない。明希良きら、アッキーを助けれなかったことを。アレキサンドラは意識して明るい声を出す。
「お任せ下さい。このアレキサンドラがちょちょいのちょいで解決して差し上げます!」
「そのちょちょいで俺は……まあいい。それともう一つ頼みたい」
「ええ、構いませんよ。単純なあなたの願いなんて、簡単に予想つきま……危ない!ここ借家なんだから暴れないで!」
波音に二つ分の叫び声が響き、やがて笑い声に変わっていった。
「話は決まったな。ゴンちゃんが帰ってきたら飯にするか。今夜はすごいぞ。でかい貝を丸ごと使った鍋だ」
「それもキサラさんの創作料理なんですか?ならレシピにまとめないと」
まずはお前で毒味だと笑うキサラ。美味いが有毒の貝を使っている。教わったとおり毒抜きをしているが、確実に抜けているかはわからない。酷いと悲鳴が上がるが無視だ。
「ふたり、なに、はしゃいでる?」
ゴンちゃんが帰ってきた。地元の出版社に頼まれた絵を収めに行ったのだが、専属にならないかと長く引き止められてしまったのだ。
「お帰りゴンちゃん!ゴンちゃんには確実に安全で美味しい海藻の実サラダと野菜スープ麺だよ。デザートはウミウリのゼリー寄せ!」
「扱いの差!酷い!」
「じごうじとく。きさら、はやく、たべたい」
二人に料理を振る舞いながらキサラは沢山笑った。笑って笑って、少しだけ滲んだ涙にあらゆる感情を溶かして零した。
その雫を、薄雲に包まれた月だけが見ていた。
同じ頃、間木はまたあの歌に浸っていた。きっと今頃、ローレイラも夜の歌を歌っていると信じながら。そしてそれは事実だった。
ローレイラは歌う。今日も明日もずっと歌う。恋なんてしないはずだったのにと歌う。ラティーシアにはならないと決めていたのにと。
ラティーシア、ローレイラがやっと五十歳になった年の春、空と海に帰ったセイレーン。番と決めた獣人の男がやってこなくなり、嘆き悲しみ食を絶ったのだ。断食後もしばらくは変わらぬ様子だったが、ある日を境にみるみる干からびた。滑らかだった肌は流木に、輝いていた瞳は腐った海藻に、艶やかだった金の髪も翼も尾っぽも白々と乾いた珊瑚の死骸。驚いたローレイラが無理に食べさせようとしたが、首を振って拒絶するばかり。
「ラティーシアお願い!死なないで!男なんて遊んで捨てるものだって言ってたじゃない!」
その時、ラティーシアの瞳が微かに光った。闇に燃えて消え落ちる寸前の、流星の輝きで。
「あの人は違う、そう信じるのが恋よ」
心変わりした男が?通わなくなって三年経った。男は商人で、この近辺の島々を周り特産品を商っていた。バルバンド内海まで来た際、ラティーシアを見初めたのだ。それはもう熱烈に口説いた。あっさり振られたが、めげずに通い詰めること一年。仕事でどうしても通えぬ時期はあったが、それ以外は雨だろうと通い、歌で海に落とされても翼で殴られても海に逃げられてもめげなかった。とうとう、ラティーシアは折れて契った。男の優しさと、想像以上の熱意に絆されて。
「かならず迎えに来る。待っていてくれ」
男は故郷に帰らないといけない事情ができたとかで、来なくなった。二年は待てたラティーシアだったが、三年で全てを諦めてしまう。
「あの人をこんなに信じるつもりはなかったの。少し遊んであげるつもりだった。でも駄目。もう私は選んだ。いいえ、これしか選べない。ああ、だけど待つだけは疲れた。私たち、どうして遠くへ行けないの。あの人の故郷に行きたかったな……」
死に様は壮絶だった。まだ生きているのに、ラティーシアは歌で海鳥と魚を呼んで身を食わせたのだ。くり抜かれる目玉、裂ける皮膚、溢れる血、無残に飛び散る羽。噛み砕かれる鱗、貪られる肉、しゃぶられる尾。
最後まで止めようとしたローレイラの目の前で全ては起こり、後にはわずかな残骸だけが残る。
「ラティーシア……」
金の髪を掬い上げた。男が渡した髪飾りと肉片がこびりついていた。これが、恋の代価なのだろうか?
ローレイラは恋の無残さと恐ろしさを知った。
さらに残酷なことが、男が再びバルバンド内海を訪れた時に起こった。
「ラティーシア!どこだい?やっと来れたよ!」
嬉しそうに尾を振ってやって来た男。ローレイラは脳を壊してやろうとしたが、周りは止めた。しかも、ラティーシアがどうなったか男に教えてやったのだ。結果はまた無残だった。男は族長から結婚の許可を得るため、三年間厳しい試練に耐えていたのだ。
「嘘だ!手紙を送った!届かないかもしれないから知り合いの商人にも言付けを頼んだんだ!」
男とラティーシアの結婚を許せない者たちが仕組んだことだった。万事悟った男は瞳をギラつかせ唸る。
「あいつら……ミンナ、クッテコロス」
ウルルル……低く唸り来た道を引き返していく。たまらずローレイラは追いかけて、あの髪の毛を渡した。もう肉片は溶けてなくなっていたが、髪を飾っていた木ノ実はまだ絡みついている。男がこさえた髪飾りだ。
「アア……ラティーシア……オレヲ、シンジテタ……」
引き返した男は、ローレイラたちにラティーシアが最期を迎えた場所を聞いた。不吉な予感に口をつぐむが、一番年かさのセイレーンは教えてやった。
「あんたに悔いが残らないなら」
「アリガトウ……サヨナラダ」
まもなく、血が吹き出る音と遠吠えが響いた。
この出来事は、ローレイラから恋や男遊びをする気をなくさせた。さらには、海辺から離れられない不自由で半端な身の上を嘆かせる。幼い時は、いつか陸の街へ行き買い物をしたり、海底の珊瑚林をどこまでも散歩できると信じていた。出来やしないのだ。遠くへ行くことも恋をすることも己に禁じていた。なのに、マーギと出会い、見つめ合っただけですべてが手遅れになってしまうなんて。
マーギは、あまりに無垢で優しい人間だった。ローレイラを見つめる眼差しは、どこか遠く眩しいものをみるようで、後にそれは尊敬や憧れと呼ばれる感情によると知った。しかも、日増しにその感情は強まり更に別の、もっと熱っぽい感情が混じっていった。ああ、海原が朝日に煮える時の色だ。夜を燃やして新しい日をもたらす。マーギはローレイラの知らないもの全てを持っているかのよう。
糸紡ぎの預かりになってから会いに来てくれた時は、一段と燃え上がった眼差しでローレイラを見た。ローレイラは何故だか居た堪れず、そんな目でみないでと懇願してしまった。
「空にも陸にも海にもずっとは居れない。私たち、本当に半端でつまらない生き物よ」
「そんなことあるもんか!」
ローレイラは耳を疑った。マーギが大声をだすなんて。と、信じられなかった。次に目を疑った。マーギの瞳には、これまでの比ではない情熱が燃えて輝いていたから。
「君たちはとても勇敢でたのもしくて、それに……き、綺麗だ!」
綺麗なのは貴方よ。私たちを蔑まない、讃える貴方よ。言葉にならない。胸がいっぱいで、目眩がした。
「ローレイラ、僕はもう此処には来れない。理由は聞かないで欲しい。だけど、君をずっと想っている」
なら側にいてとは、ローレイラは言えなかった。元々、別れは決まっていたのだ。三百年は生きるセイレーンと、百年生きるのも稀な人間なのだから。
「歌を教えるよ。僕が小さいころ大好きだった歌を。空に憧れて翼を求める歌さ。君といる時、海は泳げても空は飛べないから翼が欲しかった。でも、もういいんだ。そばに居れなくても、空を飛べなくても、同じ空と海の間で生きていける」
(ええ、そうねマーギ。ずっと想っている。出会ってからずいぶん経ったけど、あなたを想わなかった日はない。もうすぐ死んでしまうと知った今だって)
歌をやめて宮殿を眺めるローレイラ。夜の闇の中でも仄かに輝く……マーギを繋ぐ牢獄。魚や海藻を食べていたセイレーンたちが、ローレイラを心配して寄ってきた。
「ローレイラ、あんたも食べないの?海葡萄草、よく熟れてて美味しいよ。サトウフジツボもこんな大きいのが獲れたんだ」
「このテングウオ自分の獲物じゃん。昨日も食べてなかっ……た」
「まさか、ローレイラ」
夜空に長い髪をなびかせ、ローレイラは宮殿を見つめながら再び歌を歌いだした。長い長い歌を。余命わずかな番に捧げる歌を。
ーーーマーギ、マーギ、私のマーギ。ここは空と海が出会う場所。翼があってもなくても、貴方が逝く所に私は逝くーーー
歌は夜のハイバル島を包み、空と海を震わせいつまでも響いた。いつまでも、いつまでも。
「でも、本当にそれでいいの?」
小鳥の声が囁くまで。
忙しい日々が続く。キサラのクレープの屋台は連日盛況、ゴンちゃんは皮の引き上げと運搬に大活躍、アレキサンドラは宮殿書庫で調べ物に没頭した。
一週間が経過して、一行は再び宮殿に向かった。ゴンちゃんにも事情を説明した上で、今後の方針を間木とミストラと相談する為だ。ミトがミストラの媒体になっていると聞いたキサラたちは飛び上がって驚いた。
「俺、めっちゃ気安く話しかけちまった……不敬だって処刑されねーだろうな」
「大丈夫ですよう。あの子は魔物とか職務が絡まなきゃ穏やかなあだだだだだ!ゴンちゃんなんで!」
「だいじなこと、さっさと、いう!」
喧嘩しつつも宮殿に着いた。出迎えた銅の糸紡ぎたちが口々に挨拶し、平伏せんばかりに頭を下げた。
「アレキサンドラ様!キサラさん!ゴンさん!お忙しいのにありがとうございます!」
「これも私共の不出来ゆえ!申し訳ございません!」
「お、おう?気にしないでくれよ。こっちだって仕事なんだしよ」
あまりの勢いに引きつつ階段を上がる。事情を知るアレキサンドラが意地悪く口元を歪めた。
「みーんな、たーっぷり絞られたんですって。ミストラったら、監視してたのはルカリアだけじゃなかったと」
「どこが穏やかなんだよ。怖えよ」
「しっ!きこえる、かも」
おっかなびっくり最上階まで登る。階段でもひっきりなしに挨拶されて落ち着かない。普段はこんなに激しく人の行き来をしていないはずだが。次第に、彼らがなにか作業しているらしいと気づく。何人かが壁に手を当て詠唱している。キサラは作業内容が気になったが、今は自分たちの仕事が先だ。気を引き締めて最上階まで上がった。入ってすぐ、ミストラの依代であるミトがいた。今日は顔を隠していないな。そう思うか思わないか、ようやくキサラは気づいた。貝の殻越しに降り注ぐ光を浴びて立つ人は。
「待ってたよ。ヒバリん」
にっこり笑って出迎えたのは、明希良きらだった。
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