第8話 糸車の秘密・前編

 琥珀の色味を増した光が、壁を淡い薔薇色にする。マーギにとって、視界の変化はこの身になってからの大切な楽しみの一つだった。最近は一つ増えた。親切な大魔法使いに心から感謝した。

 目をつぶり、耳に意識を集中させる。魔力を得て耳の中に入れられた小粒の巻貝が震え、歌を伝える。懐かしく愛おしい歌を。

 歌っている人の姿がありありと見えた。岩と珊瑚で出来た住処の上、喉を晒して髪と翼を風に遊ばせ、滑らかな青い尾を輝かせている。マーギが見つめているのに気づいたのか、こちらに向いて破顔した。波飛沫の溌剌さ。死への願望を祓った笑顔。

 かつて、マーギは死のうと思った。恐らくそうだった。自分自身も周りも、醜悪で救い難く愚か過ぎた。未来は汚水の色をして、現在の挫折をさらに深める。


ーーーシャランーーー


 思考が途切れる。靴裏から伝わる振動が来訪を告げた。歌を止めて視線を動かす。入口に佇む人影。その背に翼があったので一瞬、ありえない期待をしたが、すぐに親切な大魔法使いの連れだとわかった。マーギは大魔法使いだけでなく、このハルピュイアにも好感を抱いていたので眦を緩める。ハルピュイアの口が大きく開閉する。


『側に行っていいか?話がある』


「どうぞ。構いませんよ」


 何かあったのだろうか?疑問だったが、大して構えていなかった。キサラはなんとも複雑な……躊躇いと決意が混じる表情で近づき、バスケットから手のひら大の巻貝を二つ取り出した。一方を自分の口元に、一方をマーギの耳元に当てる。魔法が発動した。


「間木エリアマネージャー。覚えてるか?如月雲雀だ。楠月原西店の店長だった」


 マーギの止まりかけの心臓が変に鳴った。マギ、エリアマネージャー、キサラギヒバリ、クスヅキバラニシテン。もう聞くはずがない名前の羅列。キサラは苦笑いして貝と貝を繋ぐ細い魔力糸を引っ張った。


「懐かしいよな。糸電話」


 電話はこの世界にはない。では本当かとマーギは目の前のハルピュイアを注視した。かつての面影は全くない。だが、困った時に少しだけ首をかしげる仕草と話し方には覚えがあった。


「ずいぶんと可愛らしい姿になったね。如月くん」


 砕けた口調。嗄れた声のままなのに若々しく響く。だが、顔つきは懐かしさと苦々しさに更に老け込む。

 あの時、マーギこと間木は「ここでブレーキを踏まなければいい」と思ってしまった。名案だ。急カーブ、ガードレールの下は長い斜面、山中だから迷惑にはならない。警察は事故と判断するだろう。家族には保険がおりる。いいことづくめだ。ブレーキから足を外した。間も無く、ガードレールがひしゃげ、ヘッドライトが砕ける音が同時に響いた。

そして、この世界に流れ着いた。

キサラもまた、口元に苦さを浮かべた。記憶の海底に堆積していた、最も惨めな過去が蘇る。

 間木とは、当初は仲が良かった。売り上げを伸ばす為にフェアを考えたり集客を増やすべく研究を重ねたりと、共に苦労を分かち合った。それが、惨めに叱責される側と傲慢に叱責する側になったのはいつからだったか。


「今はあんたを憎んじゃいない」


 自分に言い聞かせた。あれは過去で、持ち出すべきではないと。


「……ただ黙っておくのも変だし、気になってな。体、大丈夫なのか?」


 間木は目元を和らげた。隠し切れない屈託はあるものの、気遣う言葉は本心だ。


(お人好しめ、相変わらずだ)


「もう長くないよ。魔法使いにはなったけど、役目が役目だからね。……むしろよく持った方さ」


 ひゅっと息を飲む音が伝わった。金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見る。


「あんた、俺たちと来い。あんまりだろ」


 柔らかで温かく、優しい手のひらが間木の肩を掴んだ。だが、皺だらけで骨ばった手が引き剥がそうとする。あまりに弱々しい力で。黒い瞳がギラリと光った。それは死にゆく星の最期の光。


「僕から役目を奪わないでくれ。やっと見つけたんだ」


 誇らしく宣い、キサラの手をゆっくりと剥がしていった。しかし、キサラは掴む力を強めて臆する心を奮い起こした。


「ローレイラを一人にする気か?ずっとあんたを待ってるんだぞ!」


「彼女は僕を待たない」


 星の光は翳り、穏やかな闇となる。


「追ってくる。僕には見えている。そしてそれが一番だってことも。だから邪魔しないでくれ」


 キサラは二つの闇の中にローレイラの姿を見た気がした。マーギとの思い出を語った姿を。

 ローレイラがマーギの為に歌う歌は、他のセイレーンとは違う節回しだった。そして、矢張りどこか懐かしい。気になって確認した。


「マーギが教えてくれたの。空を飛ぶために翼を欲しがる歌だって」


 瞬間、小学校や中学校の音楽の授業で必ずといっていいほど習う歌が蘇り、引っかかっていた全てが繋がった。マーギの声に聞き覚えがあった。風邪をひいた時の間木の声だ。混乱するキサラを置いてローレイラが続ける。


「昔の私は砂浜を歩く脚が欲しかったの。海の中で息をすることも、陸の上で長くいることもできない半端な身体なんて嫌だった。でも、マーギはそのままでいいって、できないことに憧れる気持ちごと私が好きだって……」


 そうだったのか。確かに、セイレーンたちは街に行かない。理由があったとは。


「如月くん、少し昔話をさせてくれ」


 間木の声に我に帰る。すでに青い光が手のひらから溢れていた。


「人間の死体?珍しいわね」


 その人間を見つけたのはローレイラだった。波間を力なく漂う姿に死体だろうと無視しかけ、体がほんのりと輝いているのに気づく。魔法使いが放つ光だ。よく見ると体の表面は濡れておらず、薄い光の膜で守られているらしい。口元に手を当てるとわずかに息をしていた。生きているなら助けてやろう。


「どうせ暇だしね」


 この頃のハイバル島は緩やかな停滞の時を迎えていた。大戦の爪痕は癒えたものの、観光業も今ほど栄えておらず、島を出る者も多かった。水先人としてセイレーンたちを雇うのは漁師たちだけで、それもあまり頻繁ではない。珍客は歓迎だ。長い髪で死体もどきを住処に運ぶ。海藻と抜けた羽根でこしらえた寝床に寝かせてやった。


「ちょっと皆!ローレイラがやっと男を連れ込んだわよ!」


「死体じゃないか。やめろよ生臭い」


「お人形遊びでもする気?ネンネちゃんはこれだから」


 騒ぐ周りに反応する余裕はなかった。横たわった死体もどきの体から光が消えてしまった。まさか死んだかと顔を覗き込み、瞼がゆっくりと開くのを見た。

 闇の黒が二つ現れ、小さな星が点る。その星の輝きは、ローレイラが幼い頃に追いかけた流れ星の色だった。しばらく流れ星が瞬くのを見つめていたが、呻き声に我に返る。


「よかった。生きてる。どこか痛いところはない?」


「空じゃないのか……」


「え?」


 意味不明な返しに目が点になった。混乱しているのか、狂気に至っているのかと危惧したが。


「瞳……綺麗だから……空だと……」


 それだけ呟いて、また瞼が落ちて流れ星は消えてしまった。


「情熱的よねマーギって」


「止めてくれよ。あの時はぼんやりしてたんだ」


 あれから半年以上が経ち、死体もどきはすっかり元気になっていた。ただ、記憶は殆どなく名前しかわからない。しかも、それすら曖昧だった。


「名前……僕の?……つ、ぐ……?む……。いや、ま、ま、ぎ?あー、つぐ……ま……まー、ぎ?」


 ローレイラは切れ切れの音から耳馴染みのある名前を作った。『マーギ』は、昔いた銀の糸紡ぎの名だ。


「魚人なのに魔法使いになった変わり者。優しいお爺ちゃんでね、私たちとよく遊んでくれたの。あなたに少し似ていたし、ぴったり!」


「変わり者……お爺ちゃん……」


 マーギとしては納得出来なかったが、あまりにローレイラが無邪気に笑うので拒否出来なかった。それにすぐ、好きになった。


「マーギ、マーギ、私のマーギ」


 ローレイラが名を呼ぶ。呼ぶ声は目に見えない泡となり弾け、耳を心地よくくすぐる。ローレイラがセイレーンだからではない、ローレイラだからだと悟るのに時間はかからなかった。

 ローレイラ、海を泳ぎ空を飛ぶ、二つの青を繋ぐセイレーンの娘。マーギを救い、番に選んだただ一人。


「また港に働きに行くの?なにか欲しいなら私たちが拾った真珠か珊瑚を持っていけばいいのに」


「働きたいからいいんだ。港の皆も親切だしね」


 第一、甘えっぱなしでは情けな過ぎる。マーギは頼られるようになりたかった。夜には帰ると手を振って港の工房街まで歩く。目指すは珊瑚や貝でビーズを作っている工房の一つだ。


「お、来たかマーギ」


 親方が鱗を煌めかせて手を振った。


「今日もお世話になります」


 ペコリとお辞儀するのに笑い声が上がる。幾つか馬鹿にした響きがあったが、気にしないようにした。余所者というだけで蔑む輩はどこにでもいるものだ。


「相変わらず変に畏まった奴だな。まあ、真面目なのはいいこった。その調子で頼むぜ」


「はい。精一杯頑張ります」


 最初は砂浜で綺麗な珊瑚や貝を拾って換金していた。見目の美しさだけでなく、色や大きさで分けて持ってくる丁寧さと真面目さに親方が目を付け、手伝わせるようになったのだ。気安いようで排他的なセイレーンたちが側に置いているのも人柄を裏付けた。


「いいよなあヒモは。毎日かわいがってもらってんだろ?」


「絞られて大変だよなあ。なんなら変わってやるぜ」


 いつもの下卑た声を無視する。彼らはセイレーンたちに相手にされない憂さ晴らしをしたいだけだ。時に海の娼婦と渾名される彼女らは、子を成す為に多種族から種を受ける。ただし、滅多に番を定めない上に懐妊するのは稀だ。無理に想いを遂げようとすれば、歌で鼓膜を破られるか髪で絞め殺される。気高い人たちを侮辱され不快ではあるが「言ってもわからない馬鹿に構うな」と、セイレーンはおろか友人知人から釘を刺されている。気を取り直し、仕事に集中する。


「親方、緋色貝と東雲貝を拾ったんですが使えますか?」


 海藻の紐でしっかり括った二枚貝を開く、ひび割れていたり、砕けているが鮮やかな夕陽と朝焼け色の貝たちが詰まっていた。


「悪くない色だな……大きさも厚みもある。これは明日削れ。今日は日没までに青珊瑚玉を二十、月光貝を三十だ」


 口元を覆うバショウの布、穴の空いた珊瑚の細切れ、淡く輝く貝殻を渡される。珊瑚は球形に、貝は二枚貝の形を出来るだけ保ち螺鈿部分だけが残るよう磨き上げる。

 まずは優先順位の高い珊瑚からだ。穴にテッセンカの蔓から作った棒を通し、床に胡座をかいて水の入った手桶を股ぐらで固定する。手桶には浅い溝が何本か入っており、棒を固定したり回転させたりしてヤスリをかける。ヤスリはケズリザメの皮で出来ていて、皮をとった場所によって目の粗さが違った。尾っぽ、背鰭、背中、胴体、腹の順に細かくなっていく。慌てず、丹念に、歪みや削り過ぎがないか確認しながら。太陽が真上に来る頃には、十八個仕上げることができた。出来も悪くない。だが、まだまだだ。


(集客力があっても商品の提供が遅れれば意味がない。人員不足だ超過勤務だと不満を言う前に、そうならないよう努力を)


 十九個目の青珊瑚玉を棒ごと床に落としてしまった。隣が渡してくれるが、頭痛が治まらず唸り声しか出ない。たまにあることだ。マーギの頭の中、マーギの声で誰かが意味不明なことを話す。


「マーギ、休憩しよう。工房長、飯時だしいいですよね?」


 快く許可が下り、外に出ることが出来た。爽やかな潮風を腹一杯吸えば、だいぶ楽になった。


「ありがとうイルルカ。奢るよ」


「気にすんな!いや、ありがたく奢られるけどな。団子麺にするか?あげ団子サンドにするか?」


「魚団子好き過ぎだろ。麺がいい。僕はたっぷりリモンを絞った冷たい奴にする」


「お前はリモン好き過ぎだ」


 たわいない話をしながら行きつけの飯屋に行く。芋で作った麺は最近の流行りで、まだ扱っている店が少ない。予想より人がごった返していてすし詰め状態だ。流行りもあるが、急に旅人が増えたからだとイルルカは訳知り顔だ。ここを舞台にした吟遊詩人の歌や物語が大陸中で歌われ読まれているらしい。実際、宿や店が足りないと皆が言っている。


「イルルカ、君の作品を売り込むチャンスじゃないか」


「作品って……大袈裟だな。爺さん婆さんの手慰みの真似だよ」


 イルルカは幼い頃に両親を亡くし、祖父母の家で育った。彼らは昔気質の職人で、リヴァイアサンの皮を加工して生計を立てている。しかし、需要が低く島全体を探しても数カ所しか工房が残ってない。島民の晴れ着はリヴァイアサンの皮と決まっているが、先祖代々受け継いだ物を使うことが多い上、若い世代は別の島文化に夢中だ。


「逆に君たち特有の文化を必要とする島もあるはずだし、観光客相手にはうってつけだよ。大体、あんな見事で美しい皮細工は無くしちゃいけない……ってえ!」


バシンと肩を叩かれた。


「やめろよ。お前さんは真っ直ぐ過ぎていけねえ」


 真っ青になって照れるイルルカ。マーギは痛みに耐えつつ、微笑ましくて笑った。イルルカさえその気になれば、幾らでも売り込み先はあるし協力するつもりだ。互いに好物を味わいながら、更に話に花を咲かせた。


「ここも一杯だな。座れそうにねえ」


「兄ぃ、持ち帰りにしますか?」


「ここが空くぜ。座んなよ」


 店を覗き込むリザードンの二人にイルルカが声をかける。顔馴染みのテッセンカ取りたちだ。イルルカは森の中で染料になる植物を探すので、森に住む彼らと親しいのだ。


「へえ、人間たあ珍しいな。森のことでわからねえことがあったら俺っちに聞けよ?」


「おいらも教えてあげますからね!」


「半人前がぬかしやがる」


「はは。ありがとう、ぜひ頼みます」


 軽口を交わしつつ店を後にする。マーギたちは工房に戻って仕事にかかる。しっかり休憩したのが良かったのか、残りはかなり早く終わった。明日の分に取り掛かろうとするのを、工房長が止める。早く終わったなら早く帰れとのことだ。同じく作業を終えたイルルカも同意してマーギを引きずる。お互いの家に帰る前に、また食事をしようと昼とは違う店に向かう。今度はイルルカが奢る気だ。この男、荒っぽいところもあるが律儀で気っ風がいい。


「子蟹のガーリク揚げが美味い店でな。後はクルル鳥に米を詰めて煮た奴とパパヤ炒めも外せない」


「烏賊墨のスープはある?あれ美味しいんだよね」


「で、リモン汁をたっぷり。だろ?」


 なんて事もない、いつもの会話だった。


「そういや、あいつらも上がりかな。ほら昼に会ったテッセンカ取りのココナとナツツ。夕方まで森にいるって……」


 パチン!マーギの視界にここではない場所、今ではない時間の光景が浮かぶ。島はほとんど平地だが、中央部の数カ所がわずかに盛り上がっているので、いくつか崖がある。夕焼けの頃、その崖の一つが崩れる。崖の岩肌に蔓延ったテッセンカとそれを取る二人と共に。


「イルルカ!二人はどこだ?」


 確信があった。これはただの白昼夢ではない。


 ココナとナツツは夢中で岩肌に張り付き、テッセンカを引っこ抜いていた。そこら中に緑がかった黒い蔓が伸び放題で、濃淡様々な青や紫の透明な花たちも咲き誇っている。蔓も価値があるが、魔法の触媒になる花はそれ以上だ。またかなり儚く、咲いたら摘まないと三日で砕け散ってしまう。カケラは新たなテッセンカの種となるが、また生えるまで数十年はかかる。群生地を見つけれたのは思いがけない幸運だった。


「兄ィ!取っても取っても取りきれねえですね!」


「おう!こんな場所は始めてだな!根こそぎとは言わねえが、取りまくるぞ!」


 はしゃぐ彼らは、普段なら気付く不吉な音に気づかなかった。それは、奥深く根付いたテッセンカの蔓でひび割れた岩肌が軋み、崩壊する音だ。


「ココナ!ナツツ!今すぐ降りろ!」


「あん?イルルカと人間の兄ちゃんじゃねえか」


「イルルカの兄ィ!マーギさん!二人もテッセンカ取りですか?」


「いいから降りて下さい!」


 呑気に手を振るココナたちに降りるよう説得する。半信半疑ながら、甲斐あって二人は降りた。だが、マーギたちの側に行くまでに崩壊が始まってしまう。ガラガラ崩れていく岩、走って逃げるココナたち。しかし、二人の上に巨大な礫が降りかかろうとした。


「マーギ!よせ!」


考える間もなく走っていた。二人に覆い被さり念じる。


(僕を包んで守っていた青い光、本当なら今すぐ僕たちを守れ!)


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