陽炎少女
綾波 彗
陽炎少女
「やあ、少年」
ふいに声をかけられ、しゃがみこんだまま見上げた“少年”は、大きく目を見開いた。先ほどまで居たクラスの奴らよりもひとまわり小さい少女。夏の暑さに耐えるでもなく、ただそこだけが別の季節を生きているかのような。そんな花のような、ふんわりとした笑顔のその少女の姿に瞬間、息が止まった。
.......なんで、君がここに。
内臓が浮き上がるような寒気に襲われる。と同時に、殴られた傷の残る腹部がズキズキと痛み、歯を食いしばる。
悟られぬよう平静を装いスッと立ち上がると、くるりと背を向け、少し先に置き去りにしたスクールバックを拾いに行く。体についていた葉っぱやらやらごみやらが自然と落ちていくのがわかったが、落ちていようと体にまとわりついていようと別に構わなかった。そんなものいつだって気にならなかったが、今は本当に、それどころではなかった。
「あれ、無視? つれないなぁー」
耳元でクスクスと笑う声と頭の奥を酷く振動させる鼓動に気づかないふりをしながら、よれた鞄を拾い上げる。開いたままのそれから、ボロボロのノートと財布と、入れた覚えのない大量のスナック菓子の包装紙が零れ落ちる。もちろん中身は既にない。
「反応がないと寂しいじゃんかぁー」
おどけた声で少女が言う。
視界の端に、艶やかな黒髪と口の端の上がった少女の影を捉え、反射的に目線をそらす。こぼれ出たものを中に戻し入れて、意味もなく何度もそれをかばんの奥へと押しやる。ほかに何かし忘れたことはと考えを巡らせたが、それらしきものはついに見つからなかった。
大きく息を吸ってから、致し方なくゆっくりと振り返る。
二、三歩先、少年の通う高校とは違う制服姿の少女がちょこんと立っている。少女が少し首を傾げて、肩上で綺麗に切りそろえられたショートボブの髪をふわりと揺らす。
冷えた汗が一雫、首筋を流れていくのを感じながら、ようやく腹をくくってひと言目を発する。
「.......なに」
「お、やーっと反応してくれた!」
少女が赤みを帯びた頬を緩め満面の笑みを浮かべて、少年の横に並び立とうとする。
少年はそれをするりと難なくかわし帰路につく。もはや一種の癖のような、感覚的に身についた動きだった。
「あーもう! 逃げないで人の話くらい聞きたまえ少年!」
「.......放っておいてくれないか」
足を運ぶたび全身の関節が悲鳴をあげている。その痛みの信号をごまかすよう強く爪を立ててこぶしを握り、段々と足を速める。日陰もなく太陽にジリジリと焼かれながら、汗で濡れた肌が風にあてられてヒヤッとする。.......どうにも好きになれない感触だ。
「ねえ、待ってってばー!」
後ろから少女の声が続く。
「.......来ちゃだめだ」
誰にも聞こえないほどの声でボソッと呟き、奥歯をギシリと噛む。
「ねえ!」
やめてくれ、頼むからもう.......これ以上関わらないでくれ.......
「ねえ、ユウ!」
不意に名前を呼ばれ、ビクッと反射的に反応を示した全身の力がふと緩む。瞬間全身を駆け巡る、神経を刺すような痛み。
「.......ッ!」
「ほーら言わんこっちゃない」
痛みに耐えかねその場にしゃがみ込んだ。
横から少女がスッと顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「.......いいからほっといて」
足首が心臓の鼓動にあわせてズキズキ痛む。しばらく立ち上がれなさそうだ。
はぁー.......と深くため息をつく。ここまで酷いのは久しぶりだった。よりによって何故今日.......
「ひとまず応急処置だけでも.......」
「あっ、ま、待っ」
こちらへ手を伸ばす少女に、はっと我に返ってしりもちをついたまま後ずさる。
触れられるのはまずい。そう、本能的に感じた。
露骨すぎたかなと、恐る恐る少女の方を見やる。
容赦なく照りつける、真夏の逆光の中で.......少女は少しだけ、悲しそうな顔をしていた。
「ご、ごめ.......」
「もう、無茶しないでよね」
遮るように少女が、仕方ないなあといった笑顔で言う。その笑顔が、どこか苦しげに見えて。少年の喉奥を締め付けた。
直視できずに、さっと目線をそらす。
「.......っていうかその.......な、なんで来たんだよ」
たどたどしくも話題を逸らそうと口に出してから、はたと自分の過ちに気づく。
理由もなくわざわざ僕の前に現れたなんてことは、ありえない。なればこそ。
少女が何をしに来たのか、それを聞いてしまったら.......触れたくない何かに、触れられてしまう、そんな気がする。
無意識に体がこわばる。
それを知ってか知らずか、少女はむう、と変わらぬ調子で口を尖らせる。
「それはだってー、ユウが心配だから.......」
「心配ってそんな、僕は全然大丈夫.......」
大丈夫、なんて自分で言っておきながら、腹の奥がズキッと痛む。取り繕うだけの口先と違ってなんとも身体は正直だ。
「ユウの嘘つき、こんだけ怪我して大丈夫とかありえないし」
「ご、ごもっともで.......」
少女がしゃかみ込みながらあさっての方を向き、ハァーっと大袈裟に肩でため息をついてみせる。気の抜けるようなその仕草の前でさえ、心内に得もしれぬ緊張感を持たずにはいられなかった。
「大丈夫、大丈夫って言って全然大丈夫じゃないところ、昔っから変わってないなあ」
そう言って少女は懐かしそうに、寂しそうに、笑って目を細める。
少年はやっぱり、少女を直視できなかった。
彼女はそれを横目に見、影のない眩しいアスファルトの地面へと目を伏せた。
そこに少年の詰め損ねたキーホルダー.......重ねるとひとつの形になるような、ペアものの片割れを見つけ.......何かを噛み締めるように胸に抱いた。
それを大事にそっと手のひらに仕舞い込み、少女が徐に口を開く。
「ねえ、ユウ.......」
ふと、周りの暑苦しい空気すらも跳ね除けるように、向き直った少女の目から静かに熱がひく。
透き通る宝石のような、美しい濃い焦げ茶色の瞳が真っ向から少年を見つめる。その瞳に吸い寄せられ目が合って、喚きたてる蝉の声も真夏の異様な暑さも、全てが澄んだ空気ひとつで切り離された世界のもののような奇妙な感覚に陥っていく。
.......ああ、駄目だ、もう何も言わないでくれ。
「本当にこのままで、いいと思ってるの?」
彼女の一言に心臓が、一際大きくドクンと鼓動を打った。
彼女はきっと.......全て見透かした上で言っているのだ。そう気付かされて、どうしようもない吐き気に襲われた。今まで薄皮1枚で溜め込んできた重苦しい何かが、胸の奥で弾け、どろりと溶けだすような。
「.......っ」
反射的に口を開こうとし、その瞳の真剣さにたじろぎ目が泳ぐ。あまりにもまっすぐな視線に対抗するかのように、少年のなかで激しく感情が渦巻く。
“このままでいい?”
いつも彼らのいいように扱われて。集団で暴力を振るわれるのも日常茶飯事で。誰一人もう、頼れる人なんかいなくて。ずっと.......ずっと、耐えてきた。そんなの今更で、もう慣れたと思っていた。これでいいんだと、受け入れたはずだった。
なのになんで、僕は今。
「.......いいわけ、ないじゃないか」
自分の吐き出した言葉に、そしてその弱々しさに驚いた。.......こんなことを言うつもりはなかったはずなのに。
少女の一点の曇りもない瞳に耐えきれず目を伏せる。
握りしめた拳の中から、生ぬるい液体がどろりと指先へ伝う。
何か、言わなくては。でも、なにを言えばいいのかも分からない。自分がなにを考えているのかすらよく分からない。彼女の前では、自分も知らない本心が引きずり出されそうで.......早まる鼓動と冷えていく身体の内が、どうにも照りつける夏の日差しに相応しくなかった。
ただ混濁する思考の中でひとつだけ、分かりきったことがある。
先程の少女の発言、自分の発言をただ、どうしようもなく否定したい。どうしたってやはり、認める訳にはいかない。だって.......と、声を絞り出すように口を開く。
「......だからなんだって言うんだよ、」
現状を変えようったって今更どうにもならない。自分がその立場になるとは微塵も考えたことのない人たちは「自分を変えろ」なんて簡単に言うけれど、そんな生易しいものじゃない。変わればいいなんて、ただそれだけだなんて、そんな。
.......また、失ってしまうかもしれない。
もう何も失いたくない。
なのにそれを.......
「よりによってなんで君が.......!」
いつの間にか目尻が熱くなっているを感じながら強く目をつむって、頭の中を意識が交錯する。
僕が我慢すればいい。そうすれば、誰にも迷惑をかけずに済む。
慣れてしまえばいい。そうすれば、つらいとさえ感じなくなる。
逃げようとするから、抵抗するから、余計に酷くなる。悲劇が起きる。あの夏の日のように。
それを誰よりも知ってるはずのこの少女にだけは、言われたくなかった.......言わせたくなかった。
「もう、嫌なんだよ.......誰かを失うのは.......」
縋るような、情けない声で俯いた。
全部全部、僕のせいだ、僕が悪いんだ。
だから失うくらいならいっそもう、このままで。
「バカッ!」
ふいに、目の前の少女が感傷的に叫び、驚いてハッと顔をあげる。違う世界に迷い込んだかのように感じていた真夏の空気が、突として現実味を帯び殴りかかってくるかのように伸し掛る。
肩をわなわなと震わせ、両手で包んだ何かを握りしめて、俯いたままの少女が続ける。
「そうやって全部一人で背負い込んで、自分ばっか責めて.......」
少女が、ひどく歪ませた顔をあげた。悲しみと、憤りと、切なさと、優しさと、もう形容のしようのない表情で。先程までとうって変わったその有様に、何も言えずただ目を見開く。
「一緒にいられなくたって、ずっと見守ってるから、だから.......」
少女のその瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「だからお願い.......諦めないで.......」
目が離せないまま固まっている少年を、そっと少女が抱き寄せる。真夏の太陽に焼かれているというのに、奇妙な熱気と寒気は少しも感じなくなっていた。どこか懐かしい、優しさで溢れるような温かさに包み込まれ.......朦朧とする意識の中で少年は、ちょうど一年前のことを思い出していた。
僕には、幼稚園の頃からの幼馴染がいた。元々体が他の人たちよりも少しだけ弱くてどんくさい僕を、父親がおらず母親も倒れがちで誰にも頼れないでいた僕を、彼女は.......明香音は、いつも助けてくれた。彼女は運動神経が抜群によく力持ちで、明るくてあか抜けていて、さらに頭まですこぶる良いときている。僕とは正反対だったが、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。「これ、カレカノみたいじゃない!?なーんちゃって」「これでいつでも一緒だね」と、明香音の半分冗談みたいな提案でペアのキーホルダーを買ってしまうくらいには、お互いが大切な存在だったのだと思う。
高校は分かれてしまって一緒にいられることも少なくなったけれど、明香音離れして自立するんだ、と意気込んでいた。
.......入学して最初の一カ月までは。
ある日――顔中殴られて傷だらけになった日、家に帰る途中で、偶然ばったり明香音に会ってしまった。その時の激しく憤慨した彼女の顔が、はっきり脳裏に焼き付いている。
僕の学校に乗り込む勢いの彼女を、僕は必死に「僕は大丈夫だから」とだけ、何度も言って抑えた。僕のために怒ってくれるのが嬉しかった。心配してくれるのが嬉しかった。それで舞い上がって、明香音がいれば僕はなんだってできると、一種のうぬぼれに陥っていた。
「自分の意志できっぱり、『やめて』って言わなきゃ駄目だからね?」
僕の何倍もつよいくせに何倍も涙脆い彼女は、瞳を潤ませながらひどく真剣な顔でそう言った。何かあったらすぐ私に言ってね、無理はしちゃダメからね、と。
僕は明香音の言う通りにすることにした。
明香音が心の支えになっていたのは本当だ。
.......だが、すべてが上手くいく、そう信じて疑わなかったのは、とんだ思い違いだった。
「もうやめてくれよ!」
たった、その一言だった。言うのに自分が思っていたほど大して勇気なんて必要なかった。僕には明香音がいる。応援してくれている。これくらい自分で解決してやる。そう思って真正面から言い放った一言。これですべてが終わると思っていた。
それが、僕の中での”終わり”の始まりだった。
普段どんくさくてのろまで、なにをされても言われるがままにしていたような奴に、突然燃えるような目で真っ向から歯向かわれたのだ。彼らはどうしても、それが気に食わなかった。
僕に暴力を振るっていた五人組に見覚えもない路地裏に引きずり込まれ、これでもかというほど殴られた。抵抗する術なんてものは僕にはなかった。
殴って、殴って、彼らは気が済むと、唾を吐き捨てそのまま僕を置き去りにしていった。
全身に力が入らず、視界もぼやけた状態で途方に暮れるしかなかった。真っ先に頭に浮かんだのは、この有様を知ったら明香音は悲しむだろうか、ということだった。また心配をかける前になんとかしなくては.......という意思も痛みに薄れ、意識を失った。
それからどれくらいたっただろうか。気が付いた時には、知らない3人の大きな人達に囲まれていた。
助けに来てくれた.......訳ではなかった。腕に刺青を入れ、片手に鈍器を持って.......金でも要求されているのだろうか。それすらも意識の裏側でもう、なにも。
元から身体が弱いうえ全身ボロボロで、僕は既に満身創痍だった。ともすればこのまま暑さで死にかねない程に。つくづくツイてないな.....と諦めかけた時だった。
「優っ!!」
くぐもった脳裏にそれでも鮮明に聞こえた、聞き慣れた声。
呼吸を乱し、髪を乱し、駆け込んできたのはほかでもない明香音だった。
初めて、明香音が助けに来てくれたことを嬉しくないと思った。泣きそうになった。目の前の奴らは確実に、本当にヤバイ奴ら、だ。明香音も何をされるか分からない。
「あ.......か、に、にげ.......」
自分のかすれ声が耳の奥で虚しく響き、明香音が駆け寄ってくるのを感じながら.......不甲斐ない僕はそのまま、気を失った。
結論から言うと、僕らは助かった。
少しだけ意識を取り戻し朦朧としながら、手を引かれて走った記憶はなんとなくある。通り沿いの道から路地裏へ続く細道の入口あたりで気が付いたとき、彼女は額を切ったらしく血がにじんでいたが、それ以外は特に外傷もないという。
僕が倒れた後、明香音は明らかにガラの悪い大人相手に怯むことなく、金銭目当てならと手持ちの千円札を四方八方ばら撒いて逃げようとした.......らしい。それでも追ってくる彼らに、優等生な彼女は筆箱に常備されたカッターで、自分に近寄る腕を、足を、夢中で威嚇し薙ぎ払って、なんとか逃げてきたんだ、と、ヒーロー気取りなどや顔で、さもやんちゃな問題児の武勇伝のように雄弁に語った。
「うーん、野口英世じゃなくて福沢諭吉だったらよかったのかなあ」
なんてくすくす笑いながら言うものだから、僕はすっかり安心して、彼女の異変に気が付くことができなかった。
明香音は既に救急車も呼んでくれたらしく、本当にいつにも増して頼もしかった。その人一倍の強さが、何故か少し、危うく儚いような気がした。
「残った小銭で手当てできるもの買ってくるからさ。ちゃんと安静にしててよね!すぐに戻ってくるから!」
そう言って彼女は微笑み、止める間もなく向かいのコンビニへ駆け出していった。
それが彼女の最期の言葉だった。
目の前の青信号を渡っている最中に、突然彼女は倒れた。
なんの前触れもなく、全身の力が抜けるように。
そこへ曲がってきた自動車が、速度を緩めずそのまま一直線に突っ込んだ。
一瞬の出来事だった。
何が起きたのか理解できなかった。
道端の葉っぱを踏みつけるように、水溜まりをものともせず弾き飛ばすように、車が通り過ぎた。ただそれだけ。
眩しいほどに澄み切った青い空に、どす黒い血の色、ぐちゃぐちゃになって横たわる少女の亡骸、放り出された鞄と壊れたキーホルダー、騒然とする人々、尚も視界を通りすぎてゆく重苦しい機械の塊、蝉の鳴き声に救急車のサイレン。
それら全てをを、陽炎が飲み込んでいって。
音がぷつりと途切れ、景色が反転した。
そのまま僕は一週間目覚めなかった。
後から聞いた話だと、彼女は右足を捻挫していたのと、みぞおち付近に強く殴られたような大きな痣があったらしい。ただ、遺体の損傷が激しすぎて、どういった経緯で出来た痣か定かではないという。僕の病室にも警察が事情を聞きに来た.......ようだが、放心状態の僕は何も話すことができなかった。僕はタチの悪い不良に絡まれ重傷、明香音は事故死ということで処理され、遺品も全て彼女の親族へと引き渡されて.......ひとつの夏が終わった。
僕のせいだ。今思えば全部、彼女なりの精いっぱいの見栄っ張りだったのだ。僕を安心させようとして、自分の怪我はほったらかして。
僕がもっと強ければ、僕にもっと力があれば.......
いや、違う。そもそも反抗なんかしなければ、彼女を僕の事情に巻き込まなければ。彼女が僕を助けに来ることも庇うこともなかった。そうしたら、あんな事故にだってあわなかったんじゃないか。
何も出来なかった自分が不甲斐なくて、情けなくて、全部が嫌になった。何も出来ない僕は何もしなければいい、誰にも迷惑をかけないように。そう思うようになった。
でも.......と、長いこと心の奥に仕舞っていた心残りが、ふと湧き上がった。
守られてばかりで、僕は一度だって彼女を守ることができなかった。それでも彼女は、いつも僕のそばにいて笑っていてくれた。
なのに、僕はまだ、彼女に――
目が覚めると僕は、慣れ親しんだ住宅街の道の端で、壁に背を持たれかけていた。
「.......夢?」
どれくらい眠っていたのだろう。アスファルトの地面に触れたままの足にじんわりと熱が篭っている。
そうだ、今日は彼らにコンビニでパシられて、「あの子」を逃がしたのを見られて、また殴られたあげく足も捻って、それから.......
大きくため息をついて、空を見上げる。
「いるわけないもんな.......そうだよな.......」
今日は陽炎が一段と濃い。日差しも強いし風も弱い。僕は今夏バテ気味で満身創痍、幻覚のひとつ見たっておかしくないだろう。
こんな炎天下に長時間いたら本当に倒れてしまう。早く帰らないとな、と足に力を入れて、痛みがひいていることに気づく。これなら立ち上がれる。
「あ、よくなった? 立てそう?」
危うく、足の調子が戻った甲斐なく今度は腰が抜けるところだった。
恐る恐る声の主の方へ顔を向けると、純真無垢な笑顔で、例の少女が僕の足をつつくフリをしていた。
「.......これはまだ夢の中なのかな」
「夢ではないねぇ、たぶん」
「多分って.......なんなんだよもう.......」
「久しぶりに会ったのに、ユウは嬉しくないの?」
寂しげに微笑んで少女が問う。
「それは.......そうだけど、でも.......」
これが夢だろうと幻覚だろうと幽霊だろうと、彼女に会えるのは.......嬉しい。
でも僕のせいで彼女は.......と考えると、どんな顔を向けていいか分からない。
彼女は、不甲斐ない僕に怒っているんじゃないか、恨んでいるんじゃないか。そんな子ではない事くらい自分が一番わかっているのに、どうしても考えずには居られなかった。なんで僕だけが生きているのか、なんであの時彼女の怪我に気づけなかったのか.......後悔の波ばかりが押し寄せて押し潰されそうになる。
そうして僕は、考えることを放棄した。誰も彼も、僕に関わってろくなことはない。だからもう誰にも頼らない。全部自分ひとりで抱えればいい。そう結論付けて、彼女のことを棚にあげ、なにもかも諦めて.......
はは、と力なく息が漏れる。
「僕はつくづく、どうしようもない人間なんだな」
「いいや、ユウは優しい子だよ!」
うんうん、と頷きながら彼女がそう言う。
「そんなわけ、」
優しいのは君だ。僕は結局、君に何もしてあげられなかったのに。それなのにどうして君はまだ僕に.......そんな、素直な明るい笑顔を向けられるんだ。
「ユウは優しい子だよ。だって今日、なんでそんな傷だらけになったのか忘れたの?」
「それ、は.......」
彼女が現れる前、コンビニで彼らのご要望の駄菓子を買って戻る途中.......一匹の猫を見かけた。体中傷ついて横たわっているその猫に、ランドセルを背負った子供たちが石をなげつけて遊んでいた。
理不尽に石を投げつけられてる弱々しい猫が、それでも動かずにじっとうずくまってるあの子が、どうしても自分みたいに見えて。同時に、僕が何かすることでまた怒りをかって、あの子が殺されでもしたらって、足がすくんで。
“優しさ”や“良心”があったから、なんてものじゃない。ただこのまま、何もせず目の前で傷つけられ、弱って、死んでしまったとしたら。明香音のときみたいにまた、自分は何もできないままだ。そんなのはもう.......
「嫌だ」って。
「ねぇ、ユウ。自分でも気がついてるんでしょ?」
「気づいてる.......何に.......」
彼女がまた、花のようにふっと微笑む。その笑顔に不意打ちされて、思わずドキッとする。
.......そうだ、僕は。いつもお転婆な彼女が時折見せるその笑顔が好きで、でもそれを守れなかったのがつらくて悔しくて情けなくて。
ぐっと唇を噛んで、傷ついたままの拳を強く握る。促すように彼女が首をかしげまた、儚げに笑った。否応なく心を溶かすその温かさに、拒む気ももう失せていた。
ああ。だから、やっぱり、僕は。
「明香音.......僕、」
喉の奥が締め付けられるように痛い。口が思うように動かない。
でも.......今、言わないでどうする。
まだ少し痛む全身で深呼吸をして.......ゆっくりと口を開く。
「僕、ずっと.......なにもできなくて、また、失うんじゃないか、って」
思い出して震える喉を、必死に抑え込む。
「だからもう、なにもしたくなくて、自分からなにかを変えようなんて.......」
一度口からこぼれ出した言葉が、軋む身体の痛みなんて無視して、驚くほど素直にぽろぽろとこぼれては紡がれていく。明香音と目が合って、混濁していた頭の中が、霧が晴れていくように澄み渡っていく。
分かっていた。自分さえ我慢すればいいからだなんて、そんなのはただの言い訳だ。僕はただ。
「怖くて.......」
あの日からも僕は、ずっとずっと、臆病なままで。でも。
「でも、そんなんじゃいつまでたっても.......またなにもできないままで。そんなのはもう.......嫌、だから.......」
目の前で、少女が見守るようにじっとこちらを見つめている。
僕は彼女が.......明香音がいるから強くなれるんだ。
理由なんてなんだっていいじゃないか。
だったら僕は。明香音が見守っていてくれるというのなら。
あの日、明香音を守れなかった僕を、自分の意志じゃ何もできなかった僕を。
そのままになんてしておけない、こんな自分はもう嫌だから。
だから――
「.......変わりたい」
初めて口に出した言葉だった。
口に出したとたんに、目から熱くてしょっぱいものが溢れ出してきた。
数年ぶりの涙だった。一年前のあの時ですら、頭が真っ白で、なにも考えたくなくて、根元から枯れきってしまったように出てこなかったのに。
彼女は何度も何度も、僕のことを助けてくれた。思えばいつも、彼女から僕への一方通行だった。
そうして彼女に救ってもらった命だ。それを棒に振るなんて.......そんなの彼女が報われない。いや、報われる、報われない、じゃない。
そうだ。
「自分のことくらい、自分で決められないでどうするんだよ.......!」
柄にもなくクソッと一言吐き捨て、両頬を手でバシンと叩く。あの夏の日、僕は彼女に言われるがままに、借り物の言葉を投げつけた。自分の意志で、などと言って、初めから自分の意志でもなんでもなかったじゃないか。
真っ赤に頬を腫らした僕に彼女は目を大きくして驚いて、それから。
「ユウってば、やればできる子じゃない」
たがが外れたようにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
泣き虫な彼女につられて、僕らは長いことずっと泣いていた。泣いて泣いて、泣き尽くして。ついに涙が枯れたら、今度はお互い顔を見合わせて、二人同時に吹き出した。なにがそんなに面白かったのかというわけでもなく、ただ、明香音とこうしていられるが嬉しくて楽しくて、ずっとこうしていたくて。
笑いながら、枯れたはずの温かい涙が一筋、頬を流れた。
いつから静かになったのかは分からない。
でも、この暖かい空気を壊したくなくて、口を開かなかった。ずっと、この時が続けば.......なんて、甘酸っぱくて切ないラブロマンスの歌詞でも書けそうな気分だった。
「あのさ、」
ふいに、明香音が無言を破った。
「.......私、ユウのこと大好きだからさ、いつも一緒にいられて楽しかったから、あの日は......ユウを助けられたのが本当に嬉しくて、まだ私は隣にいてあげられるんだって、安心しきっちゃってて.......自分の怪我の痛みも忘れるくらい」
えへへっ、と彼女が横髪を指に巻きつけ恥ずかしげに笑いながら言う。
ああ――彼女は今、僕のために。
「だから.......君のせいじゃないよ」
僕が一番、欲しかった言葉。僕のせいだと自分を責め続けながら、心のどこかでは欲していたであろう言葉。彼女はそれを僕に――どこまでも、こんな自分のために、包み込むような優しさで健気に伝えようとしてくれている。
「ッ.......うっ、うう」
嗚咽が止まらなかった。拭っても拭っても後から絶え間なく涙がこぼれた。抱え込んで離さなかった重荷をすっと取り除かれたようで、心がふわっと軽くなって。反動で、数年間溜め込んでいた今日何度目かの涙を溢れさせた。
彼女はただ、困ったように目を細めて微笑んで。オレンジ色の夕陽に照らされて隠れた口元は少し、震えているように見えた。
抱えていた思いも、重荷も、涙も、全部吐き出した身体は、自分のものではないように感じるほどに軽かった。軽くて、脆くて、不安定で。
でもきっともう、壊れはしないだろう。そう確信できるなにかを得た気がした。
天を仰ぐと、ふっと、潮の香りがした。
今は凪いでいるけれど、そろそろ風が吹き出すころだろう。
「.......もうすぐ、夕凪が止むね」
太陽が沈みゆく空を見つめ、名残惜しそうに彼女がぽつりと呟く。何を言わんとしているのかは、察さずにはいられなかった。
こういう時の別れってものはもっと胸を締め付けられるものだと思っていたけれど、意外にも心はすっきりとしていた。すぐ隣で彼女の笑顔を見ることも、その声も仕草も、もう感じとることすらできなくなっても。
見守っているからと、そう言ってくれたから。
「あ、そうだ!」
ふいに立ち上がり、スカートの裾をはためかせくるりと振り返った明香音が、唇に人差し指をあてていたずらっぽく笑う。
「私の『おうち』、そのうち遊びに来てよね!うちのお母さんの実家がすっごい辺鄙なところにあるもんだから大変だろうけど、絶対だからね! 来なかったら呪うから覚悟しなさい!」
そういって本当に呪わんばかりの気概でにいっと笑う彼女がおかしくって、腹を抱えながら声をあげて笑った。
「.......うん、わかった。行くよ、絶対」
「わかればよろしいっ!」
彼女が後ろで手を組んでふふっと笑う。.......その笑顔がまた、寂しげに変わる。
「それじゃあ、ユウ.......」
「あ、待って明香音! えっと、その.......」
止まっていた息を吹き返すような、熱をもった空気を肌に感じて、慌てて少女を呼び止める。
あの日、言えなかった言葉。なにをするにも謝ってばかりで、言えていなかった言葉。
「.......ありがとう、明香音。大好きだよ」
少女は一瞬、きょとんとしてから、ふっと頬を緩めて。
「.......うん」
泣きそうな顔で微笑んで、そう、一言だけ言った。
「.......じゃあまたね.......優。」
夕凪が止み、ふわりと風が頬をかすめる。
彼女は、いつもと変わらぬ笑顔で。
陽炎のようにゆらゆらと揺れたかと思うと、風に溶け込むように静かに消えていって――
足元には、壊れたキーホルダーと、薄汚れながらも大切に手入れされていた片割れとが対になって、小さく残されていた。
太陽がじりじりと照りつけ、ミーン、ミーン、と蝉がせわしなく鳴くお盆の時期の、とある田舎。長い長い階段を上り、息が上がりながらもなんとか重たい足を動かして、お寺の境内へ足を踏み入れる。
端から順々に石に掘られた名前を確認していき、ひとつの墓石の前で立ち止まる。
「あ.......あった.......」
しゃがみ込んで、はあああーっと大きく息を吐いてから、まっすぐに墓石と向き合う。
「遅くなってごめん.......久しぶり、明香音」
花を生け、墓石に水をかけ.......一通り済ませてから顔をあげ、虚空を見つめる。
「もうさあー、なんで『家』、こんなバカみたいに遠いんだよ、なかなか来る機会作れなかったじゃないか」
「けど.......約束、したもんな。必ず行くって」
初めて来た場所なのになぜか、どこか懐かしい花のような香りがした。
それから僕は、伝えたいこと、吐き出したいこと、思いつく限りのすべてを話した。あれから自分なりに頑張ったこと、やっぱりうまくいかなかったこと、でも助けてくれる仲間ができたこと。
ときに笑い、ときに泣きそうになりながら。
そうして、話すことがもう何も思い当たらなくなってしまって.......最後に彼女と話した日のことを思い出した。
四年前の、高二の夏。あの日の出来事は、夢だったのだろうか。それとも幻覚だったのだろうか。
今日も、同じだ、あの日と。場所は違えど、不思議な程に陽炎が一段と濃い。日差しも強いし風も弱い。僕は今夏バテ気味で満身創痍、幻覚のひとつ見たっておかしくないだろう。
「.......なんてな」
「おーい優!どうしたー?」
「今日の昼飯、お前の奢りだからな!」
「うわっ、まじか.......今行くよ!」
友人たちの方へ向かおうとして.......ふと、足を止める。鞄に付けた、綺麗に直されたペアもののキーホルダーが一対揺れ、ハート型に重なってカチャリと音を鳴らす。
振り返って、あの日と同じ格好、同じ笑顔でこちらを見ている、今は亡き幼馴染に目をあわせ。
ふっと頬を緩める。
「.......じゃあ、またね、明香音。」
僕はそっと、彼女の墓石にキスをした。
陽炎少女 綾波 彗 @etoile_astrea
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